【本編完結】鳳凰抱鳳雛 ～鳳凰は鳳雛を抱く～

藕断糸連哥和弟（切っても切れぬ兄弟の絆）

070：蓬萊弱水（三）

「兄上、今日は魚を釣るのですか？　でも、釣るための道具を私たちは持っておりません」

　手を繋いだ凰黎ホワンリィが、凰神偉ホワンシェンウェイを見上げ心配そうに尋ねる。

「そうだ。阿黎アーリィは良く知っているな。……釣るための道具は木の枝があれば大丈夫だ」

　凰黎ホワンリィは不思議そうな顔をしたが、彼は木の枝と衣から抜き取った糸を使って即席の釣り道具を作り上げたのだ。いま思えば、凰神偉ホワンシェンウェイは修行の傍ら時折同じようにして釣りでもしていたのだろう。そうでなければ納得できないほど、彼の手際は良かったのだ。

　ただ、恒凰宮こうおうきゅうは原始の谷にほど近い場所にあり、谷へ続く道には封印と迷陣が施されている。しかも、その封印の中に入ることができるのは恒凰宮こうおうきゅうの血を引くものといまは亡き翳冥宮えいめいきゅうの人間だけだった。
　しかしながら、翳冥宮えいめいきゅうなくして恒凰宮こうおうきゅうは原始の谷を開くことはできず、立ち入ることもまたできない。だから谷へ続く道に迷い込むことのほうが幼い兄弟にとっては危険極まりないことだった。

　凰黎ホワンリィはまだ幼い。凰神偉ホワンシェンウェイも一人前とは言い難かったが、凰黎ホワンリィは彼よりも更に幼く弱い存在だ。それゆえ凰神偉ホワンシェンウェイは二人で遊びに出るときも凰黎ホワンリィからは決して目を離さず、ひとときも彼を見失うことのないように細心の注意を払っていた。

　――はずだった。

　一体なにが起こったのか分からない。
　どうやって辿り着いたのかも全く覚えてはいない。
　凰黎ホワンリィが五歳になったある日のことだった。
　ふと気づくと凰黎ホワンリィは見知らぬ場所に立っていた。ただ昏い闇ばかりが埋め尽くし、前後左右も分からない。怯えながら幼い凰黎ホワンリィは闇の中を彷徨って、泣きながら兄の名を呼んだ。

「ここは、どこ？　あにうえ……兄上っ……。誰か、助けて……」

　闇の中に微かな光が見えた。

　出口だ！

　光に向かって凰黎ホワンリィは夢中で走った。走って走って……なかなかその場所には辿り着くことができない。それでも凰黎ホワンリィは闇から抜け出したい一心で足がもつれても只管に走り続けた。

　ようやく明るい場所に辿り着いた瞬間、皓々たる白い輝きが凰黎ホワンリィの視界を支配する。咄嗟に瞑った目をなんとかこじ開けた先に広がっていた、驚くような光景。
　その光景を目にした凰黎ホワンリィは驚き固まってしまった。
　そこは鏡のような岩が辺り一面に敷き詰められた、不思議な空間。光っていたのは、この煌々と輝きを放つ岩だったのだ。

　辺りを見回せば銀の岩は凰黎ホワンリィを映し出す。
　奇妙なことに、どこを向いてもどの岩にも、凰黎ホワンリィの姿が見えるのだ。そして映し出される視線の先には凰黎ホワンリィがいて、周囲を囲む銀の岩全てがこちらをじっと見つめているように思えてならない。
　なんだかその光景がだんだん恐ろしく思えてきて、言いようもない恐怖が凰黎ホワンリィを襲う。

　さらには眩しさと鋭さで目がくらみ、ついには立っていることができずその場に尻もちをついてしまった。
　どこもかしこも銀色の輝きで埋め尽くされて逃げ場もない。凰黎ホワンリィはただただ恐怖に怯え、あまりの強い輝きに気を失ってしまった。

　どれほど眠っていただろうか。
　次に目を覚ましたとき、凰黎ホワンリィは恒凰宮こうおうきゅうの寝台に寝かされていた。

「阿黎アーリィ!?　目を覚ましたの？　お母さんのことが分かる？」

　真っ先に凰黎ホワンリィが目覚めたことに気づき、抱き寄せたのは母。周りの目も気にせずに母はわあわあと声をあげて泣き、凰黎ホワンリィが目覚めたことを心から喜んだ。

「貴方は三日も眠っていたのよ。本当に心配したわ」

　驚くことに、凰黎ホワンリィは気を失ったあと三日ほど眠ったままだったらしい。眠る凰黎ホワンリィの手には、紛れもない万晶鉱ばんしょうこうが一かけら握られていたという。何度思い返しても一体どうやってそのような場所に入ることができたのか、一切のことが凰黎ホワンリィには分からない。
　これまた不思議な話なのだが、原始の谷から凰黎ホワンリィを助け出したのは誰とも分からぬ人物だったそうだ。恒凰宮こうおうきゅうの者すら入ることができないのに、そのようなことがあるものだろうか？

「天帝様がお導きになったのではないか」

　宮主ぐうしゅはぽつりとそう漏らした。
　なぜそう思ったのかと尋ねれば、恒凰宮こうおうきゅうの者すら立ち入ることができないあの場所に、もしも誰かを入れることができる存在がいるならば、それは最も上位の神であろう、とのことだった。

　真偽の程は、誰にも分からない。
　結局その答えは出なかったがそれ以上の進展はなく、この一件はそれで終わったように思えた。
　残ったのは凰黎ホワンリィの持ち帰った万晶鉱ばんしょうこう。しかし万晶鉱ばんしょうこうは容易く世に出してはならぬ存在のため、秘密裏に彩鉱門さいこうもんへと託されることとなった。

　凰黎ホワンリィが回復して暫く経った頃だ。

　突然それは訪れた。
　恒凰宮こうおうきゅうの上空に現れた白髪の老人。老人は白袍に身を包み、長い白髭を風に揺らし、空に浮かんでいた。異質だったのは、彼の視界が布で覆われていたこと。

　一目で彼が特別だと理解したのは、仙界せんかいの宝器である兵士たちを連れ立って恒凰宮こうおうきゅうの宮主ぐうしゅの前に降り立ったから。言葉で命じた訳でもなく、ただ僅かな指の動きひとつで、宝器の兵士たちは一糸乱れぬ動きを見せ老人の前に跪く。

　風の噂で聞いたことがある――仙界せんかいの頂点には五人の仙人がおり、そのうちの一人が盲目であった、と宮主ぐうしゅは思い出した。
　古今東西、いかに強い人間だとて、仙人の力には及ぶべくもない。彼らは人を超越した存在だ。そして老人の連れている黄剛力士こうごうりきしは、一体で千万の軍隊にも匹敵する程の力を有すると伝えられる。

『私は仙界せんかいに住まう五仙の一人――名を蓬莱ほうらいという』

　蓬莱ほうらいと名乗った老人は、唖然とする恒凰宮こうおうきゅうの者たちに目もくれず宮主ぐうしゅの方を向くとそう言った。布で隠れた蓬莱ほうらいの表情を読むことはできないが、ただただ言いようもない不気味さを宮主ぐうしゅは感じていた。
　しかし五仙といえば仙界せんかいの者たちの中でも特に上位に位置する存在。かの地を取り仕切る指導者の一人と言っても過言ではない、あの五仙だ。

　一体そのような人物がなぜ恒凰宮こうおうきゅうに来たのか？

『恒凰宮こうおうきゅうの第二公子様は選ばれたお方。是非我々の同胞として迎えたいと思い参ったのです』

　なんと、凰黎ホワンリィが原始の谷に入ったことを、この仙人は知っていたのだ。宮主ぐうしゅは焦った。いくら相手が仙人であろうとも、息子をそう簡単に渡すことはできない。
　しかし、断り方を間違えれば恐ろしい彼らの力によって恒凰宮こうおうきゅうは滅ぼされてしまうかもしれない。
　大げさかもしれないが、宮主ぐうしゅはそう直感した。

「よもや五仙の方に目を掛けて頂けるなど、なんと光栄なことでしょうか。しかし阿黎アーリィはまだ五つです。人としてさまざまな経験を積んだ上で大人にならねばなりません。大人になった暁に、阿黎アーリィ自身に選択の機会を与えるということではいけませんか」

　なんとか時間を稼ごうと、宮主ぐうしゅは言葉をひねり出し蓬莱ほうらいに懇願した。いくら恒凰宮こうおうきゅうといえど、圧倒的な力を持つ仙人を怒らせるようなことは言いたくはない。

『宮主ぐうしゅ殿。そのような必要はありません。彼が仙界せんかいに来れば全てを学ぶことのできるほど膨大な時間が手に入ります。わざわざ人界にんかいで学ぶ必要などないのです』

　ところが蓬莱ほうらいは一切の聞く耳を持ってはいなかった。宮主ぐうしゅがどんなに回りくどい言い方で断ろうとしても、その場しのぎでもなんとか時間を作ろうとしても、ばっさりと斬られてしまうのだ。これでは埒が明かない。
　最終的に蓬莱ほうらいは宮主ぐうしゅの懇願を全て無視したあとでこう言った。

『さすがに愛息との別れは心の準備も必要でしょう。明日もういちど来ます。それまでに決心を固めておいて下さい』

　去って行った蓬莱ほうらいを恒凰宮の者たちは呆然と見送るしかなかった。あまりにも傍若無人。仙界せんかいへの飛翔は世の人の憧れであったはずなのだが、蓬莱ほうらいの言動を目の当たりにして、憧憬を打ち砕かれたような気分になった。

　――このようなことが許されるのだろうか。

　そして己の意志すら無視され、まさに連れ去られようとしている幼き子供を門弟たちは気の毒に思った。
　明日になれば問答無用で蓬莱ほうらいは凰黎ホワンリィを連れ去りにくるだろう。彼が黄鋼力士こうごうりきしを連れて来たことからも分かるように、断れば力ずくで連れ去ることは間違いない。
　宮主ぐうしゅはすぐさま蓬静嶺ほうせいりょうに伝令を送らせた。宮主ぐうしゅは蓬静嶺ほうせいりょうの嶺主りょうしゅとは若い頃より友人同士であったのだ。

　折しも嶺主りょうしゅは清林峰せいりんほうの一件で妻と子を亡くし、いまは才能のある子供を引き取って育てているという。図々しい話ではあるが、その一人に凰黎ホワンリィを加えて欲しい、と頼み込んだ。
　宮主ぐうしゅは弟子に命じて凰黎ホワンリィの荷物を纏めさせると、弟子の一人に凰黎ホワンリィを蓬静嶺ほうせいりょうに連れて行くように命じた。
　驚いたのはその場にいた全員だ。

「宮主ぐうしゅ様！　まさか二公子様を蓬静嶺ほうせいりょうに送る気ですか!?」
「そうだ。彼奴らから阿黎アーリィを守るにはこれしかない」
「しかし、相手は仙界せんかいの……。もし、二公子様を渡す気がないと彼らが知ったら一体どのような報復をしてくるか」

　宮主ぐうしゅは彼らを一喝した。

「愚かなことを言ってはならない。道理も分からぬ相手に己の子を差し出すことなどできようか。蓬莱ほうらいのことは必ず私がなんとかする」

　宮主ぐうしゅの言葉に真っ先に賛同したのはほかでもない、兄の凰神偉ホワンシェンウェイだ。

「父上。私も父上のご意志に賛同いたします。相手がいかなる手段を使おうとしても、阿黎アーリィのことを守ってみせましょう」

　その言葉を聞いた皆は、もう何も言えなくなってしまった。
　まだ十二歳の子供が弟を守るために覚悟を決めたというのに、大の大人が己を守るために幼子を差し出すようなことをどうして言えるだろうか？

　そんなこと、言えるはずがない。
　彼らにも大切な人はいるだろうし、守りたい家族もいる。そのために他人の子供を生贄に差し出すようなことが、あってはならないのだ。

　彼らがただの市井の人ならばともかくとして、使命を背負う恒凰宮こうおうきゅうの者たちは、少なくとも誰かを犠牲にして良い立場にはいない。

　――たとえそれが、宮主の二公子であったとしても。



――――――
※五仙の残りは員嶠、瀛洲、岱輿、方丈の四人（ぜんぶ山の名前だけど一応ちょっとだけ意味はある）