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天魔波旬拝陸天(魔界の皇太子)
086:黒冥翳魔(四)
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煬鳳が意識を取り戻すと、すぐさま凰黎に「おかえりなさい」と抱きしめられた。傍では呆れたような顔で煬鳳たちを見ている黒冥翳魔。
それで煬鳳は、黒曜の説得が成功したことを知ったのだった。
「別に協力する気になったわけじゃない。ただ、利害が一致していると感じたから納得したまでだ」
ぷいとそっぽを向いて黒冥翳魔は言い放つ。しかし、凰黎に利害の内容を教えて貰った煬鳳は、彼は煬鳳たちが誠実に翳冥宮について向き合いさえすれば味方のままでいてくれるだろうと理解した。
「お前の中にいる黒曜に感謝するんだな」
「ああ、もちろん。信じて任せたんだしな」
「どうだか」
先日まで敵対していた相手と組むということに未だ戸惑っているのか、先ほどから素直じゃない発言ばかりが飛び出している。以前黒炎山で対峙したときは、よもや彼とこうして顔を合わせることになるとは思わなかった。
少し照れ屋なところは、黒冥翳魔の本来の姿なのだろうか。
「あ、翁汎の爺さん」
「これはこれは、小鳳坊ちゃま」
煬鳳たちが地下牢の階段を上がると、中庭の掃除をしている翁汎と出会った。彼の他にも沢山の侍従がいるはずなのだが、楽しそうな表情からも、どうやらこれは彼の趣味であるようだ。
「なあ爺さん。だいたい百年くらい前のことを知ってる、物知りなやつに心当たりないか?」
聞きたい事なら屋敷の中で一番の年長者だろう。そう思って煬鳳は翁汎に訊ねた。
「そうでございますね……。市井のことなら詳しいつもりですが、人界のこととなると話が違います。もう少し必要な情報を絞ることができるなら……」
翁汎の言葉に、凰黎は考える。
「恐らく、翳冥宮全てのものと入れ替わる、行方不明になったものの他に、わざわざ別の死体を使ってまで他の者に成り済ますことを考えると、予め相当周到な計画が裏にあったのだと思います。そのような大それたことを実行に移せて、更に人を動かすことができる。そして個人ではなく集団……あたりでしょうか」
「ふむ……となると、単なる盗賊は省いて良さそうですね。……しかも相手は人界のそれなりに由緒ある門派。元が魔界のものであるということまで知っているとなると、それなりに数は絞れるかもしれませんね」
翁汎の言葉を受けて、凰黎は「調べられそうですか?」と尋ねる。
「こう見えて昔のツテもございます。お任せ下さい! おお……そうそう。私の古い友人を紹介いたします。彼は私よりも古く長く皇帝陛下に仕えていたので、私が調べている間に話を聞いてみてはいかがでしょうか。きっと小鳳坊ちゃまが公主様の息子だと知ったら喜んで協力してくれるはずです」
そう言うと、翁汎は知り合いの名前と居場所を書きつけて煬鳳に渡してくれた。そこには『游閣恩』という文字と『水馬行街 包子店隣 鬼雀楼酒店』と場所が書かれている。
「游閣恩はかつて皇帝陛下の右丞相を務めていた人物です。いまは美味い酒と料理が食べられると評判の有名店を営んでおりますゆえ、ぜひ一度お立ち寄り下さい」
「分かったよ。ありがとな、翁汎」
煬鳳が礼を言うと、翁汎は心の底から幸せそうに微笑んでいる。孫がやってきたような気分なのだろうな、と思いつつ「じゃ、行ってくる」と一同を引き連れて煬鳳は屋敷をあとにした。
* * *
「昏坑九十一京はとんでもない広さです。はぐれないよう馬車を使うのが良いかと思いますが」
金貪に馬車で行くことも提案されたが、いかんせん目立ちすぎる。万に一つはぐれたときに備えて、煬鳳には凰黎、黒冥翳魔には金貪と銀瞋が必ず一緒に行動する、と決めて一同は昏坑九十一京の街に繰り出した。
「凄いな! 犀安とはまた違った賑やかさがあるな!」
犀安はいかにも『都』然としている洒落た街だったが、昏坑九十一京の都は活気があって賑やかだが、どことなく有象無象とした印象を受ける。ただ、煬鳳にとっては気取った場所よりは、雑多でごちゃごちゃした昏坑九十一京のほうが好ましく思えた。
出歩く人々も煬鳳たちと変わらぬように見える人間から、明らかに肌の色が違うもの――赤や紫、土気色など様々な人種がいる。頭に角があるものもいれば、獣のような耳をつけたものもいた。伊達に九十一の国が一つになっただけのことはあるというものだ。
「あっちでは講釈師がなにか話してるみたいだ! 魔界にもいるんだな!」
「あっちは大道芸をやってるぞ! 凄いな! 口の中から自分の臓器を全部取り出した! 人間技じゃないな!」
道すがら焼餅を買った煬鳳は上機嫌で凰黎の手を引いて歩く。魔界の食べ物は一体どんな珍しいものがあるのかと思ったが、案外売っているものは人界と変わらない。しいて言うなら具が少し違っていて、聞いたこともないような野菜や動物の名を聞くことが多々あった。
「さあさあ! こいつは珍しい、化蛇の干物だよ! 一本どうだい!?」
「えっ……」
煬鳳はちらりと露店の主が手に持っている化蛇の串を見る。お世辞にも化蛇としては貧相すぎる見た目の肉が串に刺さっていた。
(ありゃ、ただの蛇だな。しかもうんと小さくて弱い奴だ……)
まったく異なる肉を偽って売りつけることはよくある話だが、それは魔界も同じらしい。しかし化蛇といえば翼を持ったそれなりに強力な妖邪だ。本当に化蛇の肉で干物を作るとしたら、屋台で売るのは勿体ないくらいだし、ある程度の実力を持つものがいなければ化蛇を捕らえることなどできないだろうから、値段もそれなりの価格がつくはずだ。
ふと気になって煬鳳は自分の手の中にある焼餅を見る。一瞬、この焼餅の中にも素性の知れぬ肉が入っているのではないかと不安になったのだ。しかし幸運なことに焼餅に具は存在せず、ほどほど安心できるただの焼餅であった。
「屋台の食べ物は落差が激しすぎますね、迂闊に手は出さないほうが良いでしょう」
周囲の売り物を確認していた凰黎が囁く。煬鳳は凰黎の言葉に大きく同意して頷いた。
「ああ、俺も丁度同じことを思ったところさ。どのみち爺さんの知り合いのやってる酒楼は、美味しい料理が食べられるんだったよな。なら、そこで食べるのが一番安心だな!」
そう言うと、煬鳳は焼餅を全て口の中に詰め込んだ。
「お前らな……観光しに来たわけじゃないんだぞ」
見かねた黒冥翳魔が煬鳳を窘める。
「分かってるって! でも珍しいからちょっと気になってさ。ははは……」
「まったく……」
呆れたように黒冥翳魔は溜め息をつく。とてもつい先日襲い掛かってきた人間の言葉とは思えないし、少し前まで世間から恐れられていた大悪人だったとも思い難い。
昨日のときは見え隠れした危うさも、吹っ切れたことでいつの間にか抜けてしまったようだ。こうして見るとただの『面倒見のいい兄さん』にしか見えない。時折黒曜が煬鳳の体から抜け出して、黒冥翳魔にちょっかいをかけているが、本人同士が顔を突き合わせるというのは一体どのような気分なのだろうか。少しばかり煬鳳は気になった。
「魔界と人界は世界こそ隔てているものの、出入りの門も整備されているでしょう? 取り引きも盛んで人界にある食べ物は魔界でも、魔界の食べ物は人界でも案外手に入るものなんです。とは言っても、市場に並ぶほどは流通しませんから、いわゆる貴族の道楽として楽しまれていることが多いですね」
黒冥翳魔の隣にいた金貪は嫌な顔一つせず、煬鳳たちの観光気分に付き合っている。銀瞋は一切の興味がなさそうで「さっさと終わらせて帰ろうぜ」などと言ってはいるが、やはり腐っても二人とも皇太子の腹心の部下だ。決して黒冥翳魔の傍を離れようとはしないし、煬鳳たちの行動を遮ったり咎めるような言動は一切しない。それでいて周りの警戒は決して緩めてはおらず、彼らが歩くとき常に槍は利き手のほうに握られていた。
さすがといえば、さすがである。
それで煬鳳は、黒曜の説得が成功したことを知ったのだった。
「別に協力する気になったわけじゃない。ただ、利害が一致していると感じたから納得したまでだ」
ぷいとそっぽを向いて黒冥翳魔は言い放つ。しかし、凰黎に利害の内容を教えて貰った煬鳳は、彼は煬鳳たちが誠実に翳冥宮について向き合いさえすれば味方のままでいてくれるだろうと理解した。
「お前の中にいる黒曜に感謝するんだな」
「ああ、もちろん。信じて任せたんだしな」
「どうだか」
先日まで敵対していた相手と組むということに未だ戸惑っているのか、先ほどから素直じゃない発言ばかりが飛び出している。以前黒炎山で対峙したときは、よもや彼とこうして顔を合わせることになるとは思わなかった。
少し照れ屋なところは、黒冥翳魔の本来の姿なのだろうか。
「あ、翁汎の爺さん」
「これはこれは、小鳳坊ちゃま」
煬鳳たちが地下牢の階段を上がると、中庭の掃除をしている翁汎と出会った。彼の他にも沢山の侍従がいるはずなのだが、楽しそうな表情からも、どうやらこれは彼の趣味であるようだ。
「なあ爺さん。だいたい百年くらい前のことを知ってる、物知りなやつに心当たりないか?」
聞きたい事なら屋敷の中で一番の年長者だろう。そう思って煬鳳は翁汎に訊ねた。
「そうでございますね……。市井のことなら詳しいつもりですが、人界のこととなると話が違います。もう少し必要な情報を絞ることができるなら……」
翁汎の言葉に、凰黎は考える。
「恐らく、翳冥宮全てのものと入れ替わる、行方不明になったものの他に、わざわざ別の死体を使ってまで他の者に成り済ますことを考えると、予め相当周到な計画が裏にあったのだと思います。そのような大それたことを実行に移せて、更に人を動かすことができる。そして個人ではなく集団……あたりでしょうか」
「ふむ……となると、単なる盗賊は省いて良さそうですね。……しかも相手は人界のそれなりに由緒ある門派。元が魔界のものであるということまで知っているとなると、それなりに数は絞れるかもしれませんね」
翁汎の言葉を受けて、凰黎は「調べられそうですか?」と尋ねる。
「こう見えて昔のツテもございます。お任せ下さい! おお……そうそう。私の古い友人を紹介いたします。彼は私よりも古く長く皇帝陛下に仕えていたので、私が調べている間に話を聞いてみてはいかがでしょうか。きっと小鳳坊ちゃまが公主様の息子だと知ったら喜んで協力してくれるはずです」
そう言うと、翁汎は知り合いの名前と居場所を書きつけて煬鳳に渡してくれた。そこには『游閣恩』という文字と『水馬行街 包子店隣 鬼雀楼酒店』と場所が書かれている。
「游閣恩はかつて皇帝陛下の右丞相を務めていた人物です。いまは美味い酒と料理が食べられると評判の有名店を営んでおりますゆえ、ぜひ一度お立ち寄り下さい」
「分かったよ。ありがとな、翁汎」
煬鳳が礼を言うと、翁汎は心の底から幸せそうに微笑んでいる。孫がやってきたような気分なのだろうな、と思いつつ「じゃ、行ってくる」と一同を引き連れて煬鳳は屋敷をあとにした。
* * *
「昏坑九十一京はとんでもない広さです。はぐれないよう馬車を使うのが良いかと思いますが」
金貪に馬車で行くことも提案されたが、いかんせん目立ちすぎる。万に一つはぐれたときに備えて、煬鳳には凰黎、黒冥翳魔には金貪と銀瞋が必ず一緒に行動する、と決めて一同は昏坑九十一京の街に繰り出した。
「凄いな! 犀安とはまた違った賑やかさがあるな!」
犀安はいかにも『都』然としている洒落た街だったが、昏坑九十一京の都は活気があって賑やかだが、どことなく有象無象とした印象を受ける。ただ、煬鳳にとっては気取った場所よりは、雑多でごちゃごちゃした昏坑九十一京のほうが好ましく思えた。
出歩く人々も煬鳳たちと変わらぬように見える人間から、明らかに肌の色が違うもの――赤や紫、土気色など様々な人種がいる。頭に角があるものもいれば、獣のような耳をつけたものもいた。伊達に九十一の国が一つになっただけのことはあるというものだ。
「あっちでは講釈師がなにか話してるみたいだ! 魔界にもいるんだな!」
「あっちは大道芸をやってるぞ! 凄いな! 口の中から自分の臓器を全部取り出した! 人間技じゃないな!」
道すがら焼餅を買った煬鳳は上機嫌で凰黎の手を引いて歩く。魔界の食べ物は一体どんな珍しいものがあるのかと思ったが、案外売っているものは人界と変わらない。しいて言うなら具が少し違っていて、聞いたこともないような野菜や動物の名を聞くことが多々あった。
「さあさあ! こいつは珍しい、化蛇の干物だよ! 一本どうだい!?」
「えっ……」
煬鳳はちらりと露店の主が手に持っている化蛇の串を見る。お世辞にも化蛇としては貧相すぎる見た目の肉が串に刺さっていた。
(ありゃ、ただの蛇だな。しかもうんと小さくて弱い奴だ……)
まったく異なる肉を偽って売りつけることはよくある話だが、それは魔界も同じらしい。しかし化蛇といえば翼を持ったそれなりに強力な妖邪だ。本当に化蛇の肉で干物を作るとしたら、屋台で売るのは勿体ないくらいだし、ある程度の実力を持つものがいなければ化蛇を捕らえることなどできないだろうから、値段もそれなりの価格がつくはずだ。
ふと気になって煬鳳は自分の手の中にある焼餅を見る。一瞬、この焼餅の中にも素性の知れぬ肉が入っているのではないかと不安になったのだ。しかし幸運なことに焼餅に具は存在せず、ほどほど安心できるただの焼餅であった。
「屋台の食べ物は落差が激しすぎますね、迂闊に手は出さないほうが良いでしょう」
周囲の売り物を確認していた凰黎が囁く。煬鳳は凰黎の言葉に大きく同意して頷いた。
「ああ、俺も丁度同じことを思ったところさ。どのみち爺さんの知り合いのやってる酒楼は、美味しい料理が食べられるんだったよな。なら、そこで食べるのが一番安心だな!」
そう言うと、煬鳳は焼餅を全て口の中に詰め込んだ。
「お前らな……観光しに来たわけじゃないんだぞ」
見かねた黒冥翳魔が煬鳳を窘める。
「分かってるって! でも珍しいからちょっと気になってさ。ははは……」
「まったく……」
呆れたように黒冥翳魔は溜め息をつく。とてもつい先日襲い掛かってきた人間の言葉とは思えないし、少し前まで世間から恐れられていた大悪人だったとも思い難い。
昨日のときは見え隠れした危うさも、吹っ切れたことでいつの間にか抜けてしまったようだ。こうして見るとただの『面倒見のいい兄さん』にしか見えない。時折黒曜が煬鳳の体から抜け出して、黒冥翳魔にちょっかいをかけているが、本人同士が顔を突き合わせるというのは一体どのような気分なのだろうか。少しばかり煬鳳は気になった。
「魔界と人界は世界こそ隔てているものの、出入りの門も整備されているでしょう? 取り引きも盛んで人界にある食べ物は魔界でも、魔界の食べ物は人界でも案外手に入るものなんです。とは言っても、市場に並ぶほどは流通しませんから、いわゆる貴族の道楽として楽しまれていることが多いですね」
黒冥翳魔の隣にいた金貪は嫌な顔一つせず、煬鳳たちの観光気分に付き合っている。銀瞋は一切の興味がなさそうで「さっさと終わらせて帰ろうぜ」などと言ってはいるが、やはり腐っても二人とも皇太子の腹心の部下だ。決して黒冥翳魔の傍を離れようとはしないし、煬鳳たちの行動を遮ったり咎めるような言動は一切しない。それでいて周りの警戒は決して緩めてはおらず、彼らが歩くとき常に槍は利き手のほうに握られていた。
さすがといえば、さすがである。
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