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天魔波旬拝陸天(魔界の皇太子)
100:南柯之夢(五)
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「やはり鬼燎帝が言ったあのことですか?」
煬鳳の支度を手伝っていた凰黎が顔をあげた。凰黎の言葉を受けて翳黒明は振り向いた。彼の瞳は振り向いてなお、どこか遠くを見ているように思える。
「そうだ。……だからもう一度、翳冥宮に行くつもりだ」
翳冥宮には彼にとってつらい思い出が沢山あるだろう。当時のことを思い出してまた道を誤ってしまわないだろうか。
『クエェ……』
それは黒曜も同じ気持ちだったようで、ひょっこりと煬鳳の体から姿を現すと心配そうに翳黒明に向かって鳴いている。
「心配するなよ。皆に今回のことを報告したいんだ。……あれから更に時間が経って翳冥宮も酷い状態だろうが。魔界との話がまとまる前に少しでもましな状態にしておかないとな」
己の分身に心配されて翳黒明は苦笑した。元は一人の人間であるはずなのだが、いまとなっては二人ともそれぞれ独立した人格に見えるから不思議なものだ。
「そうだ、黒明。五行盟のことだけどさ」
五行盟には『黒冥翳魔という脅威を無効化できるかもしれない』ということは先に話してある。あとは翳黒明の気持ち次第で五行盟との因縁は解消できるかもしれない。
「五行盟? ……ああ、俺を封じたことが切っ掛けで発足したという同盟か」
封印されたときのことを思い出したのか、翳黒明の表情がやや険しくなった。
「そう。あいつらはお前のことを敵視している。まあ、元々はその為に発足した同盟だからな。俺も翳炎の力を持ってることで色々因縁つけられたしさ。ここらで一つ五行盟に誤解を解くために挨拶に行ってみないか?」
煬鳳としては、五行盟と翳黒明が敵対することで自分がとばっちりを喰らいたくないという思いが大半だ。とはいえ、彼も頭が冷えてまっとうな考えができるようになったのなら、変なやつらに因縁を付けられるよりは誰にも監視されることなく自由であったほうが良いだろうと思った。
「断る。……確かに俺には償いきれない罪がある。俺の中にも色々な思いがある。しかしそのことで当事者でもないやつにとやかく言われたくはないし、何よりそいつらの前に出たときに、一体俺は何と言ったらいいのか? 見当もつかない」
翳黒明は首を振る。
彼の言うことはしごくもっともだ。煬鳳とて別に五行盟にこびへつらうつもりはないし、ごまをする気もない。
「でも、さ。考えてみろよ。……翳冥宮を復興させたいんだろ? 恒凰宮は翳冥宮が滅びたことで、いま少なからず五行盟と関りを持っているんだ」
翳黒明の動きが止まった。
煬鳳が気にしていることのもう一つ。
恒凰宮はいまや五行盟とは切っても切れぬ関係ということ。そしてその原因の一端はほかでもない翳黒明の暴走に端を発しているということ。だからそのことで彼は文句を言うことはできない。
もしも翳冥宮が復興するならば、恐らくは五行盟と無関係で居続けることは不可能だろう。
「……………………なるほど。それは……面倒な話だな」
随分長い時間沈黙したあと、翳黒明は大きく溜め息をつく。いまや彼にとって翳冥宮の復興は唯一残った希望の光だ。それに関しては、黒曜の説得が大きかったのだと煬鳳は思っている。
――大切な人たちがいた場所を守りたい。
故郷を滅ぼしてしまったことを後悔する彼が、それを願わないはずがないのだ。
「……言いたいことはよく分かった。しかし、いま暫く気持ちを整理する時間が欲しい。まだ翳冥宮の件で謎も残っているし、な」
「分かった。待ってるさ」
翳黒明の言葉に煬鳳は頷いた。
* * *
盛大な帝位継承式が終了して数日後、いよいよ煬鳳たちは魔界から人界へと戻ることになった。
これから先、魔界がどうなっていくかは分からないが、できるだけ良い方向に行って欲しいと願ってやまない。煬鳳にとっては第二の故郷でもあるのだから。
翁汎は游閣恩や沌混老とは違って王城に戻ることは無く、いまも拝陸天の別邸の管理を日々こなしている。
「ここは亡き公主様と殿下……いえ、皇帝陛下が幼いころを過ごした大切な思い出の場所。私の役目はこの場所を生涯守り通すことです」
なぜ王城に戻らなかったのかと翁汎に尋ねたのだが、彼は煬鳳に向かって穏やかに微笑んだ。
「それに、公主様の大切な小鳳坊ちゃまが、想い人と共にこの場所に来て下さったという、大きな思い出が新しく加わりましたから。そんな場所を私はこれからも大切にしてゆきたいのです」
ここにやってきてからどれだけ『小鳳坊ちゃま』と呼ばれたただろうか。呼ばれるたびに恥ずかしくてむず痒いが、それでも嬉しいことに変わりはない。
「有り難う、翁汎。俺、また遊びに来るから。もちろん凰黎も連れて絶対に来るよ」
煬鳳の言葉に翁汎は嬉しそうに何度も頷く。
拝陸天は煬鳳の霊力の問題をすぐにでも解決するために共に人界へ行くと言ってきかなかったが、さすがに即位間もないというのにそのような我が儘が通るはずもない。泣く泣く拝陸天は別邸の前で馬車に乗る煬鳳を見送ることになった。
「政務を一区切りつけたら、必ずそなたの元に行く。できるだけ早く人界に赴くつもりだ。だから、それまでどうか、身体を大切にして欲しい。凰殿を悲しませることのないよう。それに……私もだ」
「うん。約束する」
煬鳳は素直に頷く。拝陸天がいま、どれほど大変な状況に置かれているか少なからず理解しているつもりだ。だから、今はその言葉だけで十分。
煬鳳にできることは、彼の想いを、そして凰黎の想いを無駄にせぬよう自分を大切にすることだけ。
これから屋敷を発つというとき。拝陸天は煬鳳の目を真っ直ぐに見て言った。
「小鳳。私はそなたのためなら、どのような協力も惜しまない。困ったときは何でも言って欲しい。頼って欲しい。妹にしてやれなかったぶんまで、そなたに出来る限りのことをしてやりたいのだ」
「陸叔公……本当に色々有り難う」
「礼を言いたいのは私のほうだ。愛すべきものがここにいる。それだけで私はこれから先、どんな困難にも立ち向かえるだろう」
愛すべきもの、それは間違いなく煬鳳のことなのだ。そう思うと嬉しいやら恥ずかしいやらで顔が熱くなる。
「お、大げさだよ」
「大げさなものか。そなたは私にとって、唯一無二の宝なのだから。……おお、そういえば宝ではないが大切なことを忘れていた」
突然思い出したかのように拝陸天が身体を離し、「暫し待て」と走って消える。
凰黎と顔を見合わせ、どうしたものかと待っていれば、拝陸天は金貪と銀瞋を連れ立って戻ってきた。彼らのほか劉鋼雲も一緒で、彼の手には何か箱のようなものが載っている。
「小……いえ、若君」
劉鋼雲はさすがに金貪や銀瞋のように小鳳坊ちゃまと呼ぶことは憚られたらしい。途中まで言いかけて慌てて『若君』と言い直す。
劉鋼雲は煬鳳の前に跪き、手に持った箱を差し出した。
「これは?」
「これは恒凰宮への、翳冥宮の件についてしたためた文だ。主にこれからどうするか、どう恒凰宮と協力していくか、といったことが書かれている。他には、翳冥宮の小宮主を立会人にすることなども書いてある」
拝陸天の言葉を受け、背後にいた翳黒明がほっと安堵の息をついたのが分かった。
「それから恒凰宮の要望通り、そう遠くないうちに翳冥宮の跡を継ぐべき巫覡の力を持つものを選び出すつもりだ。ことは慎重を期すが、翳冥宮の件は魔界にも非があること。誠実に対応し無駄に引き延ばすことはしない」
「陸叔公、有り難う。……もしそのときは、できれば黒明も立ち会わせて欲しいんだ」
「もちろん。約束しよう、元は彼らのものなのだから。彼の意見を聞きながら慎重に決めるつもりだ」
何と言うべきか戸惑っている翳黒明に、凰黎はここで言わなければ当分言えないだろうから、と話すよう彼に促す。翳黒明は躊躇いながら、それでも渋々拝陸天の前に出るとおもむろに膝をつく。
翳黒明の行動に煬鳳は驚いたが、彼が何をこれから語るつもりなのか静かに見守ることにした。
「……俺は、はじめあなたにとても失礼なことをした。……あなたは宣言通り、俺の、翳冥宮の無念を晴らしてくれた。鬼燎帝の行いを隠さず、明らかにしてくれた。俺も、魔界の者はみな同罪だと言ったことを謝罪します。……本当に、有難うございます。皇帝陛下に感謝を」
翳黒明はたどたどしく拝陸天に伝えると、最大限の謝意を持って跪拝した。
屋敷をあとにして煬鳳と凰黎は馬車に乗った。あとは関所を超えて再び人界の霧谷関へと戻るだけ。行きと違うのは荷物が増えたこと、そして二人の前には翳黒明がいること。行きは二人だったのに、帰りはおまけが増えてしまったのだ。
まあ、行きは馬車に張り付いていたらしいので、実際には行きと変わらない、のかもしれない。
「殿下……いえ、皇帝陛下は煬鳳のために協力を惜しまないと仰って下さいました。これで煬鳳と黒曜を分けるときに必要だった『血縁者の霊力』についての問題は解消されましたね。……口約束だけでも御の字だと思っていた恒凰宮の件まで解決したのは、思った以上の収穫でした」
特に前半に感情を込めながら凰黎は感慨深げに言った。思えば鸞快子が血縁者の霊力の話をしたことで、凰黎は魔界へ先に行くことを言い出したのだ。
「うん。俺もまさか血縁者が見つかると思わなかったし、俺の両親のこと聞けるとは思わなかった。人界に戻るのが少し惜しいくらいには嬉しいことばかりだったな」
もちろん半分は冗談だ。確かに魔界ではみなが煬鳳に好意的で大切にしてくれる。肉親のことを知ってくれるものがいて、心から煬鳳のことを愛してくれた。
(でも、やっぱり俺は玄烏門が好きだし、蓬静嶺には世話になってるし……何より俺たちの家はあの小屋だからな)
使用人たちに傅かれる生活よりも、気ままにのんびり、好きなときに凰黎と語らい笑いあえる、あの場所が好きだ。
それに、また魔界に行けばいい。みんなに会いに行けばいいのだ。
「私は煬鳳が行くところならどこにでも。仮に魔界だったとしても絶対に離れませんから」
「うん、俺も。凰黎がいなきゃだめだよ」
そう言って微笑んだあと、二人を見つめる視線に気づいてはっとする。
――お邪魔虫がいたんだった!
呆れた顔で翳黒明がこちらを見ていた。むしろそっぽを向いてくれたほうが幾分か有り難かったのに、と煬鳳は心の中で毒づく。
「お前、こいつの体のために魔界くんだりまで行くんだから、本当に煬鳳のことが好きなんだな」
翳黒明がおもむろに煬鳳を指して凰黎に言った。凰黎は少しも恥じらうこともなく堂々と頷く。
「そうですよ。『好き』という言葉ひとつでは言い表すことができないほど、ね」
「へいへい」
凰黎の迷いのない澄んだ瞳を向けられて、きっぱりと言い切られた翳黒明は感心半分、呆れ半分で首を振る……が、暫く黙り込んだあと、ぽつりと漏らした。
「――羨ましいよ」
「え?」
本当にそれが突然で意味がわからず煬鳳は聞き返す。翳黒明は答えを告げぬまま下を向く。
「俺も……お前のように諦めなかったら、助けられたのだろうか。皆や……あいつを……」
小さな小さな声で言った彼の言葉からは後悔がにじみ出ている。きっと、彼は何度もそうやって後悔しているのだろうと煬鳳は思った。
「あいつ? それは……弟君のことですか?」
「え?」
一瞬ぽかんとした翳黒明は、凰黎の問いかけに言葉を詰まらせた。微かに動いた口と、躊躇いの瞳。それから沈黙と響く馬車の音。
「あ……ううん。いや、なんでもない」
長い沈黙のあとで曖昧な返事を返し、何でもないというように翳黒明は頭を振る。
ただ、彼の横顔はとても寂しげに見えた。
――――――
※この先は、ちょっと寄り道をしたあと翳冥宮での話になります。
煬鳳の支度を手伝っていた凰黎が顔をあげた。凰黎の言葉を受けて翳黒明は振り向いた。彼の瞳は振り向いてなお、どこか遠くを見ているように思える。
「そうだ。……だからもう一度、翳冥宮に行くつもりだ」
翳冥宮には彼にとってつらい思い出が沢山あるだろう。当時のことを思い出してまた道を誤ってしまわないだろうか。
『クエェ……』
それは黒曜も同じ気持ちだったようで、ひょっこりと煬鳳の体から姿を現すと心配そうに翳黒明に向かって鳴いている。
「心配するなよ。皆に今回のことを報告したいんだ。……あれから更に時間が経って翳冥宮も酷い状態だろうが。魔界との話がまとまる前に少しでもましな状態にしておかないとな」
己の分身に心配されて翳黒明は苦笑した。元は一人の人間であるはずなのだが、いまとなっては二人ともそれぞれ独立した人格に見えるから不思議なものだ。
「そうだ、黒明。五行盟のことだけどさ」
五行盟には『黒冥翳魔という脅威を無効化できるかもしれない』ということは先に話してある。あとは翳黒明の気持ち次第で五行盟との因縁は解消できるかもしれない。
「五行盟? ……ああ、俺を封じたことが切っ掛けで発足したという同盟か」
封印されたときのことを思い出したのか、翳黒明の表情がやや険しくなった。
「そう。あいつらはお前のことを敵視している。まあ、元々はその為に発足した同盟だからな。俺も翳炎の力を持ってることで色々因縁つけられたしさ。ここらで一つ五行盟に誤解を解くために挨拶に行ってみないか?」
煬鳳としては、五行盟と翳黒明が敵対することで自分がとばっちりを喰らいたくないという思いが大半だ。とはいえ、彼も頭が冷えてまっとうな考えができるようになったのなら、変なやつらに因縁を付けられるよりは誰にも監視されることなく自由であったほうが良いだろうと思った。
「断る。……確かに俺には償いきれない罪がある。俺の中にも色々な思いがある。しかしそのことで当事者でもないやつにとやかく言われたくはないし、何よりそいつらの前に出たときに、一体俺は何と言ったらいいのか? 見当もつかない」
翳黒明は首を振る。
彼の言うことはしごくもっともだ。煬鳳とて別に五行盟にこびへつらうつもりはないし、ごまをする気もない。
「でも、さ。考えてみろよ。……翳冥宮を復興させたいんだろ? 恒凰宮は翳冥宮が滅びたことで、いま少なからず五行盟と関りを持っているんだ」
翳黒明の動きが止まった。
煬鳳が気にしていることのもう一つ。
恒凰宮はいまや五行盟とは切っても切れぬ関係ということ。そしてその原因の一端はほかでもない翳黒明の暴走に端を発しているということ。だからそのことで彼は文句を言うことはできない。
もしも翳冥宮が復興するならば、恐らくは五行盟と無関係で居続けることは不可能だろう。
「……………………なるほど。それは……面倒な話だな」
随分長い時間沈黙したあと、翳黒明は大きく溜め息をつく。いまや彼にとって翳冥宮の復興は唯一残った希望の光だ。それに関しては、黒曜の説得が大きかったのだと煬鳳は思っている。
――大切な人たちがいた場所を守りたい。
故郷を滅ぼしてしまったことを後悔する彼が、それを願わないはずがないのだ。
「……言いたいことはよく分かった。しかし、いま暫く気持ちを整理する時間が欲しい。まだ翳冥宮の件で謎も残っているし、な」
「分かった。待ってるさ」
翳黒明の言葉に煬鳳は頷いた。
* * *
盛大な帝位継承式が終了して数日後、いよいよ煬鳳たちは魔界から人界へと戻ることになった。
これから先、魔界がどうなっていくかは分からないが、できるだけ良い方向に行って欲しいと願ってやまない。煬鳳にとっては第二の故郷でもあるのだから。
翁汎は游閣恩や沌混老とは違って王城に戻ることは無く、いまも拝陸天の別邸の管理を日々こなしている。
「ここは亡き公主様と殿下……いえ、皇帝陛下が幼いころを過ごした大切な思い出の場所。私の役目はこの場所を生涯守り通すことです」
なぜ王城に戻らなかったのかと翁汎に尋ねたのだが、彼は煬鳳に向かって穏やかに微笑んだ。
「それに、公主様の大切な小鳳坊ちゃまが、想い人と共にこの場所に来て下さったという、大きな思い出が新しく加わりましたから。そんな場所を私はこれからも大切にしてゆきたいのです」
ここにやってきてからどれだけ『小鳳坊ちゃま』と呼ばれたただろうか。呼ばれるたびに恥ずかしくてむず痒いが、それでも嬉しいことに変わりはない。
「有り難う、翁汎。俺、また遊びに来るから。もちろん凰黎も連れて絶対に来るよ」
煬鳳の言葉に翁汎は嬉しそうに何度も頷く。
拝陸天は煬鳳の霊力の問題をすぐにでも解決するために共に人界へ行くと言ってきかなかったが、さすがに即位間もないというのにそのような我が儘が通るはずもない。泣く泣く拝陸天は別邸の前で馬車に乗る煬鳳を見送ることになった。
「政務を一区切りつけたら、必ずそなたの元に行く。できるだけ早く人界に赴くつもりだ。だから、それまでどうか、身体を大切にして欲しい。凰殿を悲しませることのないよう。それに……私もだ」
「うん。約束する」
煬鳳は素直に頷く。拝陸天がいま、どれほど大変な状況に置かれているか少なからず理解しているつもりだ。だから、今はその言葉だけで十分。
煬鳳にできることは、彼の想いを、そして凰黎の想いを無駄にせぬよう自分を大切にすることだけ。
これから屋敷を発つというとき。拝陸天は煬鳳の目を真っ直ぐに見て言った。
「小鳳。私はそなたのためなら、どのような協力も惜しまない。困ったときは何でも言って欲しい。頼って欲しい。妹にしてやれなかったぶんまで、そなたに出来る限りのことをしてやりたいのだ」
「陸叔公……本当に色々有り難う」
「礼を言いたいのは私のほうだ。愛すべきものがここにいる。それだけで私はこれから先、どんな困難にも立ち向かえるだろう」
愛すべきもの、それは間違いなく煬鳳のことなのだ。そう思うと嬉しいやら恥ずかしいやらで顔が熱くなる。
「お、大げさだよ」
「大げさなものか。そなたは私にとって、唯一無二の宝なのだから。……おお、そういえば宝ではないが大切なことを忘れていた」
突然思い出したかのように拝陸天が身体を離し、「暫し待て」と走って消える。
凰黎と顔を見合わせ、どうしたものかと待っていれば、拝陸天は金貪と銀瞋を連れ立って戻ってきた。彼らのほか劉鋼雲も一緒で、彼の手には何か箱のようなものが載っている。
「小……いえ、若君」
劉鋼雲はさすがに金貪や銀瞋のように小鳳坊ちゃまと呼ぶことは憚られたらしい。途中まで言いかけて慌てて『若君』と言い直す。
劉鋼雲は煬鳳の前に跪き、手に持った箱を差し出した。
「これは?」
「これは恒凰宮への、翳冥宮の件についてしたためた文だ。主にこれからどうするか、どう恒凰宮と協力していくか、といったことが書かれている。他には、翳冥宮の小宮主を立会人にすることなども書いてある」
拝陸天の言葉を受け、背後にいた翳黒明がほっと安堵の息をついたのが分かった。
「それから恒凰宮の要望通り、そう遠くないうちに翳冥宮の跡を継ぐべき巫覡の力を持つものを選び出すつもりだ。ことは慎重を期すが、翳冥宮の件は魔界にも非があること。誠実に対応し無駄に引き延ばすことはしない」
「陸叔公、有り難う。……もしそのときは、できれば黒明も立ち会わせて欲しいんだ」
「もちろん。約束しよう、元は彼らのものなのだから。彼の意見を聞きながら慎重に決めるつもりだ」
何と言うべきか戸惑っている翳黒明に、凰黎はここで言わなければ当分言えないだろうから、と話すよう彼に促す。翳黒明は躊躇いながら、それでも渋々拝陸天の前に出るとおもむろに膝をつく。
翳黒明の行動に煬鳳は驚いたが、彼が何をこれから語るつもりなのか静かに見守ることにした。
「……俺は、はじめあなたにとても失礼なことをした。……あなたは宣言通り、俺の、翳冥宮の無念を晴らしてくれた。鬼燎帝の行いを隠さず、明らかにしてくれた。俺も、魔界の者はみな同罪だと言ったことを謝罪します。……本当に、有難うございます。皇帝陛下に感謝を」
翳黒明はたどたどしく拝陸天に伝えると、最大限の謝意を持って跪拝した。
屋敷をあとにして煬鳳と凰黎は馬車に乗った。あとは関所を超えて再び人界の霧谷関へと戻るだけ。行きと違うのは荷物が増えたこと、そして二人の前には翳黒明がいること。行きは二人だったのに、帰りはおまけが増えてしまったのだ。
まあ、行きは馬車に張り付いていたらしいので、実際には行きと変わらない、のかもしれない。
「殿下……いえ、皇帝陛下は煬鳳のために協力を惜しまないと仰って下さいました。これで煬鳳と黒曜を分けるときに必要だった『血縁者の霊力』についての問題は解消されましたね。……口約束だけでも御の字だと思っていた恒凰宮の件まで解決したのは、思った以上の収穫でした」
特に前半に感情を込めながら凰黎は感慨深げに言った。思えば鸞快子が血縁者の霊力の話をしたことで、凰黎は魔界へ先に行くことを言い出したのだ。
「うん。俺もまさか血縁者が見つかると思わなかったし、俺の両親のこと聞けるとは思わなかった。人界に戻るのが少し惜しいくらいには嬉しいことばかりだったな」
もちろん半分は冗談だ。確かに魔界ではみなが煬鳳に好意的で大切にしてくれる。肉親のことを知ってくれるものがいて、心から煬鳳のことを愛してくれた。
(でも、やっぱり俺は玄烏門が好きだし、蓬静嶺には世話になってるし……何より俺たちの家はあの小屋だからな)
使用人たちに傅かれる生活よりも、気ままにのんびり、好きなときに凰黎と語らい笑いあえる、あの場所が好きだ。
それに、また魔界に行けばいい。みんなに会いに行けばいいのだ。
「私は煬鳳が行くところならどこにでも。仮に魔界だったとしても絶対に離れませんから」
「うん、俺も。凰黎がいなきゃだめだよ」
そう言って微笑んだあと、二人を見つめる視線に気づいてはっとする。
――お邪魔虫がいたんだった!
呆れた顔で翳黒明がこちらを見ていた。むしろそっぽを向いてくれたほうが幾分か有り難かったのに、と煬鳳は心の中で毒づく。
「お前、こいつの体のために魔界くんだりまで行くんだから、本当に煬鳳のことが好きなんだな」
翳黒明がおもむろに煬鳳を指して凰黎に言った。凰黎は少しも恥じらうこともなく堂々と頷く。
「そうですよ。『好き』という言葉ひとつでは言い表すことができないほど、ね」
「へいへい」
凰黎の迷いのない澄んだ瞳を向けられて、きっぱりと言い切られた翳黒明は感心半分、呆れ半分で首を振る……が、暫く黙り込んだあと、ぽつりと漏らした。
「――羨ましいよ」
「え?」
本当にそれが突然で意味がわからず煬鳳は聞き返す。翳黒明は答えを告げぬまま下を向く。
「俺も……お前のように諦めなかったら、助けられたのだろうか。皆や……あいつを……」
小さな小さな声で言った彼の言葉からは後悔がにじみ出ている。きっと、彼は何度もそうやって後悔しているのだろうと煬鳳は思った。
「あいつ? それは……弟君のことですか?」
「え?」
一瞬ぽかんとした翳黒明は、凰黎の問いかけに言葉を詰まらせた。微かに動いた口と、躊躇いの瞳。それから沈黙と響く馬車の音。
「あ……ううん。いや、なんでもない」
長い沈黙のあとで曖昧な返事を返し、何でもないというように翳黒明は頭を振る。
ただ、彼の横顔はとても寂しげに見えた。
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