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千山万水五行盟(旅の始まり)

034:陰森凄幽(九)

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煬鳳ヤンフォン!」

 ミン祖孫そそんを縛り終えたとき、凰黎ホワンリィが走ってきたのが見えた。どうやら火の回りが早かったらしく、火を消す作業と眠っている人たちを連れ出す作業で手間取っていたようだ。

「凄い雷が地面を削ったのが見えましたが……大丈夫ですか!?」

 清粛チンスウに至っては煬鳳ヤンフォンと同時に階下に降りたはずなのに、凰黎ホワンリィとほぼ同時に追いかけてくる。それでも、犯人を追いかけることより人々を助けることを優先することは彼らしい。

「いや、まあ……ははは」

 その雷は味方のものですよ、とも言い辛く、仕方なく煬鳳ヤンフォンは苦笑いでお茶を濁してしまった。雷靂飛レイリーフェイは上機嫌で縛ったミン祖孫そそん峰主ほうしゅとその側近に引き渡している。

 薬草園のときもボロ屋敷で寝ているだけだったし、宴のときも一人寝こけていたはずなのに、一番美味しいところを持って行くのはいかがなものだろうか。手柄が欲しいわけではないが、つい恨みがましい目で得意げな雷靂飛レイリーフェイの後ろ姿を追ってしまった。
 そんな煬鳳ヤンフォンたちのもとに、峰主ほうしゅ清義晗チンイーハンが歩み寄る。

「犯人も捕まり、火も消し止めることができました。怪我人もほとんどおらず無事に全員を避難させることができたのは、ひとえに皆様のおかげです。もともと使って頂いていた家はすでに寝られる状態ではありませんので……少し手狭になりますが、私の屋敷で今宵はお休みください」

 清粛チンスウ峰主ほうしゅの二人は今回のことを大に感謝し、煬鳳ヤンフォンたちに泊まるよう申し出てくれた。むしろ煬鳳ヤンフォンとしては、凰黎ホワンリィ清粛チンスウと考えた作戦を文句を言うでもなく迫真の演技で行ってくれた清義晗チンイーハンにこそ感謝している。

 しかし、あのボロ屋敷に再び戻るのも不可能というものだ。
 一階の天井には穴が空き、榠曹ミンツァオの雷撃によってあちこち焦げ付いてしまったのだから。
 煬鳳ヤンフォン凰黎ホワンリィ、そして雷靂飛レイリーフェイの三人は清義晗チンイーハンの言葉に甘えることにした。

 峰主ほうしゅの屋敷は、先ほどまで泊まっていたボロ屋敷よりは一回り小さい。あとで聞いたことだが、あのボロ屋敷は元は榠聡檸ミンツォンニンの弟子の家だったそうだ。彼は御多分に漏れず清林峰せいりんほうから密かに持ち出した霊薬を使って金持ちなどの病を治した。そのお陰で莫大な財産を築き、やがて清林峰せいりんほうから出て行ったのだという。

 以前よりそんな状態が蔓延していたようだから、殺人とまではいかずとも多かれ少なかれ清林峰せいりんほうの外に出て行った者たちの目的は、もはや人助けや医者であるという信念は脇に置かれてしまったのだろう。当初清林峰せいりんほうが森の奥に移り住んだ所以を考えると何とも皮肉なものだ。

 屋敷に入ったあと、使用人に案内されて煬鳳ヤンフォンたちは一番大きな客堂へと通された。華やかさはないが窓際に置かれた花瓶には梅が一枝だけ飾られていて、控えめに花を咲かせている。部屋に置かれた燭台に火がともされると、暖かな光が部屋を照らし出す。

「今宵はゆっくりお休みください」

 そう言って使用人は部屋を後にした。

煬鳳ヤンフォン
「ほ、凰黎ホワンリィ……?」

 戸が閉められるなり背後から凰黎ホワンリィが抱きしめたので、煬鳳ヤンフォンは驚く。隣の部屋には雷靂飛レイリーフェイもいるし、なんなら清粛チンスウ峰主ほうしゅ、それに彼らの弟子たちも同じ屋敷の中にいるはずだなんと大胆な……と思ったのだが、身体に冷気が流れ込んできたのを感じ、凰黎ホワンリィの意図に気づいた。

「熱い。……ずいぶん派手に霊力を使いましたね」

 囁くような凰黎ホワンリィの声が耳元で聞こえる。心なしかその声は悲しげだ。さきほど霊力を使った煬鳳ヤンフォンの体温が上昇していることに気づき、急いで体の熱を下げようとしてくれているのだ。幸いにして使った霊力はいうほど大した量ではなかったため、周囲に影響を与えるほどの熱量ではない。

 先ほどの場所には清粛チンスウ雷靂飛レイリーフェイだけではなく、峰主ほうしゅ清林峰せいりんほうの弟子たちも沢山集まっていた。清粛チンスウたちはともかくとして、大勢の前で己の弱みを見せるわけにはいかない。二人きりになるまで凰黎ホワンリィがこうすることを我慢していたのは、そういった煬鳳ヤンフォンの心情を汲んでのことだろう。

「ごめん、俺、咄嗟のことで……」
「いいえ、ミン祖孫そそんを追いかけるように頼んだのは私ですから。私の責任です」

 そう言った凰黎ホワンリィの声は辛そうで、己に責任を感じていることがひしひしと伝わってきた。

(迂闊だった、もっと冷静に考えて他の方法を選ぶべきだった――)

 敢えて黒曜ヘイヨウを使わずとも、他の方法で何とかなったのではないか。そうしなかったのは自分の体を過信していたからだ。
 結果として、大切な人に辛い思いをさせてしまった。抱きしめる手が微かに震えていることに気づき、よりいっそう煬鳳ヤンフォンは申し訳ない気持ちになる。

「……軽率だった、反省してる」

 返す返すも、つくづく不便な体で仕方ない。
 しかし雷靂飛レイリーフェイの無謀とも思えるあの攻撃だったが、あれが無ければもっと煬鳳ヤンフォン黒曜ヘイヨウの力を使っていたかもしれなかった。そう考えると、とてつもない阿呆だと思った雷靂飛レイリーフェイの行動も、案外役に立つものだ。

 そのお陰もあって体の熱はすぐに人並みの体温へと下がってゆく。尚も離れず凰黎ホワンリィは抱きしめたまま、けれどその冷たさが安心感を与えてくれる。抱きしめられるままに煬鳳ヤンフォンは目を閉じ、暫しその冷たさの中に意識を委ねた。

「こっちを向いて」

 凰黎ホワンリィに促され、煬鳳ヤンフォン凰黎ホワンリィの方へと向き直る。申し訳なも手伝って凰黎ホワンリィの顔をまともに見られずにいると、両の手が頬に添えられた。

「――っ」

 氷のように冷たい掌に、反射的に身を竦めてしまう。凰黎ホワンリィはあっと小さく声をあげ、手を引っ込めたあと、くすくすと笑った。

「申し訳ありません。私も貴方と同じで、一度下げた体温をすぐに元へは戻せないのです。……少ししたら人並み程度になると思うので――」

 言いかけて凰黎ホワンリィは言葉を止め、少し驚いた顔で煬鳳ヤンフォンを見る。煬鳳が凰黎ホワンリィの手を取り、己の頬に当てたからだ。

「なら、今度は俺があっためてやるよ。凰黎ホワンリィの体温が元に戻るまで」

 口に出すのは照れくさかったが、いまは凰黎ホワンリィを抱きしめたい。

「では、お言葉に甘えて……」

 そう答えると同時に、凰黎ホワンリィ煬鳳ヤンフォンをゆっくりと床に押し倒す。

(いや……、あの、いまのはそういう意味じゃなかったんだけど……)

 隣の部屋には天敵がいる。絶対に気づかれるわけにはいかない。
 しかしいま、この甘い雰囲気をぶち壊して良いものか、激しく悩む煬鳳ヤンフォンなのだった。

    * * *

 翌日。
 煬鳳ヤンフォンが目を覚ました時には、凰黎ホワンリィは既にあらかたの支度を終えたところだった。春にはまだ遠いため、開け放たれた格子戸の向こうからやってきた冷たい空気が首筋を掠める。

「さむっ」

 思わず被褥ひじょくを被って身を縮めると、外にいた凰黎ホワンリィが笑った。

「でも、目が覚めたでしょう?」
「そりゃ、覚めたけど……」

 唇を尖らせながら煬鳳ヤンフォンは不服そうに言う。

 凰黎ホワンリィの背後には部屋にあったのと同じ色の梅の花がいくつも咲いている。
 足元には若竹が細く長く伸び、青々と茂る。
 その中心に立つ凰黎ホワンリィは、まるで絵の中の人物のようだ。

 これほど綺麗な人が、他にいるだろうか。
 思わず煬鳳ヤンフォンはその姿にひととき目を奪われた。

煬鳳ヤンフォン?」
「わっ!?」

 呼び掛けられ慌てて煬鳳ヤンフォンは視線を逸らす。言い繕うように「梅の花がさ、部屋にあるのと同じだなって」と慌てて答えると、

「それより、寒い! 中に入ろう! 俺、まだ着替えてないから寒いよ!」

 そう言って凰黎ホワンリィを部屋の中に引き戻した。
 そのあと凰黎ホワンリィは不器用な煬鳳ヤンフォンのために着替えを手伝い、サラサラになるまで入念に櫛を通し、綺麗に髪を結わえ上げた。

「うん、これならどこかの公子様だと言われても、みな信じるでしょう」
「……」

 満足そうに煬鳳ヤンフォンの姿を見ている凰黎ホワンリィは相変わらずだ。どうせ見た目を取り繕ったところですぐバレるだろう。そう思いながら煬鳳ヤンフォンは上機嫌の凰黎ホワンリィを生暖かい目で見つめたのだが、凰黎ホワンリィは急に思い出したように顔を上げた。

「そうだ。朝餉を終えたあと、清粛チンスウの御父上の所に行きましょう」
清粛チンスウの?」

 凰黎ホワンリィは頷く。
 なんでも清粛チンスウの父は榠聡檸ミンツォンニンに次ぐ名医なのだという。榠聡檸ミンツォンニンがあのようなことになってしまい、煬鳳ヤンフォンの体を診てもらうことが難しくなってしまったため、清粛チンスウが父親に頼み込んでくれたのだ。

「実は……榠聡檸ミンツォンニンに初めて会ったとき、無理に煬鳳ヤンフォンのことを頼まなかったのには理由があります」

 凰黎ホワンリィは一目見たときに彼の神医としての腕前が、噂ほどではないことに気づいた。――いや、もしかしたらかつては噂通りの神医だったのかもしれない。しかし、凰黎ホワンリィは彼に対しどこか心に引っかかるものを感じ、凰黎ホワンリィはすぐにこの清林峰せいりんほうへ来た詳細な目的を榠聡檸ミンツォンニンに話すことを躊躇ったのだ。

 榠聡檸ミンツォンニンを拘束したあとも、頼もうと思えば彼に煬鳳ヤンフォンの体を診て貰うこともできたのだが、しかし既に殺人に手を染めていた彼に対し、煬鳳ヤンフォンの命にかかわるような部分について彼に相談することを凰黎ホワンリィは良しとはしなかった。
 更に言うなら他にも理由は存在すると彼は言う。

「……この清林峰せいりんほうにやってきて、煬鳳ヤンフォンの首にある痣を診て貰うのは、ここではないだろうと考えるようになりました。もちろん病気や怪我は彼らに頼むべきだと思っていますが、しかし煬鳳ヤンフォンの痣はそれらとは異なっており、彼らに診てもらうのは、医術の範疇を超えているのではないか、そう考えるようになりました」
「……」

 凰黎ホワンリィの言葉に、煬鳳ヤンフォンは何も言えない。
 一縷の望みをかけてここまで煬鳳ヤンフォンを連れてきたというのに、自ら『ここではない』ことに気づいてしまったのだから。彼に何と声を掛けて良いのか、煬鳳ヤンフォンには分からなかった。

「ですが――。清粛チンスウの御父上に診て頂くことについては、それほど悪いことではないと思ってもいるのです。彼は医者であるとともに、この清林峰せいりんほうへ色々な物資を届けるために各地を渡り歩いているのだとか。ですから、医術以外の様々な見分や経験という意味でも知見があると思います」

 ただ一つ分かっているのは、凰黎ホワンリィはいま煬鳳ヤンフォンのために動いてくれているということ。真夜中にこっそり湖に入ろうとして見つかってからここに至るまで、凰黎ホワンリィの行動理由の中に煬鳳ヤンフォン以外の理由は存在しない。

「俺は……凰黎ホワンリィが良いと思うならそれが一番良いと思ってる。自分の体のことなんて全然分からないしな。それこそ、凰黎ホワンリィの方が俺のこと良く知ってるだろ」
「まあ、それなりに」

 凰黎ホワンリィは満更でもない顔で微笑んだ。
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