幻獣の棲みか

iejitaisa

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第十八章 愛ゆえに

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『フェニアス様、粋のいいのが入ってきました』
 オーガと瓜二つの守り人が、ニカッと笑う。だが彼はオーガではない。金髪を短く切りそろえていていないし、ポニーテールにしていないし、服装は律儀に不死鳥隊の正装だ。赤い布地の、きびきびとした軍服だ。
 もう名前を忘れてしまった。彼が何代目のサンダルフォン家の当主だったかも。オーガの祖父か曽祖父であることは間違いないのだが。
 屈強な二の腕が伸ばされた先には、黒髪の少年がいる。身長の高さだけなら、サンダルフォンにも負けず劣らずだが、まだまだ若い。ややパーマがかかったようなクセっ毛で、雲一つない快晴のような蒼い瞳をしている。
『フェニアス様』
 若草かおる春の風のように、少年は爽やかに言った。
『光栄です。伝統ある不死鳥隊にお呼びいただけるとは』
 それがオーサム・ドレイクとの出会いだった。



 ドレイクはメキメキと力をつけた。
 成長するにつれ、体格もがっしりとしたものに変わり、伝家の宝刀を自分の手足のように扱えるようになっていった。
 サンダルフォンはおろか、当時の不死鳥隊の隊長をも打ち負かし、フェニアスとも競るようになった。
 3000年の長き歴史の中で、これほどまでに戦える戦士はいなかった。
 自分と同じ速度、同じ筋力、そして同じレベルでの思考。
 この年になって、切磋琢磨できる相手が現れたことに、フェニアスは胸の奥が沸き立つような、言いようのない喜びを感じていた。



 それから十年がたち、二十年がたち、ドレイクは不死鳥隊の隊長に就任した。
 式を盛大に執り行った。
 街中の食材をありったけ使って馳走を作らせ、蓄えていた黄金を全て使って飾り付けた。
 フェニアスが授けた勲章を、ドレイクは恍惚にも似た表情で受け取っていた。
 去り際、あいつが口づけした手の甲が、日が暮れても、満月が昇っても、ずっと、ずっと、熱いままうずいていた。



 真夜中の王の間で、フェニアスはドレイクと切り結んだ。
 エクストリーマーと龍のかぎ爪で、互いに一歩も引かぬ稽古を続けた。
 それはまるで、満月のもとに執り行われる舞踏会のようだった。
 たった二人きりの舞踏会だ。
 フェニアスが右に回転すれば、その先でドレイクが待ち構えている。
 フェニアスが飛び上がれば、ドレイクがそれより高く飛び跳ねる。
 どれだけ力を込めても、全て受け止められ、より強い力で跳ね返される。
 楽しかった。愉快だった。これ以上ないほど満たされていた。
 ドレイクが突然、エクストリーマーにかぎ爪を絡めた。
 フェニアスはエクストリーマーを引き抜こうとしたが、ビクともしない。
 ドレイクは互いの武器を巻き込むように引き寄せた。フェニアスは足をもつれさせ、固い胸板に顔をうずめた。
 たくましい腕で無理やり抱かれ、頼んでもいないのに口づけをされた。
 青天の霹靂とはまさにこのことだが、それよりも驚いたのは。
 こうなることをどこか、望んでいた自分がいたことだ。
『なっ……!貴様!無礼を……!』
 フェニアスはドレイクを突き飛ばし、王にあるまじき言葉で口汚く罵った。
 ドレイクは嫌な顔一つせず、またフェニアスを抱き寄せた。
『フェニアス様はおわかりになっていない』
 青い若者の声ではなく、凛々しい、戦士の声でドレイクはささやく。
 また口づけされる。
『ご自分がどれだけお美しいか』
 言葉の合間あいまに、フェニアスは口を塞がれる。
 その度に訪れる甘美な余韻に、頭がじんじんと痺れてしまう。
『はぁ……やめろ……』
 自分の口が、もうダメになってしまって、形ばかりの拒絶を繰り替えしていることが、フェニアスは恥ずかしくてたまらない。
『ご自分より腕っぷしの強い男を……こんな夜中に呼び出して』
 ドレイクはまだ口づけをやめない。
『私が我慢できるとでもお思いですか?』
 むさぼるように求められる。
 唇がびりびりと痺れる。背中を撫でまわしているドレイクの手が、熱い。
 もっと、もっと、苦しくなるまで抱きしめて欲しい。
 足腰から力が抜ける。支えてくれるドレイクにもたれかかって、ついに、自分からドレイクを求めてしまう。
『私には……んむ……夫がいた……四人も……』
『あなたに抱かれて壊れないのは……はぁ……一人目だ……』



 ドレイクの上で果てた時、フェニアスの中で何かが崩れ落ちた。
 幸せだった。
 この上なく満たされていた。
 そして、この余韻が、数百年後に必ず迎えるであろう五度目の絶望に続いているのだと思い知った。
『殺して……』
 そんなことを言うつもりはなかった。
『私はもう、疲れた……』
 ドレイクを困らせることになると、わかっていた。
 それでも止められなかった。
 だって3000年だ。
 父の顔も、母の顔も、フェニアスにはもう思い出せない。
 声色を思い浮かべることもできない。
 数えた日の出は十万が最後だ。満月に飽きたのは今より千も若いころだ。
『殺してくれドレイク…………このまま……幸せなまま……』
 フェニアスはドレイクの胸に頬をうずめる。
 熱い、固い胸板に涙をこすりつけ、口づけをする。
『もう耐えられない……愛する者が死んでいく……腹を痛めて産んだ子が……その孫が……私の面影を無くしていく……私だけが……若いまま、幼いまま、止まった時の中にいる……みな私を置いていく……』
 ドレイクは何も言わなかった。
 ただフェニアスを抱きしめて。折れるほど抱きしめて、頬をすり寄せてくれた。
 苦しいほどに幸せが募り、フェニアスはまた、苦しくなった。



『フェニアス様!』
 若い守り人が、血相を変えて転がり込んできた。
 王の間の絨毯に大粒の汗を流しているのは、ベルナルグの祖母だ。
『ドレイク隊長がおりません!』
『……なんだと?』
 フェニアスははじかれたように玉座から立ち上がった。
『城中探しました!街も!』
 ベルナルグは青ざめた声で訴える。
 フェニアスは突然、暗闇の中に放り込まれた。
 城が空っぽになったように感じた。
 まさかこんなに早く訪れるとは、思ってもみなかった。
 また一人ぼっちだ。



 ドレイクは外界げかいに潜伏していた。
 ちょうど人間どもは互いを殺し合うことで忙しくしていた。毎日爆弾の雨が降り、旅立つ若い男と、帰って来るけが人が入り混じり、世界中が混乱していた。逃げ隠れするには好都合だった。
 それでも、愛する人はオレを見つけた。
 理屈など知らない。知りたくもない。
 オレは今、君を救い出す方法を探しているのだ。邪魔をするな。
 だってオレは、君を殺せない。
 燃えるような赤い髪、ルビーのような瞳、磨いたリンゴのような唇、豊満な胸、美しい曲線を描くくびれ、すらりとした太もも、足先の爪に至るまでオレは愛している。
 肌をひっかくことさえ、オレの命をかけて止めるだろう。
 髪の毛一本に至るまで守り抜くと、先祖の名誉すべてをかけて誓うだろう。
 ナチスの崩壊で荒れるドイツで、破壊された街の一角で、ドレイクは追い詰められる。
 首元にエクストリーマーを突きつけられる。それ以上、抵抗できなくなる。
 これで終わりか――しかし、愛する人に殺されるのなら、悪くない――そんな考えが、ドレイクの頭をよぎる。
『そうだ……殺せ!今までしてきたように!反逆者として殺せ!いくらオレが強くても!一週間、一カ月……一年!不眠不休で戦い続けられるのはお前だけだ!そのうち来る夜明けに……お前の勝利が訪れるだろう……』
 ドレイクの言葉に、フェニアスはルビーの瞳を震わせ、苦しそうに呻いた。
 太陽のように朱く染まっていたエクストリーマーが、急速に熱を失っていく。くすんだ灰色に戻り、ぷすん、と情けなく煙を上げる。
『なぜだ……!お前なら王座を継ぐことができた!3000年続いた私の統治を引き継ぎ!みなを導くことが!』
!?』
 ドレイクはたちまち腹が立つ。
『よくも言えたもんだ!だったらオレを殺してみろ!』
 首元に突きつけられたエクストリーマーを引っつかみ、自ら炎をくべて赤く熱する。
 フェニアスはあわててエクストリーマーを引くが、ドレイクの力に勝てない。
 惑星ほしを動かすような力で引っ張られても、ドレイクは一歩も譲らない。熱したエクストリーマーを、自らの胸にうずめていく。
『うぅぅぅぅ……ぅああああああああ!』
 肌が溶ける。肉が焼け落ちる。熱い、苦しい、それでもドレイクはやめない。
 フェニアスは涙目になってエクストリーマーを引っ張る。ドレイクの体にどんどんエクストリーマーがめり込んでいく。
 その刀身が、とうとう心臓に達しようかという時、フェニアスは空気を震わすほどの声で叫び、爆発的な力でエクストリーマーを引き剥がした。
 はるか彼方へ飛んで行く伝家の宝刀を振り向きもせず、彼女はドレイクに抱きついた。
 背骨が折れるほどの力で抱きしめられた。ドレイクだってそうした。
『――――――しないで』
 フェニアスが音もなく泣いている。
 ドレイクは我に返る。
『一人に……しないで――』
 迷子になった子供のように呟く彼女の声が、ずっと、ずっと、頭の中でこだましていた――――――



 そこは王の間だった。
 あの時と同じ、赤い絨毯が敷き詰められた、我らが王フェニアスのための部屋だった。
 どれだけの間惚けていた?
 どれほどの隙を見せていた?
 ドレイクは遅刻した新社会人のように、恐るおそる顔を上げる。
 部屋の外を、兵士たちが包囲している。
 誰が生き残っている?
 まず、目を引かれたのはホタルだ。紅と蒼の二色の瞳を震わせ、こちらの一挙手一投足を逃すまいと見ている。
 その後方に銀髪の女だ。おそらく、麒麟の盟約者――踊り子の少女、フェンリルの盟約者――弓を持ち上げるフレスベルグの盟約者に、頭をさすりながら立ち上がる玄武の盟約者、そしてバーンアウトと、ホタルの友人。

 殺さなければ。

 麒麟の盟約者が小刀をもって突っ込んでくる。ドレイクは彼女の手を素手で打ち払う。小刀をはたき落とす。すぐに左足で蹴り上げ、突っ込んできた踊り子の少女を跳ね返す。彼女はワタルに向かってミサイルのように飛んで行き、二人はぶつかって倒れる。
 自らの羽を引き抜き、フレスベルグの盟約者が矢を放つ。ドレイクは素早く腰をかがめ、首を左右に振ってかわす。ベレー帽の青年は、次から次へと矢をつがえ、素晴らしい精度でドレイクの頭を狙う。
 六射目の矢が左頬をかすめて通過しようという時、ドレイクはその矢を右手で捕まえた。そして、背後から再び襲い掛かってきた麒麟の盟約者の、太ももに突き立てた。
「ああぁぁぁぁーーーーーっ!」
 彼女の絶叫を無視して、ドレイクは跳びあがる。フレスベルグの盟約者の脳天に、右の拳を叩きこむ。
 お堂の鐘のような重低音が、同心円状に広がっていく。
 固い、とげのような感触に遮られている。玄武の盟約者が巨大な甲羅伝家の宝刀をもって立ちふさがっている。
 ドレイクは二度目の拳をぶつける。甲羅がぶるん、と震える。
 三度目を、四度目を、五度目をぶつける。跳びあがり、全体重を乗せてぶつける。その度に、玄武の盟約者が額に汗しているのが見える。
 六度目を放つとき、ドレイクは蒼の力を最大限に引き出した。
 握りこんでいた手榴弾が爆発したような衝撃が、ドレイクの右手を襲う。外側に弾けようとする自らの骨格まで、蒼の力で押さえつける。
 絶対に砕けることのない甲羅を、木っ端みじんに粉砕する。
 玄武の盟約者も、その後ろにいたフレスベルグの盟約者も、衝撃波に頭をぶたれ、卒倒する。砕け散った宝刀の破片が、床に叩きつけたガラスのように飛び散る。
 空気を薙ぐ音が、頭の後ろから襲ってくる。わかっている。残っているのはバーンアウトとホタルだけだ。
 ドレイクは薙刀の一閃をかわし、バーンアウトに向き直る。線のようにしか見えないやいばの軌跡を全て、薄皮一枚のところでかわしていく。
 業を煮やし、腹の中心めがけて突き出してきたところを半身になっていなし、柄の部分を左手で掴みにかかる。バーンアウトはさすがの反応を見せ、薙刀を引き戻そうとするが、それより速くドレイクは動く。左手で薙刀を引っつかみ、すかさず右手でへし折る。バーンアウトは棒きれだけを握りしめたまま、後ろ向きに倒れていく。
 半分ほどの長さになった薙刀を左手の上で弾ませ、握りなおす、倒れまいと踏ん張るバーンアウトの胸を掻っ捌く。優秀な男だ。一瞬の判断で身を引き、両の肺こそ切られたが、心臓までは届かせなかった。
 このまま串刺しにしてやろうとしたが、ヴァルブレイカーが邪魔をする。バーンアウトとの間に、必死の形相でホタルが割って入る。金色こんじきの翼を生やして、その羽ばたきで加速して、これまでにない速度で切りかかって来る。
 甲羅を破壊した時に蒼の力を使いすぎている。かぎ爪を出す隙も無い。ドレイクは折った薙刀を懸命に振るい、ホタルの攻撃をしのぐ。
 速い――瞬きする暇もない――強い――攻撃を受け止めるだけで、手の骨が砕けてしまいそうだ――急げ――ここで負けるわけにはいかない!
 ギィン!と甲高い金属音が鳴る。
 折れた薙刀が、自身の後方にくるくると回転しながら飛んで行く。丸腰になった途端、ホタルの二色の瞳に迷いの色がさす。攻めあぐねている。
 ここぞとばかりに蒼の力を呼び戻すと、ホタルはすぐに気付き、再び攻勢に出る。
 ドレイクはヴァルブレイカーの間合いの内側に踏み込み、ホタルの二の腕をはじく。左肩を殴る。体制を崩されたホタルは、ヴァルブレイカーを握りこんだ右手で殴り掛かって来くる。その腕を、下からすくい上げるように掴み、手首を捻る。ヴァルブレイカーを奪い取る。





 あぁ――――――





 やってしまった。





 棲みかを出た時も、フェニアスと袂を分かった時も抱かなかった感情だ。
 後悔だった。
 右手に握ったヴァルブレイカー――そこから伝わってくる感触が、とても柔らかく、頼りない。
 豆腐に指を突っ込んだかのように、実感がない。
 切っ先が見えない。
 ホタルの美しい顔が邪魔して見えない。
「はっ……はんっ……ん…………ん…ん…ん……!」
 激しい息遣いでホタルは喘ぐ。
 紅い瞳孔と、蒼い瞳孔が、代わるがわる拡大と収縮を繰り返している。ホタルはドレイクの顔と、自らの腹に突き刺さったヴァルブレイヴレイカーを、交互に、何度も見る。
 ドレイクはホタルの右肩を掴んだ。
 せめて失血死しないよう、もう少しだけでも傍にいられるよう、右手のヴァルブレイヴレイカーを少しだけ、ほんの少しだけ、押し込んだ。



「ウラオー博士の研究結果では、君は、銃弾程度なら、自らの体に届く前に溶かしきることができるそうだな」
 耳元でクルミの殻をこすり合わせたような、耳障りな声だ。
「ならばと速度を上げてみたが……さすがにレールガンの弾は溶かしきれないか」
 レールガンとやらを持ち上げたクソジジイが、誕生日を迎えた子供のようにはしゃいでいる。
 遠いとおい記憶の彼方から、フェニアスは引き戻される。
 巨大な鉄の塊が目の前にある。首が痛くなるほど見上げなければ、全容を捉えることができない。それは壁面にたくさんのパイプをつけていて、産業革命を迎えたイギリスのようにたくさんの煙を吐き出している。巨大な円筒状の切っ先が突き出していて、その内部が、腐りかけた桃のような色で明滅を繰り返している。
 唇にまだ、甘い感触が残っている。
 鼻先には、安堵をもたらす汗の匂いが。
 つくづくダメな王様だと、フェニアスは自嘲する。
 ここは――ダインスレイヴが鎮座する敵拠点の奥地だ。大きなおおきな倉庫の、壁にもたれたまま自分は死にかけている損なっている
 呼吸するたび、左の肺が焼けるように痛む。右腕と下半身が動かない。チラリと視線を落とすと、わずかな筋肉でつながった二の腕が、エクストリーマーを握ったまま床に転がっている。
 グン、ブン、ブン、グン、ブン、グン―――――ダインスレイヴの内部で鳴っている振動音が、徐々に音階を上げていく。
 せかされなくても、やるべきことはわかっている。自分の使命を。しかし、存外に早く目覚めてしまった朝のように、体が鉛のごとく重たい。
「3000年……南アメリカでマヤ文明が始まり、ヨーロッパでは都市国家が形成されつつあった……だがまだだ、古代ギリシアで、アリストテレスやソクラテスが生まれるのは何百年もあとのことだ――東アジアの小国日本に至っては!いまだ農耕すら始まっていない!君が!!!」
 モハティはレールガンを肩にかけなおし、右手を前に突き出した。フェニアスの姿をまるで、トロフィーか何かに見立てて、手の平に乗せるかのように。
「この世界に引きこもったのは、そんな途方もない時代なのだ」
 フェニアスは今生最後のため息をついた。
 久方ぶりに外界げかいの人間と話をした。
 それがまさか、もっとも善き魂と、悪しき魂、同じ日に交わすことになろうとは。
 自分はついているのか、それとも神に見放されたのか、判断の難しいところだ。
「だが人はすでに手をかけていた。神から賜りし神聖なる生き物たちを」
「君は……自分がどれだけ稀有な存在なのかわかっていない!」
 大きな声で叫ぶと、モハティは白いあごひげに唾をべっとりつけて喚き散らす。
「聖書も、聖杯も意味をなさなくなる!君が生きているからだ!君自身の存在が!神は人が作り出した幻想というまぎれもない証明なのだ!」
 グローブをした左手をかきむしり、左頬にある大きな傷跡をなぞり、モハティはうっとりと目を閉じる。
「そして人が、有史以前から渇望してやまなかった不老不死の体現……今度は君が、神となるだろう……」
 もはや聞く耳を持たない。
 一度、見えている真実がねじ曲がった者は、二度と正しき世界に還ってこられない。
 だがそれこそ、フェニアスが一番憧れたものなのかもしれない。
 それを知っていれば、その世界が見えていれば、もっと楽に生きられたのかもしれない。
「愚かな人間よ、私はお前がうらやましい」
 体の内部で炎を燃やす。
 桜色の治癒の炎を。目に見えぬ怒りの炎を。
 砕けて、ズレていた骨盤を元の位置につなぎ合わせる。
時間ときの残酷さを知りもせず、生の執着に蝕まれた、純粋で、哀れな生き物よ」
 フェニアスの正義はもう、揺るがない。
 そういう意味では、自分もモハティと同じなのだ。
 この力が呪いか、祝福か、ずっと、ずっと、そんな疑問を抱えたまま、いつか許されるその日まで、苦しみ続けなければならない。他の選択肢を、フェニアスは知らない。
「私には四人の夫がいた。腹を痛めて産んだ子は八人だ……だがそれすらもう、八百年も前の話だ」
「なら私が引き継ごう。その力を、君を!殺して!」
 再びレールガンを手に取り、モハティが騒ぎ立てる。
 城下町の、若い娘子があのような感じだ。甘いマスクの若い男を見ては、集団で固まって、声の塩梅がどうの、背丈がどうのと大声でささやき合うのだ。
 私にもあんな時代があった。
 振り返っても、もう見えない。
 長いながい道の先は真っ暗だ。針で突いた点のような光、それすら見えない。自分はいったい、どこから歩いてきたのか、もう何もわからない。
 フェニアスは立ち上がる。
 エクストリーマーを握りしめたままの二の腕が、蜘蛛の糸に繋がれたイモムシのように頼りなく、くるくると回りながらついてくる。
 モハティはにんまりと笑い、レールガンの巨大な砲身をこちらに向ける。グローブをした左手をひと時杖から離し、何の機能を司っているのかよくわからないが、砲身の側面についたレバーをガチャリと引いた。
「ドレイクから聞いている。君はその、大きなお胸が、弱点なんだってなぁ!」
 引き金を引かれる直前、フェニアスはモハティの右腕を睨みつけた。
 カッ!と眩い閃光が走り、モハティの右腕は炎に包まれた。
「ぐぅぅうおおおおおおおお!」
 モハティは絶叫し、右腕を天高く掲げた。そこに、肘から下の部分はついてこなかった。握りしめたレールガンごとぼたりと焼け落ちた。
 半分の長さになった右腕を、白髭のジジイはかきむしり、苦悶の叫びをあげつづけていた。その先端からは未だ、冒険活劇の主人公が持つ松明のようにヂロヂロと炎が上がっている。
 フェニアスが出せる最も強い、銀朱の炎だ。
 自分の右腕は、桜色の炎で包む。
 あらぬ方向に曲がっていた二の腕が、ぐりん!とひっくり返ってもとの鞘に収まる。
 還ってきたエクストリーマー伝家の宝刀をフェニアスは握りしめる。
 火の玉を飲んだように、胸の奥が熱くなる。
 狼狽するモハティに、慈悲の眼差しを向ける。
「フェニックスはもう二度と、人との盟約を結ばない」
 フェニアスは飛び立った。
 蹴爪のヒールからジェットの炎を吐き出して、熱波と気流でダインスレイヴの砲身まで上昇した。
 エクストリーマーを媒介として、炎を練り上げる。
 唐紅の炎を――えんじの炎を――銀朱の炎を――ダインスレイヴ全てを包み込むために、ありったけかき集める。
 エクストリーマーの刀身から、凝縮され、圧縮された炎が、行き場を無くして噴き出し始める。打ち上げ花火のように勢いよく飛び出したかと思うと、意志を持ったかのように軌道を変え、巨大倉庫の壁に当たる前に曲がり、大きな弧を描いて回り始める。二本、三本と、その数が増えていく。
 炎の帯が数えきれないくらいに増えたころ、フェニアスの周りの空間が歪み始める。倉庫の鉄板が、フェニアスの頭上だけ、高温に耐えきれずにぼたぼたと溶け落ち始める。落ちてきた真っ赤な鉄の雨は、フェニアスの頭に当たる前に気体に変わる。
 倉庫のあちこちで、高熱によるひずみが生まれ始める。ぐるぐる回る炎の帯たちは、整備用の通路を貫通し、焼き切り、次々に崩壊させていく。燦然と輝く炎玉の内側で、フェニアスはさらに炎を灯し続ける。

 さらば――――

 バラバラになっていた炎全てを、水晶玉くらいの大きさに凝縮する。
 直視すれば目をやられるであろう、近づけば跡形もなく蒸発するであろう、白黄はっこう色の小さな太陽。
 フェニアスはそれを、ダインスレイヴに投げつけた。

 宇宙の誕生に立ち会えたならば、これと同じ景色を見ただろう。

 ダインスレイヴの砲身、その付け根に当たった光の玉は、清浄しょうじょうの間に倉庫全体を照らした。虚空の間に炎の塊となり、広がると、六徳りっとくの間に本体全てを飲み込んだ。
 あとは、刹那の間に、一つのチリすら残さず、大量破壊兵器を消し飛ばす。


 はずだった。


「くく……」
 モハティの耳障りな声が、足の裏をなぞって昇って来る。
「フハハハハハハ!」
 熱波でどろどろに溶けた皮膚を揺らして、醜悪な人間が笑っている。
 ドイツでドレイクを追い詰めた時と同じ絶望が、氷水のような冷たさとなって、フェニアスの全身をめぐる。
 フェニアスが出せる最大にして最強の攻撃だった。
 街一つを優に消し飛ばす炎だ。

 ダインスレイヴには、傷一つ付かなかった。

 焦げ跡すらない。
 冷静だった心が、焦りに押し出されて飛び出していく。フェニアスは追い立てられるように炎を一筋噴き出し、ダインスレイヴにぶつける。
 なしのつぶてだ、ビクともしない。砲身の方向を曲げることさえも。
 刀身が砕けても構わない。エクストリーマーを熱し、思い切り叩きつける。
 鈍い音と、全身の骨を震わす振動を跳ね返すだけで、ダインスレイヴは鎮座し続ける。
 エネルギーを溜める音がどんどん大きくなり、間隔が、早鐘を打つ心臓のそれと同じになる。発光の色は極めて白に近くなり、フェニアスの瞳でも直視できない光量となる。
「ハッハーッ!げはぁっ……ぜぇ……壊せるものか!ダインスレイヴは……はぁ……あぁーー君を拘束していた手錠と同じ素材で作ってある!ハフニウムだ……難しかったかなぁ!?人類は今や、宇宙に旅する時代を生きている!わかるかね!?雲の上!太陽や月の浮かぶ世界が!」
 無くなった右ひじを握りしめ、モハティが泡と一緒に憎悪の言葉を吐き出した。
 フェニアスは自分の選択が間違っていたことを思い知った。ここまで自分を罵ったことはなかった。
 どれだけの時間を無駄にした?
 どれだけの民がドレイクに殺された?
「世界を背負っているのは亀ではない!アトラスでも‼我々の世界は丸く、宇宙に浮かぶ無数の星々の一つに過ぎない!どこまで理解している!?どこまで理解できる!?ブゥアカめ!人類の叡智を!壊せるものか野蛮人!ダインスレイヴはもう止められない!悔しかったら!核でも持ってくるんだなぁ!」
 それ以上、聞いていることができなかった。
 その場にいたら、罪悪感に押しつぶされてしまいそうだった。
 フェニアスは足裏を燃やし、燃やし、燃やし、倉庫の屋根に空いた穴から飛び出した。
 超人的な視力で捉えた。
 自らの過ちを。
 我が城の方角から立ち上る、黒々とした煙のすべてを!



 しゅうしゅうと、酸で溶ける鉄のように、金色こんじきの羽が姿を消していく。ホタルの胸元が弱々しく光り、グリフォンの力が抜けていく。
 ドレイクはホタルの小さな頭に、優しく左手をかける。
 彼女の腹に刺さったままのヴァルブレイヴレイカーを、さらに少し押し出し、それに合わせて、左手も前に押し出す。
「はひっ……はっ……はっ、はっ、はっ、はぅ……!」
 ホタルは両手を一生懸命に伸ばして、ドレイクの胸をぺちぺちと押していた。やめてやめてと、その言葉を発することすらできないのだ。痛いのだ。
 嫌がるホタルを無理やり押していき、手近な瓦礫に腰掛けさせた。
 ヴァルブレイカーから手を放してやると、ホタルはそれが抜け落ちないよう、両手でぐっと支えていた。
 彼女がきちんと宝刀を押さえていることを確認し、ドレイクはようやく安堵を覚えた。
「もういいのです、ホタル様。よく頑張りました」
 テストで百点をとった我が子を讃えるように、ホタルの頭を撫で、ドレイクは背を向けた。龍の紋章が施されたスキットルを取り出し、一口あおると、続けてタバコを口にくわえ、ライターを手に持った。
「はっ、はっ、はぁっ……あうぁっ……」
 ホタルの喘ぎ声が突然、痛々しいものに変わった。
 死ぬには早すぎる。
 ドレイクはライターの火からタバコを離し、振り向いた。
「うっぶぅ……!」
 こみあげてくる悲鳴と血を全て溜め込んだかのように、ホタルが頬を膨らませている。
 その両手が、ヴァルブレイカーを腹から引き抜かんとしている。
「ホタル様」
 ライターをしまい、まだ火のついていないタバコを投げ捨て、ドレイクは近づく。
「あなたはフェニアスではない」
「うゔゔゔ!」
 忠告を無視して、ホタルはヴァルブレイカーを引き抜いて行く。
 熟れたトマトを箱ごとつぶしたような、おびただしい量の血が、ぼたぼたと落ちる。制服のスカートをぐっしょりと濡らす。
「それを抜けば、失血死してしまい――――」
 その瞬間、ドレイクは神に感謝した。


 その切り替えが遅かったことを、百年ぶりの後悔として覚えている。


 燃えるような赤い髪、ルビーのような紅い瞳、天命を与える神のように、自分を見下ろしている。

 桜色の炎で王の間を埋め突くす。

 ホタルがヴァルブレイカーを完全に引き抜き、間欠泉のように噴き出す血を伴いながら立ち上がる。

 オズワイルドが、ベルナルグが、リンドが、ゲンキが。ルーが、ワタルが、息を吹き返す。

 王の間を取り囲んでいた兵士たちが、はじかれたように動きだす。

 銃撃をかいくぐり、ドレイクがかぎ爪を持って突っ込んでくる。

 バーンアウトとホタル以外の者は、兵士たちと交戦し、次々に無力化していく。

 桜色の炎の中で、絶命と再生を繰り返しながら、両者は相まみえる。

「弱くなったな!我が軍隊は!」
 無上の喜びを感じる。かつてないほどの高揚感を、多幸感を!

「お前の軍隊ではない!」
 フェニアスは否定する。

「だから弱くなった!」
 ドレイクはかぎ爪を振るう。

「我らにはフェニアス・バックスがいる!優しくて寛大な王様が!」
 蒼い瞳をカッと開いて、ドレイクが一段激しく攻めたてる。

「どんな傷でも癒え!絶対に死ぬことは無い!」
 バーンアウトも、ホタルも、オレに近づくことすらできない。

「その危機感のなさが!この弱さを招いた!」
 フェニアスは全力で応戦する。

「本来、人間ごときに脅かされる守り人ではない!」
 ここで戦うのは百年ぶりだ!いつもと同じ、100年前と同じ、あの満月の夜に!

「我々は侮っていたのだ。人が、扉の向こうで、あれほどの科学技術を身につけているとは思いもせずに!」
 ベルナルグに撃たれた兵が、リンドに喉をさばかれた兵が、倒れていく。

「それは怠慢だ……!」
 さすがは守り人だ、人間など、赤子の手を捻るように殺していく。だが――

「神官の子孫を持たぬ我らは!魔法が使えない!」
 ドレイクの一撃は大地すら動かすだろう。フェニアスはエクストリーマーで防御姿勢をとったまま、壁に激突する。

「だったら最初からぁ!全力で走り続けるべきだったんだ!」
 ドレイクは両手両足を蒼く染める。

 全員が入り乱れる。

 ドレイクの首をとるために、全員が。

 フェニアスの赤い髪が視界を横切る度、ドレイクは思い出す。

 リンドとベルナルグが吹き飛ばされる。

 ホタルの友人も、ゲンキも跳ね飛ばす。なのに――

 ダガーを持ったオズワイルドが背後から強襲し、龍のかぎ爪を叩き落とす。しかし、ドレイクが懐から取り出したショットガンで殴り飛ばされる。

 何度振り払ってもまとまりついてくる。うっとおしい。愛おしい。忌々しい。いい匂いだ。邪魔だ。なぜ――

 強い。ただひたすらに強い。私を打ち負かすほど。私を守れるほど。それが――

 視界の端にチラつく――燃えるような、赤い髪――

 世界で唯一、たった一人、私を、私だけを見ていた、蒼い瞳――

 愛ゆえに――
 ドレイクは引き金を引いた。

 愛ゆえに――
 フェニアスは振り下ろした。

 ショットガンの弾を、もっとも美しい記憶を撃ち払うために。

 エクストリーマーを、もっとも大きな罪を断ち切るために。

 愛ゆえに――放った。

 愛ゆえに――斬った。

 愛ゆえに――

 愛ゆえに――






 愛――ゆえに――――






 訪れたのは静寂だった。



 王の間にいた者全てが手を止め、足を止め、聞き入った。



 のちに、乾いた音。
 ドレイクの持つショットガンの銃把が、床にぶつかった音だった。

 落ちたのだ。
 彼の、左腕とともに。

 続けて、鈍い金属の音。
 フェニアスの持つエクストリーマーが、王の間に落ちた音だった。

 持っていられなかったのだ。
 彼女は、もう。

「うわぁあああぁぁぁあ!」
 オズワイルドが雄叫びを上げ、残っていた二人の兵士を斬り倒した。
「いやあああぁぁあ!」
「うわああぁぁあぁ!」
 リンドが、ベルナルグが、ゲンキが吠え、新たに駆け付けた兵士たちを制圧した。



 フェニアスだけが、最後まで静かだった。



 ホタルはフェニアスの前に滑り込み、大佐に敵意と剣の切っ先を向けた。しかしその顔を見た時、それが必要ないことに気づいた。

 大佐は魂が抜けたように放心していた。

 剣を向けるホタルに気付くと、すがるような目でこちらを見た。

 ホタルは悔しさに顔をゆがませ、首を振って、剣を投げ捨てた。

 吐息と共に倒れ込むフェニアスを抱いた。

 フェニアスさん――フェニアスさん――フェニアスさんフェニアスさん――

「――フェニアスさん!」
 ホタルの呼びかけに、フェニアスは応えなかった。
 穏やかな表情で天井を見つめたまま、引きつったように呼吸した。
 ゴボゴボと、泥炭から沸き立つガスのような音が鳴った。
 フェニアスの胸に、赤い斑点が浮かび上がっていた。それはじわじわと広がり、大きな一つの塊になり、フェニアスの胸を真っ赤に染め上げた。
「――はっ……んくっ……」
 喉元まで流れてきた血が、光を反射してぬらぬらと光っている。
「フェニックスの力を……感じ、んっ……られぬ……」
 フェニアスはそれを、至上の喜びのように呟く。
「盟約がっ――ぅん……切れ、た――――――」
「そんな……そんな……フェニアスさん……!」
「これでよい……これでよいのだ……」
 ホタルの膝の上で、フェニアスは満足したようにまぶたを閉じる。
「私は……王の器ではない……高潔な……人間ですらない……」
 ホタルはフェニアスの胸に手を当てる。
 血を止めたいだけなのに。プリンに手でもうずめているみたいに、ぐじゅぐじゅと、奥の方まで入っていってしまう。
「外にいる者たちとなんら変わらない……自らの欲望に打ち勝てぬ、愚かで憐れな生き物だ……」
 フェニアスの呼吸がどんどん浅く、鈍くなっていく。
「私の……唯一の罪は……」



 その時、蛍の中に、フェニアスの記憶が流れ込んできた。



 オーサム・ドレイクという守り人を知り、恋に落ちたこと。
 愛する者と唇を重ね合わせたこと。肌を重ね合わせたこと。
 言葉に尽くしきれぬ幸せに包まれ、眠りについたこと。
 生まれて初めて、孤独を感じなったこと。
 彼が酒が好きだと聞いたから、盟約獣を刻んだスキットルを作らせ、贈ったこと。
 金の指輪と、銀の指輪を、互いに交換したこと。
 3000年分の心の隙間を埋める、ささやかだけれども大きな、大きな愛を感じたこと。



 そして――愛したドレイクを、処刑できなかったこと。



 手の先に、何か固いものが触れる。
 フェニアスの胸にぽっかりと空いた穴に、引っかかっている。
 血だらけの手で引き上げると、小さな金の鎖をつなげたネックレスであることがわかる。
 その先端には、蒼い染料が流し込まれた、銀色の指輪がついている。
 蒼の染料は、勇壮なドラゴンを描いている。
 ホタルは、フェニアスが切り落としたドレイクの左腕を見る。
 ショットガンを握りしめたままの薬指には、黄金の指輪がまだ、つけられている。
 そこには、赤い染料で、荘厳なフェニックスが描かれている。

 壮絶な孤独――――

 砂漠の中に取り残された旅人ですら、可愛く見えるほどの。
 大海原に放り出された遭難者ですら、笑い飛ばせるほどの。
 耐えられない。
 涙せずにいられない。
 胸の奥が、くしゃくしゃに丸めた紙のように縮こまって、苦しまずにはいられない。
「なぜ泣く」
 あの時と同じように、威厳たっぷりの声でフェニアスは言う。
 再び開かれたルビーの瞳が、優しい色をしていて、美しくて、ホタルはまた、とめどなく涙を流した。
「だって私、なんにもできなくて……!」
「私のために……泣いているではないか……」
 誇り高き者にしか紡げぬ言葉だった。
 フェニアスは少しだけ、春の木漏れ日くらい少しだけ、満足げに笑っていた。
「大丈夫だ……夜は明ける……明ける……必ず――――」



 暗闇の中を、赤い鳥が飛んでいる。
 燃えるような赤い鳥だ。
 その鳥は、金粉のような火の粉をまとって羽ばたいている。
 どこまでも自由に、どこまでも気ままに羽ばたいている。
 ふと、赤い両の翼が、二つに結んだ赤い髪に変わる。
 燃えるような赤い髪だ。
 ぱたぱたと走る彼女に合わせて、上下にはずんでいる。
 フェニアスだ。
 幼いおさない、フェニアスだ。
 彼女は、自らに待ち受ける苦難も、困難も、何も知らずに笑っている。
 底抜けに明るい顔で笑ったまま、どこまでも自由に、どこまでも気ままに、走って行く。
 赤い鳥が飛んでいく。
 ホタルたちの手の届かないところまで。
 どんな流れ星でもかなわない、美しい軌跡で。
 どんな光でも届かない、遠いとおいところまで。



 美しい旋律とともに。



 あぁ、逝った……



 逝ってしまった……!



 私を愛し、みなを愛し、自らの、捧げられるすべてを犠牲にして逝ってしまった!



「たあ――――ひっ――」

「あむ――――ひい――いぃぃ――――うっうっうっ………………」

「あああぁぁはっ……!はっ……!あああぁ――はっ――はっ――――はぁぁ――――!」





 返せ。

 返せ!

 返せ!返せ!返せ!

 かけがえのない彼女を返せ!

 フェニアス・バックスを返せ!

 愛おしい、愛おしくてたまらない彼女を返せ……!

 フェニアスの亡骸、そのたもとで、主に寄り添うように横たわるエクストリーマーを、ホタルは睨みつけた。へし折るように握った。

 強くつよく、手が白むほどに握りしめた。

 ――殺す。

 殺してやる!

 彼女が受けた痛みと、苦しみを!すべて倍にして与えてやる!そしてそののちに命を奪ってやる!言い訳しても、泣きわめいても許すものか!肉を裂き!骨を砕き!体中の血をすべて絞り出して!目玉の一つに至るまで刻んでやる!



 ――――そう、思っていた……



 怒りに我を忘れたのは、生まれて初めてのことだった。
 気付いた時、ホタルは、大佐の胸にエクストリーマーを押し付けていた。
 灰色の刀身は、大佐の体に傷一つつけることはできず、押せど、引けど、何一つ変わることはなく。何一つ生まれるものもなく。大佐の呼吸をただ、苦しくしているだけだった。
 大佐は、薬物中毒者がそうなるように、一気に何十年も老けてしまったように見えた。
 ささくれ立った黒髪には白い色が交じり、目じりや口元に深いシワが刻まれていた。くすぶった炭のような色をしていた瞳は、モハティと同じように白んでいた。
 左腕から滝のように流れる血を止めようともせず、ホタルの怒りに抵抗の意志すら見せず、大佐は、ホタルの肩越しに、横たわるフェニアスをずっと、ずっと、見つめ続けていた。
「オーサム・ドレイク……あなたを許します……」
 自分の口から、聖人君子が言いそうなセリフが出て行くのを、ホタルは涙の壁の向こうに聞いていた。

 だって彼女が、そうしろと言うのだから。

 大きく穴のあいたフェニアスの胸に、血の代わりにたくさんの灰が積もっていた。
 その灰の中に、いるのだ、小さなちいさなひな鳥が。
 まだ羽も生えていない。丸裸で、目も開いていない鳥の赤子が。
 ちーちーと、訴えるように鳴くのだ。
 ホタルはぐっと奥歯を食いしばり、絞り出した。
「しかしこれはっ……私の意思ではなく……我らが王……フェニアス・バックスと……その盟約獣フェニックスが……あなたを許したからです……」
 大佐のくすんだ瞳が、ホタルの視線を捉える。
 流す涙さえ枯らしたか。
 還って来い英雄。
 取り戻せ正義を。
 我らが王が愛した男に、ホタルは最後の慈悲と願いをかけ、叱咤激励するのだった。
「そのっ……寛大な心に感謝し……一生をかけて……罪を償いなさい!」
 フェニアスの胸が突如として燃え上がり、ホタルの胸が、同時に光り輝いた。
 爆炎の中から、成鳥となったフェニックスが現れる。
 大鷲のように大きく、全身を真っ赤な羽が覆っている。冠のような飾り羽と、三本の長い尾羽には白と青の羽も差し込まれている。
 美しい。ただひたすらに美しい。ホタルが今までに見てきた、どんな生き物よりも美しい。
 たった一羽で、生と死を繰り返す。
 永遠を生き続ける存在――――
 真っ赤な嘴でいななくと、フェニックスは、生ける焔となってホタルに飛びついてくる。

 力を貸して――――フェニアスさん――――

 ホタルは飛んだ。
 ステンドグラスを全部溶かして、城を後にする。
「ヒュオオォォォォォォォオオオオ!」
 新たな誕生を祝うように、城の後ろから、巨大な炎が立ち上る。
 城下町にかかる大きな影で、それが、フェニックスの形をしているのがわかる。
 壊れた噴水の前で、兵士たちに拘束され、再び鎖に繋がれた男たちがいる。
 銃を持った兵士たちに囲まれ、我が子を抱きかかえる母親たちがいる。
 怪我をして、泣きじゃくっている子供たちがいる。
 その全員が、不死鳥の炎に気付き、大歓声を上げる。
 両足の裏からジェットの炎を噴き出して、ホタルは城下町の空を一気に駆け抜ける。
「森へ!」
 守り人も兵士も関係ない。
 ありったけの桜色の炎で街を焼きながら、ホタルは進む。
「森へーっ!走れぇぇぇぇ!」
 ヴァルキリーの小屋の方角を、エクストリーマーで指し示す。
 守り人たちは再び立ち上がり、走り出す。
 フェニアスが残した祈りを、未来につなぐために。



 アイングラードの谷、その終盤に差し掛かったころだった。一刀両断された基地が見えてきた。
 眼下に一人の老人を認めた。
 今のホタルには見える。聞こえる。
 グローブをした左手で、杖を地面に突き刺して。ぜえぜえと、今にも千切れてしまいそうな声で酸素を求めて。モハティ・ルドヴィングが前進している。
 フェニアスを追いかけて、渓谷を一人歩いてきたのだ。
 ホタルはエクストリーマーを逆手に持ち、炎を噴き出しながら急降下する。火山弾のように着地する。
 振りかかる火の粉に舌なめずりしてモハティが笑う。その顔に生気が宿る。合点がいったとばかりに、白濁した瞳を輝かせる。
「なるほど!お前が受け継いだのか!」
「違う!私たちの王はたった一人だ!」
 瞳から炎の球粒を飛ばしながら、ホタルは叫ぶ。地面に突き刺さったエクストリーマーを引き抜き、その切っ先をモハティに向ける。
「お前が奪った!」
「ならばお前からも奪ってやる!」
 モハティは――右腕がない――左手で杖を握りこむと、先端を足で押さえ、引き抜いた。
 仕込み杖だ。
 中から出て来たのはギザギザの白い刃体だ。それが幻獣の骨を削り出したもので作られたのだと、ホタルはすぐにわかった。
「美しいだろう……!あぁあ!?」
 エクストリーマーを素早く振るったが、モハティは仕込み杖でなんなく受け止めた。仮にも神が作りし幻獣の一部だ。伝家の宝刀といえども、破壊するのに一筋縄ではいかないということか。
「自分が何をしているのかわかっているのか!?」
 モハティは左手を捻り、エクストリーマーをいなす。ごぼごぼと肺を鳴らしながら、叩きつけるように仕込み杖を振るう。
「世界を征服できるほどの力を持った者たちだ!ここで気勢をそがねば!侵略されるのは我々の方だぞ!お前は!どっちの味方をする!」
「被害者の振りをするな愚か者め!私利私欲のために罪なき人を殺して!まだ足りぬか!」
 ホタルは大剣を素早くかえし、モハティの攻撃を受け止める。
「この偽善者め!守りたいと言いながら、人の命を奪っているではないか貴様はぁ!」
「責任をなすりつけて……自らの行いを正当化するのはやめろ!」
 胸の奥から熱波を発し、モハティを吹き飛ばす。
 片腕のない老人は、仕込み杖の先端でがりがりと地面を削りながら後ずさる。
 ホタルは怒りのままにエクストリーマーを振るい、モハティの心臓に狙いを定める。
「その汚い金で……罪なき人間を戦わせているのは誰だ!」
「フッハッハッハッ!俺だあぁ!」
 死を目前にしても、モハティは高笑いをする。
 異常者め。
 お前さえいなければ。
 お前さえ、幻獣の棲みかに気付かなければ。
 大佐はここを滅ぼそうなどと考えもしなかった。
 フェニアスさんは死なずに済んだ。
 数多命を奪われた守り人たちは、今も、いつまでも、楽しく温かい暮らしを続けることができた。
 激昂が体を突き抜ける。
 エクストリーマーが朱く輝く。
 背中からジェットの炎を噴射し、ホタルは加速する。
 モハティが反応できない速度で、その体を、伝家の宝刀で貫く。



「ああぁぁあ――――……」



 胸の中心に、巨大なエクストリーマーが突き刺さっても。



 モハティはほくそ笑んでいた。



「甘い……」
 耳元で段ボールを引き裂かれたような、胸糞悪い声色だった。
「民を救うならば、躊躇せず頭を潰すべきだったぁ……」
 青い顔をしたまま、モハティは狼の毛皮でできたコートをまさぐった。
 グローブをした左手が持ち出したのは、黒い円筒状のデバイスだった。
 先端が、ちかちか赤く光っていた。
 ホタルの全身を恐怖が駆け巡る。
 違っていて欲しいと。やつの過信であって欲しいと、祈りながら叫ぶ。
「ダインスレイヴはフェニアスさんが壊した!」
「いいや壊していない。彼女は壊せなかった。だからお前たちの元に戻ったぁ……」
 息も絶え絶えに、モハティは首を振る。白濁した目を見開き、舌先で、歯の裏をちろちろとなめる。
 その姿に戦慄する。先に立たない後悔が、どっと津波のように押し寄せる。
「民を救いたければ!俺と戦っている場合ではなかったのだああぁああぁぁ!」
 モハティの指が、赤い光をぐっと押す。
 半壊した基地の奥で、ガチン、と何かが落ちる音がする。
 きっとそれは撃鉄なのだ。

 この世界に破滅をもたらす、超巨大兵器の。

 ホタルはモハティの体からエクストリーマーを引き抜き、桜色の炎を投げつけて飛翔する。
 アイングラードの谷の上空へ、攻撃が通るその場所へ。
 来る。
 全てを焼き尽くす熱波が。
 来る!
 死を呼ぶ光が!

 一瞬の出来事だった。

 幾億光年先の宇宙、その奥深くで、恒星ほし爆発した死んだように。

 基地の奥が光った。

 光の流線だ。
 ホタルはエクストリーマーを熱し、体の前に掲げた。
 間一髪、光は熱波に阻まれた。
 最初は小指ほどの太さだった。それが徐々に、握り拳ほどに拡大していった。
 真っ白な光は、その内側に虹色のゆらぎを伴って広がっていく。エクストリーマーから発せられる熱が
「うゔ!」
 炎のバリアが破られる。
 光の大部分をホタルは受け止めるが、エクストリーマーの一部が焼き切られ、貫通し、そのまま脇腹を焼かれる。
 痛い!――――――熱い!
 真っ赤に熱した鉄の棒をつき立てられたようだった。
 痛みに悶えている間に、光の線はさらに増える。
 エクストリーマーの刀身は次々に破られ、穴の開いたチーズのようになる。
 右肩に、左のすねに、光が突き刺さり、骨の髄まで焼かれて蒸発する。


 アニメで見るビームのようだった。
 真っ白な光が、石でできた壁を貫通して、王の間を薙いだ。
 ワタルは背中の毛が全部逆立つのを感じた。
 王の間に、何本もの細い線が届く。
 残骸と化した機械たちを蒸発させ、死した兵士たちを丸焦げにしていく。
 虹色を内包した、白い、灼熱の光たちだ。


 光は城を貫き、アポランサスの壁まで到達した。
 固く閉じられた、天まで届く扉の表面に、熱したシガーソケットを押し付けたように真っ赤な斑点ができる。


 ドレイクの息の根を止めんと暴れるオズワイルドを、リンドとゲンキ、ベルナルグが抑え、王の間の外へ引きずり出す。
 ワタルは怪我をしたルーを抱え、階段への一歩を踏み出す。
「大佐!」
 廊下に差し掛かったところで、ワタルは振り返る。
「大佐!!」
 何本もの光の線が、大佐の顔をかすめていく。
 すこしでもふらつけば顔を焼き切られる。そんなな中を、大佐は立ち上がる。
 ダインスレイヴの光線が降り注ぐ方向へ向き直り、呆然と見つめる。
 ダメだ――ワタルは踵を返し、ルーを連れて走り出す。

 このままではエクストリーマーが壊れる。
 自らの体も穴だらけにされながら、ホタルは、フェニアスから受けついだ武器を気に掛ける。
 その意思を貫き通せるか、気が狂いそうになるほど熱く想う。
 肉を焼かれ、骨を焼かれ、内臓を焼かれ、脳みそが、痛い以外の全ての感情を失って暴れ出す。
 自分の出した熱波が、ダインスレイヴに押し負け、吹きすさび、頬を焼く。そのすさまじさに、唇が千切れそうになる。
 血を流し、吐き出しながらも、渾身の力を込めて炎の防御壁を練り上げる。


 ドレイクは後ろを振り向いた。
 増え続ける熱線に、今にも焼かれてしまいそうなフェニアスの亡骸を一目見る。
 燃えるような赤い髪を、そこに顔をうずめた時の匂いを思い出す。
 王の間は崩壊した。
 開いた穴から、はるか遠く、アポランサスの壁で、幻獣を守る扉が同じように焼け落ちていくのが見える。
 虹を内包した光は、愛した人をも消し飛ばす。
 人類史に遺る汚点を、存在した痕跡すらかき消すように。チリさえ残さず。
 愛しい人よ。
 すまなかった。
 せめて、百年前と変わらぬ愛を君に――――



 ホタルは突然、何者かに背中を掴まれた。



 パラシュートが開いたような衝撃とともに、ホタルはダインスレイヴの射線上から引きはがされた。
 遮るものを失ったダインスレイヴは、今度こそ全てを消し去るための巨大なビームとなって飛んで行く。

 アイングラードの谷が光で埋め尽くされる。
 桜の炎で病魔が焼き切れ、歓喜していたモハティが、死んだことも気付かぬ速度で蒸発する。
 遠くアポランサスの壁では、ついに扉が破られ、幻獣たちの世界に光の刃が突き刺さる。
 ファイヤーバードやペガサスが、突然飛び込んできた光に驚いて無我夢中で羽ばたいている。
 逃げ遅れたコカトリスが、ヒッポグリフが、熱を帯びた光に焼かれ、撃ち落とされ、次々に絶命していく。
 ユグドラシルの幹が燃え上がり、大海原ほどの大河の水が、中にいたリヴァイアサンごと蒸発する。
 無数の木々が大地と共にめくれ上がり、光の中に消えたユニコーンを見て、白虎が、サラマンダーが、七転八倒しながら逃げ惑う。

 その中を飛んで行く生物がいる。
 アイングラードの谷に落下しながら、ホタルは見上げる。
 大きな生き物だ――フェニックスよりもさらに大きい――蒼い鱗と、巨大なコウモリのような翼、日本刀のように研ぎ澄まされた爪――――長い首の先に、銀の嘴と、蒼い瞳を持っている――――


「――――――――ドレイク」



「ウォロロロロロロロロ――――――!」
 左腕のないドラゴンが咆哮する。
 誰に教えられたわけでもない。
 確信があったわけでもない。
 しかしホタルは、その名をつぶやいていた。
 ドラゴンは全てを無に帰す光の中を抗い進み、ダインスレイヴの方へ飛んでいく。
 鼻先を焼かれ、鱗を引きはがされても、猛然と突き進む。

 ドレイクは行った。

 愛ゆえに――――

 ドラゴンがダインスレイヴの格納庫に激突した。
 基地の全てを巻き込む、大爆発が起きた。
 トンネルを十本束ねたほど巨大だった光の線は、見当違いの方向へ角度を変えた。アポランサスの壁に巨人が残したいたずら書きのような痕を残し、アイングラードの谷の、右手側の崖を焼き切り、上空の雲を消し飛ばした。
 爆発に巻き込まれ、基地そのものが墜ちて行く。
 この世界を踏みにじり、数多守り人の命を奪った死の象徴が、爆炎の中に消えていく。



 不死鳥隊の隊長は。



 最後にその務めを果たした。
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