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第七章 残虐
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――記憶。西暦2045年8月12日。福建省奥地、グンダルクの森。
翌朝、ワタルは異様な寒気に身震いした。体中に霜が降りたような冷たさだった。
それもそのはず、自分は掛布団も毛布もかぶっておらず、盛り上がった木の根に、よだれを垂らしているだけなのだ。
目を開くと、ホタルの横顔が視界に入る。その顔は、呪いの言葉を浴びせられたように苦悶に満ちている。
「ホタル!」
肩を揺さぶるが、ホタルの目はのりづけされたように閉ざされたままだ。今にも消えそうなか細い呼吸をくり返す以外には、雨に打たれたように汗を流すだけだ。もしやと思って額に手をやると、焼きごてを当てたように熱い。ワタルは反射的に手を放す。
頭の後ろでしゅとん、と風が薙ぎ、フェニアスが帰ってきたことがわかる。フェニアスはステンレスのボトルを手に持っている。川から水をくんで帰ってきたのだと、ワタルは直感する。
「どうしよう!すごい熱だ!」
ワタルの言葉から百を知り、フェニアスはホタルの額に手を当てる。美しい横顔に緊迫のシワが刻まれ、ワタルはまた、不安が加速する。
フェニアスは荷物の中からミニタオルを引っ張り出すと、水で濡らし、ホタルの顔にそっと当てた。ホタルは甘えるような声を出して、ミニタオルに額をこすりつけた。
「体力が限界に近い。急がなければ――ワタル」
フェニアスは、木の根の間に詰め込まれた荷物の山に視線を送る。
「最低限、必要なものに絞れるか」
「げっ」
やばいぞ、と思いながら、ワタルは荷物の山にダイブする。自分のボストンバッグを、ジッパーが弾け飛ぶくらいの速度で開く。その中には、最新のゲーム機や、スマホの充電器なんかがごちゃごちゃに詰め込まれている。クリア目前まで進めていたRPGのファンファーレが、頭の中で響く。頭を振る。ファンファーレは止まず、鳴り続ける。
「ワタル!急げ!」
白いブーツが気高く鳴る。フェニアスが、プリーツスカートから眩しい太ももを覗かせ、木の根に片足をかけている。その背に、ぐったりとしたホタルを抱えている。
ワタルはえんじ色のリュックサックを穴があくほど見つめる。それはホタルの荷物をまとめたものだ。ファンファーレがまた鳴る。自分のボストンバッグに視線を奪われる。まだ鳴っている。というより、一生消えないのかもしれない。このまま。
「ワタル!」
「ええい!くそ!」
ワタルはえんじ色のリュックサックをひっつかむと、フェニアスを追って駆け出した。
結局、ワタルが持ち出せたのは、ホタルのリュックサックの他に、肩からかけられるトートバッグと、お腹の前に回したショルダーバッグだけだった。食料は最低限。あとは救急セットやロープやアルミの保温シートなど、野宿に役立ちそうなもので埋まっている。ゲーム機の入ったボストンバッグを置いて行く時、四度も振り返ったのは内緒だ。情けなくて誰にも言えない。
フェニアスはと言うと、人一人担いだ状態でウサイン・ボルトより速く走っている。しかも緑生い茂る森の中を、だ。ちょっと気を抜くと、おぶわれたホタルのポニーテールがあっという間に木々の間に消える。木漏れ日を反射する大河の支流が無ければ、ワタルは二人の行く先を見失っていたかもしれない。死に物狂いで茂みをかき分け、頬や腕をあっちこっち擦りむきながらついて行く。
喉がカラカラになったが、フェニアスは止まってくれなかった。正確に言うとフェニアスは何度も止まっているのだが、それは、遅れたワタルを待っているに過ぎない。ワタルはもちろん、文句の一つもなく黙々と歩く。走る力はとうに残っておらず、絞り切った雑巾から一滴の水を得ようとするように、体の奥底にある底力を無理やりひねり出す。
「もう少しだ」
この旅で初めて、フェニアスが歩幅を縮める。スピードも亀のようにのろくなる。ワタルは感謝感激しながらスローダウンする。視界の先に木々の切れ間がある。誰かが特大のスポットライトでこちらを照らしているみたいに、太陽の光が強くて何も見えない。
なぜだろう、ワタルの欲しいものが、ホタルを救う何かが、その先にはある気がするのに、フェニアスは一向に飛び出す気配がない。茂みの影に体を隠すと、のれんをくぐるように大きな葉を持ち上げ、外の様子をうかがっている。磨いたリンゴのように赤い唇に、そっと人差し指が伸びる。ワタルは緊張と唾を飲み込み、音もなくその場にしゃがみこむ。
フェニアスの脇の下から外を覗くと、そこには広大な草原が広がっていた。
森から飛び出した大河は大きく左へカーブを描き、ギラギラと太陽を反射している。川と反対側に目を向けると、天まで届く、赤茶けた大きな岩が景色を遮っている。オーストラリアにあんな色の巨大な岩があったと、ワタルは思い出す。だがそれよりもはるかに大きい。自分が走破した森に沿うように、何キロも先まで続いている。
果ての見えない巨岩から視線を引き剥がし、川との間に真っ直ぐ走らせると、遠くに街のようなものが見える。地平線の上に、白いタケノコの里を並べたようにちょこんと建物がある。数は多くない。だが、あの角ばった形は間違いなく人工物だ。丸一日と数時間、大自然しか見てこなかったワタルには、あそこが砂漠の中のオアシスのように見える。しかし――
「なぜここに兵士が」
フェニアスの声が汗ばんでいる。
その言葉通り、川沿いに一台の軍用車と、三人の兵士がいる。車の中にももう一人、運転手かいる。ロックに頭を揺らしている。外の三人は川沿いの石ころを蹴りながら歩き回っている。その手には機関銃が握られている。
フェニアスが猫のように素早く屈んだ。ワタルは慌てて尻もちをつく。フェニアスの腰に下げられた大剣の、切っ先が目の前にある。普段、コンクリートのように灰色をしているそれが、オレンジ色に染まって発光している。女性特有のほっそりとした指が、大剣の柄に手をかけている。爪の先が艶のある赤で塗られていることに、ワタルは今さら気付く。
電気ストーブのつまみを一気に最大までひねったように、ものすごい熱が大剣から発せられている。足元の泥が蒸発し、砂粒となって、草切れと一緒に上昇気流に乗って巻きあがる。
このまま太陽が誕生するのではないかと、ワタルは恐ろしくなる。同時に踊り出したくなるような喜びも感じて頬が緩む。困惑する。
フェニアスは、筋張って、骨が浮き出るほど強く柄を握りしめていた。しかし、ルビーのような瞳をぴたりと閉じると、一本ずつ引きはがすように、大剣から指を放した。謎の発光はやみ、オレンジだった刃がくすんだ灰色に戻った。肌を焦がすほどの灼熱が、夕日が落ちた時のように大気に吸い込まれていった。肩に頭をもたれ、激しく息つくホタルに、フェニアスは頬ずりするように語り掛けた。
「ホタル、もう少し頑張ってくれ。迂回する」
「「「うわあぁぁぁ!」」」
自分の声が、何百マイルも先へ飛んでいく。腰に括りつけたロープが、がっくぅん、と縮まり、胴体が真っ二つに裂けそうになる。体がくの字に折れ曲がる。肩にかけていたトートバッグがすっぽ抜け、爪の先に辛うじて引っかかる。
ワタルは情けない振れ幅で揺れる。ドライアイスの蒸気に触れたように、冷たい風が頬を切る。というか、さっきから霧のような雲が眼前を横切っている。ロープの先端を目でたどると、両手で掴めそうなほど細いフェニアスの腰に、固く繋がれている。
大地と垂直にそびえ立つ赤茶けた岸壁に、自分はぶら下がっている。すでに数百メートルも登っている。あんなに大きかった森の木々が、レゴのように小さく見える。草原の草一本一本はもはや視認できず、キャンパス一面に塗りたくった黄緑の絵の具を、刷毛でひっかいたようにしか見えない。下品すぎてホタルに言えないが、金玉がひゅんと縮み上がる。
「何をしている!」
背中にホタルを縛り付けたフェニアスに、十二メートル上空から怒鳴られる。彼女は赤茶けた岩の、豆粒ほどわずかな突起に手をかけ、自身とワタル、そしてホタル、三人分の体重を支えている。
「手を離すな!死にたいのか!」
ぶぅらぶらと揺れながら、ワタルは叫び返す。
「死にたくないですぅ!」
もう俺はだめかもしれない。
「でも動かないんですぅ!」
大地が恋しくてたまらない。電気が走ったようにびりびりする両腕を風で冷やしながら、ワタルは激しく後悔していた。
ほとんどフェニアスの力に頼りながらも、ワタルはなんとか巨岩を登り切った。トレーナーの胸を真っ赤な土色に染め上げながら、その頂上へと這いあがる。
「……すげえ」
立ち上がった時、ワタルはここにいたるまでに蓄積した疲労と苦労、そして悪化するホタルの容態、そういったことを一瞬、全て忘れた。
まるで自分が、巨人の世界に放り込まれたように感じる、それほどの大スケールだった。
赤茶けた岩の上は、ほとんどまったいらで、テニスコートを縦に入れたほどの幅があった。端まで歩いてみると、下はぱっくりと割れた渓谷になっていた。木々が少なげで、岩肌がむき出しになっているようだが、高すぎてもやがかかり、よく見えない。五百メートル先には、自分が登ったのと同じ巨岩が、同じように地面と垂直にそびえ立っている。二つの巨岩と渓谷は、並走するように真っ直ぐ、どこまでも続いている。その先も、霧がかかっていて見通せない。右に行けば恐らく基地が、左に行けばフェニアスの目指す城とやらがあるはずだ。
「アイングラードの谷だ。自然にできたものではない」
「えっ」
冷たい空気と共に流れてきたフェニアスの言葉に、ワタルは振り返る。
「この世界は3000年前、神官の手によって作られたものだ。現に、この谷には川が流れた跡がない」
フェニアスは渓谷をなぞるように見渡すと、感傷もそこそこに歩き出した。
アイングラードの谷を走破するのは思いのほか簡単だった。なにせ、森と違って木の根や岩が邪魔しないし、地面が上下左右にうねることもない。ただひたすら、真っ直ぐに進めばよいのだ。
巨岩の終点にたどり着くと、左手遠くに大河の支流が見えた。こっそり顔を覗かせると、マッチ棒のような兵士たちがまだ巡回を続けていた。そっちは諦めて、向かって右側、谷間の先へ視線を向けると、大きな城壁があった。谷の終点から一キロはあろうかというのに、遠近感が狂ってしまうほど大きい。
ワタルは垂直に切り立った岩べりに這いつくばり、身を乗り出して見入ってしまう。真っ白な石を積み上げた城壁が、アイングラードの谷にも負けない高さでそびえ立ち、ちょうど渓谷を真っ直ぐ行くと、アーチ状の扉にぶち当たるようになっている。扉は木製だろうが、べらぼうに大きかった。騎馬隊が進むとしたら、六頭の馬が並んで通れるだろう。武器を運び入れるなら、小型のロケットが直立したままくぐれるだろう。表面には金属が格子状に絡み合い、強度を上げているのがわかる。そして中心部に――――
「不死鳥……」
灰色の、大きな鳥の意匠だった。説明書きなんてどこにもないのに、ワタルは不思議とその名をつぶやいていた。翼を振り上げ、鋭いくちばしで天高くいななくその姿は、今にも飛び出してきそうな躍動感で見る者を魅了する。ものすごい遠くから見ているのに、きっと羽の一枚一枚に至るまで丁寧に作られているのだとわかる。
「あの向こうに我が城がある。あそこまでたどり着けば、ホタルの治療もできよう」
「え?ワガ……?ん……?なんだ、いい匂いが……」
ワタルはすんすんと鼻を膨らませた。
城壁の向こうから食べ物が匂ってくるはずはない。あれは遠すぎる。よく目を凝らすと、全体にかかっている白い靄の中に、よりくっきりとした白い筋が漂っていることに気付く。ワタルはもう一度鼻の穴を大きく膨らませる。香ばしい、肉でも焼いたような匂いがその煙に含まれているのがわかる。出所を目で追うと、切り立った崖の下の方に、キャンプファイヤーのような大きな炎の塊が四つ、見える。灯台下暗しだ。今の今まで気づかなかった。うまいものでも作っているのかと、ワタルはさらに身を乗り出す。
崩れたジェンガのように積み上げられた塊が、炎を上げて燃えていた。周りには兵士が何人か巡回していて、近くにはブルドーザーのような重機もいた。ブルドーザーは地面をガリガリ削りながら、何かごちゃごちゃした塊を押していて、こんもりとした山が出来上がっていた。よくよく見ると、その山は三つも四つもあって、キャンプファイヤーの順番待ちでもするかのように、列を作って並んでいた。
「うっ!――――」
喉の奥から、ものすごい吐き気がこみあげてきた。ワタルはとっさに鼻と口を握りつぶした。
うまそうな匂いを吐き出すキャンプファイヤーの中だ。
その、ヂロヂロとうごめく炎の舌先の、隙間から見えた。
あんなにひょろ長い鳥がいるものか。
あんなに細い豚がいるものか。
手先が五本に分かれた牛が、いるものか。
人間だ。
積み上げられているのは人間だ。
燃やされているのは人間なのだ。
いい匂いだと、うまい飯だと思って自分が嗅いだのは、人間を焼いた煙だったのだ。
「うぅぅう!ぅおぇえええええ!」
ワタルは激しく嘔吐した。この一日、ほとんど食べていなかったにも関わらず、嗚咽は何度もなんどもこみ上げ、胃を空にしてもまだ続いた。
ボクサーのように上げた腕が、真っ黒に焼けただれていた。唇が焼け落ち、食いしばった歯がむき出しになっていた。男だったのか、女だったのか、若者だったのか老人だったのか、その一切がわからない。ただの肉の塊になってもまだ焼け続けていた。すすのように脳裏にこびりついて離れない。嗚咽がまた繰り返し出てくる。
「なんっで……なんでこんな――」
言葉にならない。吐しゃ物でぐっしょりと汚れた頬を、トレーナーの袖で強引に拭きとる。
振り返ると、フェニアスが、岸壁に立ち、天命を与える神のように見下ろしている。数百メートル下の炎に煽られるはずなんてないのに、その顔に赤い光が反射しているように見える。
「なんてことを……」
ホタルの口が、六時間ぶりに言葉を紡ぐのを、こんなに嬉しくないと思うなんて。今朝の自分に言って聞かせても絶対にわかってもらえないだろう。
げっそりとやつれた顔を、フェニアスの肩越しに覗かせ、ホタルが静かに涙を流していた。
アイングラードの谷にはもう一つ、赤いしずくが落ちた。
その正体に気付いた時、ワタルは申し訳なさでいっぱいになった。
フェニアスの赤い爪が、手の平に食い込んでいる。赤い爪を、もっと赤い液体が、まるで塗りなおすようににじみ出ている。それでもなお、爪は深く、ふかく食い込んでいく。固く握りしめた手が、腕が、わなわなと振るえ、肩まで震え、唇を歯で噛み潰している。体の中から飛び出そうとしている猛獣を、無理やり押さえつけているようにも見える。ルビーのような瞳が真っ赤に腫れあがり、美しい横顔に、激しい怒りが刻まれている。
その表情を見るだけでわかった。
無惨に焼かれている人々が、フェニアスにとってどういう人たちだったのか。
彼女の心が、体から離れて行って、もう二度と元に戻らないのではないかとワタルは思った。恐ろしくて震えた。人が抱えられる怒りを超越していた。人が受け止められる悲しみはとうに過ぎ去っていた。彼女の体中から憎しみが染み出して、空を寂しい色で染めてあげて、アイングラードにしとしとと降り積もったようだった。吐く息も、吸う息も、重たく、苦しい。
「ごめんなさい……」
亜麻色の瞳をぎゅっと閉じて、ホタルが言った。フェニアスの肩に乗っていた両腕で、フェニアスをぎゅうぅと抱きしめて、その背中に鼻をこすりつけて、すり切れそうな声で。
「ごめんなさい……フェニアスさん……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい――」
ホタルはうわ言のように繰り返し、また気を失った。
フェニアスは目の前で泡が弾けたように反応した。我に返ったようだった。
視線の行き先が現実世界に戻ってくる。桜色の炎が両手を包み、爪の数だけついていた痕が癒される。優しい色に戻ったルビーの瞳で、フェニアスは自分の右肩を見る。
「ホタルのせいではない」
威厳たっぷりの声には、慈愛が満ちている。
「占領されてるんですか」
そうではないかと疑う事実を、確認するためにワタルは聞いた。
「状況からみて、間違いないだろう」
「どうすればいいんだよ!城に行けば、なんとかなるって……!」
「すまない。私が捕らえられてまだひと月……まさか人間が、この短期間で我が軍を打ち倒すとは」
フェニアスが苦しそうに目を閉じたのを見て、ワタルは怒りをそのまま口にしたことを恥じた。頭をバリバリかいて、できるだけ普通の口調になるよう気を付けた。
「他に街はないんですか?手術を受けられるところは?」
「……ない」
フェニアスは美しい顔を左右に振る。
「どこにも」
立ち上る四本の煙と、その向こうの城壁を見つめながら、悔しそうにつぶやく。
「我々は3000年の間、この中だけで暮らしてきた。物資も人も、たかが知れている」
「そんな……じゃあどうすれば……」
ワタルは、アイングラードの固い岩盤に拳をぶつけた。自分たちがもうどうしようもない立場に置かれたのだと、心底思い知った。進めば地獄。戻っても地獄。しかし戻らねばホタルは死ぬ。死んでしまう。アンパンマンみたいに、自分の命を切り取って、ホタルに分けてあげられたらいいのに。何もできない己の無力さに怒りが湧く。
視界の端で、フェニアスの白いブーツがじゃり、と動いた。
最初は二等辺三角形の、一番小さい角度くらいに。二度目は、はっきりと靴底を上げて、三歩前へ駆けるように。
何事かと思って顔を上げると、フェニアスが宝物でも見つけたかのように顔を輝かせ、左手で大きく手招きしていた。
「ワタル!こっちへ!」
ワタルは今一度力を奮い立たせた。
立ち上がり、泥だらけのトレーナーを叩きまくった。
フェニアスが何を見つけたにしろ、構わない。
ホタルのためなら、どこまでもついて行く。
前言撤回、ワタルは激しく後悔していた。
フェニアスは再び森の中へ戻ると、特に何の説明もなく、頑張れとかの声かけもなく、ホタルを担いだまま、再び猛スピードで走っている。
アイングラードを、登った時の三倍の速度で降りたことに文句も言えず(あれは降りるというか、ほぼ落下に近い代物だった)、再び道なき道を走ることに口答えもできず、ワタルはへとへとになりながらついて行く。
だから前言撤回だ。アイングラードの頂上で決めた覚悟が、秒で吹き飛んでしまった。
「フェ、フェニアスさ~ん……」
中三の夏、自転車のタイヤがパンクした時、今の自分の声と同じような音で空気が抜けた気がする。ワタルはそんなことを考えながらついに立ち止まった。膝に手をついて酸素を補給したが、頭を下げた先にも茂みの枝があって、そろそろ本当に嫌になりそうだった。
フェニアスが百メーター先で立ち止まり、振り向いた。俺のことを気遣ってくれるかも、なんて一瞬考えもしたが、彼女はすぐに、もう一度前を向いた。そのまま数秒、進行方向を見つめ続けている。
「ワタル、荷物は私が」
「うわぁ!?」
スマホの音量設定を間違えたみたいに、突然フェニアスの声が大音量で響いた。百メーター先にフェニアスの姿はなく、いつの間にか真隣に絶世の美女がいた。
「え……?ぜぇ……はぁ……どぅえも……」
フェニアスがてきぱきと、ワタルの体に固定されている荷物を回収していく。ホタルを背負ったまま、リュックを右ひじに、トートバッグを左ひじに、そしてショルダーバッグを体の前に回し、ベルトをきゅっと引き絞った。
「その代わり走るのだ。全速力で!」
荷物三つ分の重量が増えたというのに、フェニアスはさらに加速する。オリンピックの歴代金メダリストを全て集めても、彼女より速い人間はいないだろう。ワタルが追いつける日は、二度と来ないだろう。
というか、なん――ブーツで――速――酸素の供給が追い付かない。ワタルは頭の中まで周回遅れになり始める。
「げっほ!ごほ!フェ、フェニア――ぅえっ!」
肺が酸素を求めて暴れまわり、横隔膜が痙攣した。
「ワタル!急げ!」
フェニアスの声が、遥か前方から風に乗って飛んでくる。それと同時に、風ではない何かも、一緒になって飛んでくる。緑の光が線を引いて、風より早く駆けてくる。
光の線はフェニアスを避けるように二手に分かれ、二つにまとめた赤髪の両方を、ぶわっと舞い上げる。それが通り抜けた瞬間、フェニアスの顔がこわばる。新幹線の窓から見えるネオンサインのようだ。森の中でも映える、明るい蛍光色の翠だ。
光の後には、巻き上げられた落ち葉や草花がついてきて、自然のシャワーのようにワタルに向かってくる。
あぁ、ついに俺は幻覚まで見え始めたのか。
自暴自棄にそう思った、次の瞬間だった。
下腹部に、内臓が破裂するほどの激痛が走った。
「ゔっ――――!」
窮地に追い込まれると人は、生き延びる術を探して走馬燈を見ると言う。
この時のワタルは、限りなくそれに近い状態だった。
痛みが波のように広がっていくのを感じる。肌が、肉が波打って、肋骨をピアノの鍵盤のように順番に叩いている。そのまま、四十センチも体が浮き上がる。
「ぐっ……うぅ……」
巻きあがった土が、いつまでたっても落ちて行かない。周囲の情景が遅く、鈍くみえる。
空中でもがくが、体の制御がきかない。そんなところに。
またやって来る。
視界の先で、フェニアスが右足を地面に突き刺し、反転しようとしているのが見える。しかしそれも、いたくゆっくりに見える。赤いツインテールと、背に負ぶわれたホタルのポニーテールが、美しい半月を描いている。恐ろしいのは、この状態でも、翠の光をとらえきれないというところだ。
「うぅ……ぅぉぁああああああ…………」
来る。
やって来る!
見えるというだけで、そのまま素早く動けるわけではない。
ワタルは、丸太で殴られたような衝撃に襲われた。
最後に見えたのは、翠色の閃光だった。
翌朝、ワタルは異様な寒気に身震いした。体中に霜が降りたような冷たさだった。
それもそのはず、自分は掛布団も毛布もかぶっておらず、盛り上がった木の根に、よだれを垂らしているだけなのだ。
目を開くと、ホタルの横顔が視界に入る。その顔は、呪いの言葉を浴びせられたように苦悶に満ちている。
「ホタル!」
肩を揺さぶるが、ホタルの目はのりづけされたように閉ざされたままだ。今にも消えそうなか細い呼吸をくり返す以外には、雨に打たれたように汗を流すだけだ。もしやと思って額に手をやると、焼きごてを当てたように熱い。ワタルは反射的に手を放す。
頭の後ろでしゅとん、と風が薙ぎ、フェニアスが帰ってきたことがわかる。フェニアスはステンレスのボトルを手に持っている。川から水をくんで帰ってきたのだと、ワタルは直感する。
「どうしよう!すごい熱だ!」
ワタルの言葉から百を知り、フェニアスはホタルの額に手を当てる。美しい横顔に緊迫のシワが刻まれ、ワタルはまた、不安が加速する。
フェニアスは荷物の中からミニタオルを引っ張り出すと、水で濡らし、ホタルの顔にそっと当てた。ホタルは甘えるような声を出して、ミニタオルに額をこすりつけた。
「体力が限界に近い。急がなければ――ワタル」
フェニアスは、木の根の間に詰め込まれた荷物の山に視線を送る。
「最低限、必要なものに絞れるか」
「げっ」
やばいぞ、と思いながら、ワタルは荷物の山にダイブする。自分のボストンバッグを、ジッパーが弾け飛ぶくらいの速度で開く。その中には、最新のゲーム機や、スマホの充電器なんかがごちゃごちゃに詰め込まれている。クリア目前まで進めていたRPGのファンファーレが、頭の中で響く。頭を振る。ファンファーレは止まず、鳴り続ける。
「ワタル!急げ!」
白いブーツが気高く鳴る。フェニアスが、プリーツスカートから眩しい太ももを覗かせ、木の根に片足をかけている。その背に、ぐったりとしたホタルを抱えている。
ワタルはえんじ色のリュックサックを穴があくほど見つめる。それはホタルの荷物をまとめたものだ。ファンファーレがまた鳴る。自分のボストンバッグに視線を奪われる。まだ鳴っている。というより、一生消えないのかもしれない。このまま。
「ワタル!」
「ええい!くそ!」
ワタルはえんじ色のリュックサックをひっつかむと、フェニアスを追って駆け出した。
結局、ワタルが持ち出せたのは、ホタルのリュックサックの他に、肩からかけられるトートバッグと、お腹の前に回したショルダーバッグだけだった。食料は最低限。あとは救急セットやロープやアルミの保温シートなど、野宿に役立ちそうなもので埋まっている。ゲーム機の入ったボストンバッグを置いて行く時、四度も振り返ったのは内緒だ。情けなくて誰にも言えない。
フェニアスはと言うと、人一人担いだ状態でウサイン・ボルトより速く走っている。しかも緑生い茂る森の中を、だ。ちょっと気を抜くと、おぶわれたホタルのポニーテールがあっという間に木々の間に消える。木漏れ日を反射する大河の支流が無ければ、ワタルは二人の行く先を見失っていたかもしれない。死に物狂いで茂みをかき分け、頬や腕をあっちこっち擦りむきながらついて行く。
喉がカラカラになったが、フェニアスは止まってくれなかった。正確に言うとフェニアスは何度も止まっているのだが、それは、遅れたワタルを待っているに過ぎない。ワタルはもちろん、文句の一つもなく黙々と歩く。走る力はとうに残っておらず、絞り切った雑巾から一滴の水を得ようとするように、体の奥底にある底力を無理やりひねり出す。
「もう少しだ」
この旅で初めて、フェニアスが歩幅を縮める。スピードも亀のようにのろくなる。ワタルは感謝感激しながらスローダウンする。視界の先に木々の切れ間がある。誰かが特大のスポットライトでこちらを照らしているみたいに、太陽の光が強くて何も見えない。
なぜだろう、ワタルの欲しいものが、ホタルを救う何かが、その先にはある気がするのに、フェニアスは一向に飛び出す気配がない。茂みの影に体を隠すと、のれんをくぐるように大きな葉を持ち上げ、外の様子をうかがっている。磨いたリンゴのように赤い唇に、そっと人差し指が伸びる。ワタルは緊張と唾を飲み込み、音もなくその場にしゃがみこむ。
フェニアスの脇の下から外を覗くと、そこには広大な草原が広がっていた。
森から飛び出した大河は大きく左へカーブを描き、ギラギラと太陽を反射している。川と反対側に目を向けると、天まで届く、赤茶けた大きな岩が景色を遮っている。オーストラリアにあんな色の巨大な岩があったと、ワタルは思い出す。だがそれよりもはるかに大きい。自分が走破した森に沿うように、何キロも先まで続いている。
果ての見えない巨岩から視線を引き剥がし、川との間に真っ直ぐ走らせると、遠くに街のようなものが見える。地平線の上に、白いタケノコの里を並べたようにちょこんと建物がある。数は多くない。だが、あの角ばった形は間違いなく人工物だ。丸一日と数時間、大自然しか見てこなかったワタルには、あそこが砂漠の中のオアシスのように見える。しかし――
「なぜここに兵士が」
フェニアスの声が汗ばんでいる。
その言葉通り、川沿いに一台の軍用車と、三人の兵士がいる。車の中にももう一人、運転手かいる。ロックに頭を揺らしている。外の三人は川沿いの石ころを蹴りながら歩き回っている。その手には機関銃が握られている。
フェニアスが猫のように素早く屈んだ。ワタルは慌てて尻もちをつく。フェニアスの腰に下げられた大剣の、切っ先が目の前にある。普段、コンクリートのように灰色をしているそれが、オレンジ色に染まって発光している。女性特有のほっそりとした指が、大剣の柄に手をかけている。爪の先が艶のある赤で塗られていることに、ワタルは今さら気付く。
電気ストーブのつまみを一気に最大までひねったように、ものすごい熱が大剣から発せられている。足元の泥が蒸発し、砂粒となって、草切れと一緒に上昇気流に乗って巻きあがる。
このまま太陽が誕生するのではないかと、ワタルは恐ろしくなる。同時に踊り出したくなるような喜びも感じて頬が緩む。困惑する。
フェニアスは、筋張って、骨が浮き出るほど強く柄を握りしめていた。しかし、ルビーのような瞳をぴたりと閉じると、一本ずつ引きはがすように、大剣から指を放した。謎の発光はやみ、オレンジだった刃がくすんだ灰色に戻った。肌を焦がすほどの灼熱が、夕日が落ちた時のように大気に吸い込まれていった。肩に頭をもたれ、激しく息つくホタルに、フェニアスは頬ずりするように語り掛けた。
「ホタル、もう少し頑張ってくれ。迂回する」
「「「うわあぁぁぁ!」」」
自分の声が、何百マイルも先へ飛んでいく。腰に括りつけたロープが、がっくぅん、と縮まり、胴体が真っ二つに裂けそうになる。体がくの字に折れ曲がる。肩にかけていたトートバッグがすっぽ抜け、爪の先に辛うじて引っかかる。
ワタルは情けない振れ幅で揺れる。ドライアイスの蒸気に触れたように、冷たい風が頬を切る。というか、さっきから霧のような雲が眼前を横切っている。ロープの先端を目でたどると、両手で掴めそうなほど細いフェニアスの腰に、固く繋がれている。
大地と垂直にそびえ立つ赤茶けた岸壁に、自分はぶら下がっている。すでに数百メートルも登っている。あんなに大きかった森の木々が、レゴのように小さく見える。草原の草一本一本はもはや視認できず、キャンパス一面に塗りたくった黄緑の絵の具を、刷毛でひっかいたようにしか見えない。下品すぎてホタルに言えないが、金玉がひゅんと縮み上がる。
「何をしている!」
背中にホタルを縛り付けたフェニアスに、十二メートル上空から怒鳴られる。彼女は赤茶けた岩の、豆粒ほどわずかな突起に手をかけ、自身とワタル、そしてホタル、三人分の体重を支えている。
「手を離すな!死にたいのか!」
ぶぅらぶらと揺れながら、ワタルは叫び返す。
「死にたくないですぅ!」
もう俺はだめかもしれない。
「でも動かないんですぅ!」
大地が恋しくてたまらない。電気が走ったようにびりびりする両腕を風で冷やしながら、ワタルは激しく後悔していた。
ほとんどフェニアスの力に頼りながらも、ワタルはなんとか巨岩を登り切った。トレーナーの胸を真っ赤な土色に染め上げながら、その頂上へと這いあがる。
「……すげえ」
立ち上がった時、ワタルはここにいたるまでに蓄積した疲労と苦労、そして悪化するホタルの容態、そういったことを一瞬、全て忘れた。
まるで自分が、巨人の世界に放り込まれたように感じる、それほどの大スケールだった。
赤茶けた岩の上は、ほとんどまったいらで、テニスコートを縦に入れたほどの幅があった。端まで歩いてみると、下はぱっくりと割れた渓谷になっていた。木々が少なげで、岩肌がむき出しになっているようだが、高すぎてもやがかかり、よく見えない。五百メートル先には、自分が登ったのと同じ巨岩が、同じように地面と垂直にそびえ立っている。二つの巨岩と渓谷は、並走するように真っ直ぐ、どこまでも続いている。その先も、霧がかかっていて見通せない。右に行けば恐らく基地が、左に行けばフェニアスの目指す城とやらがあるはずだ。
「アイングラードの谷だ。自然にできたものではない」
「えっ」
冷たい空気と共に流れてきたフェニアスの言葉に、ワタルは振り返る。
「この世界は3000年前、神官の手によって作られたものだ。現に、この谷には川が流れた跡がない」
フェニアスは渓谷をなぞるように見渡すと、感傷もそこそこに歩き出した。
アイングラードの谷を走破するのは思いのほか簡単だった。なにせ、森と違って木の根や岩が邪魔しないし、地面が上下左右にうねることもない。ただひたすら、真っ直ぐに進めばよいのだ。
巨岩の終点にたどり着くと、左手遠くに大河の支流が見えた。こっそり顔を覗かせると、マッチ棒のような兵士たちがまだ巡回を続けていた。そっちは諦めて、向かって右側、谷間の先へ視線を向けると、大きな城壁があった。谷の終点から一キロはあろうかというのに、遠近感が狂ってしまうほど大きい。
ワタルは垂直に切り立った岩べりに這いつくばり、身を乗り出して見入ってしまう。真っ白な石を積み上げた城壁が、アイングラードの谷にも負けない高さでそびえ立ち、ちょうど渓谷を真っ直ぐ行くと、アーチ状の扉にぶち当たるようになっている。扉は木製だろうが、べらぼうに大きかった。騎馬隊が進むとしたら、六頭の馬が並んで通れるだろう。武器を運び入れるなら、小型のロケットが直立したままくぐれるだろう。表面には金属が格子状に絡み合い、強度を上げているのがわかる。そして中心部に――――
「不死鳥……」
灰色の、大きな鳥の意匠だった。説明書きなんてどこにもないのに、ワタルは不思議とその名をつぶやいていた。翼を振り上げ、鋭いくちばしで天高くいななくその姿は、今にも飛び出してきそうな躍動感で見る者を魅了する。ものすごい遠くから見ているのに、きっと羽の一枚一枚に至るまで丁寧に作られているのだとわかる。
「あの向こうに我が城がある。あそこまでたどり着けば、ホタルの治療もできよう」
「え?ワガ……?ん……?なんだ、いい匂いが……」
ワタルはすんすんと鼻を膨らませた。
城壁の向こうから食べ物が匂ってくるはずはない。あれは遠すぎる。よく目を凝らすと、全体にかかっている白い靄の中に、よりくっきりとした白い筋が漂っていることに気付く。ワタルはもう一度鼻の穴を大きく膨らませる。香ばしい、肉でも焼いたような匂いがその煙に含まれているのがわかる。出所を目で追うと、切り立った崖の下の方に、キャンプファイヤーのような大きな炎の塊が四つ、見える。灯台下暗しだ。今の今まで気づかなかった。うまいものでも作っているのかと、ワタルはさらに身を乗り出す。
崩れたジェンガのように積み上げられた塊が、炎を上げて燃えていた。周りには兵士が何人か巡回していて、近くにはブルドーザーのような重機もいた。ブルドーザーは地面をガリガリ削りながら、何かごちゃごちゃした塊を押していて、こんもりとした山が出来上がっていた。よくよく見ると、その山は三つも四つもあって、キャンプファイヤーの順番待ちでもするかのように、列を作って並んでいた。
「うっ!――――」
喉の奥から、ものすごい吐き気がこみあげてきた。ワタルはとっさに鼻と口を握りつぶした。
うまそうな匂いを吐き出すキャンプファイヤーの中だ。
その、ヂロヂロとうごめく炎の舌先の、隙間から見えた。
あんなにひょろ長い鳥がいるものか。
あんなに細い豚がいるものか。
手先が五本に分かれた牛が、いるものか。
人間だ。
積み上げられているのは人間だ。
燃やされているのは人間なのだ。
いい匂いだと、うまい飯だと思って自分が嗅いだのは、人間を焼いた煙だったのだ。
「うぅぅう!ぅおぇえええええ!」
ワタルは激しく嘔吐した。この一日、ほとんど食べていなかったにも関わらず、嗚咽は何度もなんどもこみ上げ、胃を空にしてもまだ続いた。
ボクサーのように上げた腕が、真っ黒に焼けただれていた。唇が焼け落ち、食いしばった歯がむき出しになっていた。男だったのか、女だったのか、若者だったのか老人だったのか、その一切がわからない。ただの肉の塊になってもまだ焼け続けていた。すすのように脳裏にこびりついて離れない。嗚咽がまた繰り返し出てくる。
「なんっで……なんでこんな――」
言葉にならない。吐しゃ物でぐっしょりと汚れた頬を、トレーナーの袖で強引に拭きとる。
振り返ると、フェニアスが、岸壁に立ち、天命を与える神のように見下ろしている。数百メートル下の炎に煽られるはずなんてないのに、その顔に赤い光が反射しているように見える。
「なんてことを……」
ホタルの口が、六時間ぶりに言葉を紡ぐのを、こんなに嬉しくないと思うなんて。今朝の自分に言って聞かせても絶対にわかってもらえないだろう。
げっそりとやつれた顔を、フェニアスの肩越しに覗かせ、ホタルが静かに涙を流していた。
アイングラードの谷にはもう一つ、赤いしずくが落ちた。
その正体に気付いた時、ワタルは申し訳なさでいっぱいになった。
フェニアスの赤い爪が、手の平に食い込んでいる。赤い爪を、もっと赤い液体が、まるで塗りなおすようににじみ出ている。それでもなお、爪は深く、ふかく食い込んでいく。固く握りしめた手が、腕が、わなわなと振るえ、肩まで震え、唇を歯で噛み潰している。体の中から飛び出そうとしている猛獣を、無理やり押さえつけているようにも見える。ルビーのような瞳が真っ赤に腫れあがり、美しい横顔に、激しい怒りが刻まれている。
その表情を見るだけでわかった。
無惨に焼かれている人々が、フェニアスにとってどういう人たちだったのか。
彼女の心が、体から離れて行って、もう二度と元に戻らないのではないかとワタルは思った。恐ろしくて震えた。人が抱えられる怒りを超越していた。人が受け止められる悲しみはとうに過ぎ去っていた。彼女の体中から憎しみが染み出して、空を寂しい色で染めてあげて、アイングラードにしとしとと降り積もったようだった。吐く息も、吸う息も、重たく、苦しい。
「ごめんなさい……」
亜麻色の瞳をぎゅっと閉じて、ホタルが言った。フェニアスの肩に乗っていた両腕で、フェニアスをぎゅうぅと抱きしめて、その背中に鼻をこすりつけて、すり切れそうな声で。
「ごめんなさい……フェニアスさん……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい――」
ホタルはうわ言のように繰り返し、また気を失った。
フェニアスは目の前で泡が弾けたように反応した。我に返ったようだった。
視線の行き先が現実世界に戻ってくる。桜色の炎が両手を包み、爪の数だけついていた痕が癒される。優しい色に戻ったルビーの瞳で、フェニアスは自分の右肩を見る。
「ホタルのせいではない」
威厳たっぷりの声には、慈愛が満ちている。
「占領されてるんですか」
そうではないかと疑う事実を、確認するためにワタルは聞いた。
「状況からみて、間違いないだろう」
「どうすればいいんだよ!城に行けば、なんとかなるって……!」
「すまない。私が捕らえられてまだひと月……まさか人間が、この短期間で我が軍を打ち倒すとは」
フェニアスが苦しそうに目を閉じたのを見て、ワタルは怒りをそのまま口にしたことを恥じた。頭をバリバリかいて、できるだけ普通の口調になるよう気を付けた。
「他に街はないんですか?手術を受けられるところは?」
「……ない」
フェニアスは美しい顔を左右に振る。
「どこにも」
立ち上る四本の煙と、その向こうの城壁を見つめながら、悔しそうにつぶやく。
「我々は3000年の間、この中だけで暮らしてきた。物資も人も、たかが知れている」
「そんな……じゃあどうすれば……」
ワタルは、アイングラードの固い岩盤に拳をぶつけた。自分たちがもうどうしようもない立場に置かれたのだと、心底思い知った。進めば地獄。戻っても地獄。しかし戻らねばホタルは死ぬ。死んでしまう。アンパンマンみたいに、自分の命を切り取って、ホタルに分けてあげられたらいいのに。何もできない己の無力さに怒りが湧く。
視界の端で、フェニアスの白いブーツがじゃり、と動いた。
最初は二等辺三角形の、一番小さい角度くらいに。二度目は、はっきりと靴底を上げて、三歩前へ駆けるように。
何事かと思って顔を上げると、フェニアスが宝物でも見つけたかのように顔を輝かせ、左手で大きく手招きしていた。
「ワタル!こっちへ!」
ワタルは今一度力を奮い立たせた。
立ち上がり、泥だらけのトレーナーを叩きまくった。
フェニアスが何を見つけたにしろ、構わない。
ホタルのためなら、どこまでもついて行く。
前言撤回、ワタルは激しく後悔していた。
フェニアスは再び森の中へ戻ると、特に何の説明もなく、頑張れとかの声かけもなく、ホタルを担いだまま、再び猛スピードで走っている。
アイングラードを、登った時の三倍の速度で降りたことに文句も言えず(あれは降りるというか、ほぼ落下に近い代物だった)、再び道なき道を走ることに口答えもできず、ワタルはへとへとになりながらついて行く。
だから前言撤回だ。アイングラードの頂上で決めた覚悟が、秒で吹き飛んでしまった。
「フェ、フェニアスさ~ん……」
中三の夏、自転車のタイヤがパンクした時、今の自分の声と同じような音で空気が抜けた気がする。ワタルはそんなことを考えながらついに立ち止まった。膝に手をついて酸素を補給したが、頭を下げた先にも茂みの枝があって、そろそろ本当に嫌になりそうだった。
フェニアスが百メーター先で立ち止まり、振り向いた。俺のことを気遣ってくれるかも、なんて一瞬考えもしたが、彼女はすぐに、もう一度前を向いた。そのまま数秒、進行方向を見つめ続けている。
「ワタル、荷物は私が」
「うわぁ!?」
スマホの音量設定を間違えたみたいに、突然フェニアスの声が大音量で響いた。百メーター先にフェニアスの姿はなく、いつの間にか真隣に絶世の美女がいた。
「え……?ぜぇ……はぁ……どぅえも……」
フェニアスがてきぱきと、ワタルの体に固定されている荷物を回収していく。ホタルを背負ったまま、リュックを右ひじに、トートバッグを左ひじに、そしてショルダーバッグを体の前に回し、ベルトをきゅっと引き絞った。
「その代わり走るのだ。全速力で!」
荷物三つ分の重量が増えたというのに、フェニアスはさらに加速する。オリンピックの歴代金メダリストを全て集めても、彼女より速い人間はいないだろう。ワタルが追いつける日は、二度と来ないだろう。
というか、なん――ブーツで――速――酸素の供給が追い付かない。ワタルは頭の中まで周回遅れになり始める。
「げっほ!ごほ!フェ、フェニア――ぅえっ!」
肺が酸素を求めて暴れまわり、横隔膜が痙攣した。
「ワタル!急げ!」
フェニアスの声が、遥か前方から風に乗って飛んでくる。それと同時に、風ではない何かも、一緒になって飛んでくる。緑の光が線を引いて、風より早く駆けてくる。
光の線はフェニアスを避けるように二手に分かれ、二つにまとめた赤髪の両方を、ぶわっと舞い上げる。それが通り抜けた瞬間、フェニアスの顔がこわばる。新幹線の窓から見えるネオンサインのようだ。森の中でも映える、明るい蛍光色の翠だ。
光の後には、巻き上げられた落ち葉や草花がついてきて、自然のシャワーのようにワタルに向かってくる。
あぁ、ついに俺は幻覚まで見え始めたのか。
自暴自棄にそう思った、次の瞬間だった。
下腹部に、内臓が破裂するほどの激痛が走った。
「ゔっ――――!」
窮地に追い込まれると人は、生き延びる術を探して走馬燈を見ると言う。
この時のワタルは、限りなくそれに近い状態だった。
痛みが波のように広がっていくのを感じる。肌が、肉が波打って、肋骨をピアノの鍵盤のように順番に叩いている。そのまま、四十センチも体が浮き上がる。
「ぐっ……うぅ……」
巻きあがった土が、いつまでたっても落ちて行かない。周囲の情景が遅く、鈍くみえる。
空中でもがくが、体の制御がきかない。そんなところに。
またやって来る。
視界の先で、フェニアスが右足を地面に突き刺し、反転しようとしているのが見える。しかしそれも、いたくゆっくりに見える。赤いツインテールと、背に負ぶわれたホタルのポニーテールが、美しい半月を描いている。恐ろしいのは、この状態でも、翠の光をとらえきれないというところだ。
「うぅ……ぅぉぁああああああ…………」
来る。
やって来る!
見えるというだけで、そのまま素早く動けるわけではない。
ワタルは、丸太で殴られたような衝撃に襲われた。
最後に見えたのは、翠色の閃光だった。
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