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エピローグ

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 季節が変わり、四月になった。世界がピンク色で統一されてるみたいに、あちこちで桜が咲きはじめたころは、写真を撮るカップルやレジャーシートの上で弁当を囲んでいる家族を見かけることが多かった。

 そんな時期はたった二週間程度で終わり、四月の中旬に桜は散った。それでも年度が変わり、新しい一年のはじまりにみんな浮き足立っている。

 俺たちは大学二年生になった。周りのやつらも後輩ができて、芸能人並みに可愛い子がいただの、連絡先を交換したい子がいるのだの、みんな浮かれている。

 そんな中で俺の心は、三月の終わりから一向に晴れない。

「きっつ……」

 カルラまで迎えに来てくれた深月と一緒に駅に向かって歩き出す。今日は昼から夕方までシフトに入っていた。このあとは新入生歓迎会のため、二人で居酒屋に行く。

「理人がそんなに参ってるなんて珍しいね」
「わかってんだろ……」
「朱鳥さんに会えなくて寂しい?」

 名前を出されただけで、胸の奥を強く締め付けられるような感覚がある。そんな俺を見て深月は楽しそうに笑う。

「こんなんだとは思わなかったし……」

 呉内さんが長期出張のために日本を発って、もうすぐ三週間だ。連絡先は交換したので、チャットをしたりビデオ通話をしたりすることはあるが、時差があるので長時間はできない。

「それだけ理人は朱鳥さんのことが好きってことだね」
「……まあ、そうだけどさ……つか、なんでお前はそんなに嬉しそうなんだよ」
「え、だってこんな理人、はじめて見たもん。好きな人に会えなくて寂しがってるとか、どう考えてもレアじゃん」
「面白がってんじゃねーよ」

 好きな人に会えないことがこんなにも辛いものだとは思いもしなかった。たった三週間。明日には帰国する。仕事なのだから仕方ない。それはわかっている。わかっていても寂しくて仕方ない。

「昨日の朝は通話したんでしょ」
「そうだけど……話したら余計に会いたくなった」

 昨日の朝は、呉内さんからのメッセージの通知音で目が覚めた。仕事から帰宅したばかりで、すぐに夕飯を食べるらしく、その後にビデオ通話をかけると書いてあった。

 俺は一人でいつも通り味気ない朝食を摂り、呉内さんからの着信を待っていた。食後、十分ほどで着信が鳴り、通話ボタンをタップすると、画面に呉内さんの顔が映った。

「おはよう、理人くん」
「おはようございます、呉内さん」

 五日ぶりに見る呉内さんの顔は、前に見たときより少しやつれていて、疲れているのだとすぐにわかった。

「元気だった? なかなか電話できなくてごめんね」
「元気ですよ。呉内さんは仕事忙しいですか?」
「うん。ちょっとね。でも、もうすぐ帰国できるから」

 そう言いながら呉内さんは缶コーヒーを飲む。日本にいたときはいつもドリップパックを使っていたことを思い出す。今は忙しくて家でコーヒーを淹れる暇もないのだろう。

「理人くんは最近どう?」
 
 ビデオ通話をするとき、呉内さんはたいてい俺の話を聞きたがる。だから俺は日常のちょっとした出来事をいくつか留めておいて、聞かれたら答えるようにしていた。

「俺はいつも通りですよ。春休みが終わったんで、今は毎日授業に追われてます。あ、そういえばこの前、カルラに新しいバイトが入りました。氷坂さんの体調が少し悪化して店に出る頻度が減ったので、それで。バイトの後輩ができるのははじめてで、ちょっと新鮮です」

 今年、俺と同じ大学に入学した男の子が新しくカルラにに入った。氷坂さんが抜けた穴は大きいが、その新人は物覚えや要領がいいので非常に助かっている。

 呉内さんはいつも俺の話を一つ一つ丁寧に楽しそうに聞いてくれる。

「あ、すいません。いつも俺ばっか……」
「気にしないで。理人くんの話を聞きたいのは俺だから」

 日本にいたころより伸びた髪をかきあげる仕草にドキッとする。伏せ目がちに缶コーヒーを飲み干す。少し上を向いたときの首のラインが彫刻みたいだと思った。

 本人は疲れているのだろうが、それはそれで魅力的な雰囲気があり、思わず息を呑んだ。それから三十分ほど話して通話を切った。電話のあとの真っ暗なスマホ画面に映る自分の顔を見て、長いため息をついた。

 アメリカと日本の時差は半日以上ある。そのため、電話をするのは日本が朝で向こうが夜のときだ。こっちが夜だと向こうは仕事に行く前か、すでに行っていることが多い。

 そこで春休みが終わった今は、大学の講義が午後からはじまる日の朝に電話をするようにしている。あるいは向こうの休日。

 そうはいっても仕事が忙しいらしく、メッセージのやりとりで終わることも多々あった。アメリカに行ってから、趣味の料理や読書もできていないと言っていた。日本で呉内さんと一緒にいたことが夢みたいだ。

「そういえば理人って、まだ朱鳥さんのこと呉内さん呼びなの?」
「……まあ、そうだけど」
「名前で呼ばないの?」
「……それは……俺も思ってるんだけど……」
「うん」
「なんていうか、その……は……は……」
「は?」
「…………恥ずい」

 そりゃ、俺だってできることなら深月みたいに、気軽に名前で呼んでみたい。

 呉内さんと付き合いはじめたころは、頭の中で「朱鳥さん」と呼ぶ練習をしていた。会話の最中に何回か呼ぼうとしたが、本人を目の前にするとまったく言葉が出てこない。

「理人……」
「何だよ」
「恋ってすごいね」
「うるせー」

 自分でも思う。呉内さんへの気持ちを自覚してからというもの、これまで自分の中にはなかったさまざまな感情が溢れて、まだうまくコントロールができない。

 人の名前を呼ぶことが、こんなに恥ずかしいと思ったのは生まれてはじめてだ。そもそも名前で呼ぶか名字で呼ぶかなんて気にしたこともなかったのに。

「じゃあさ、明日、朱鳥さんが帰国したときに名前で呼んでみたら?」
「え……」
「だって付き合ってるんでしょ? 朱鳥さんは理人のこと名前で呼んでるんだから、理人だってそうした方がいいと思うけど」
「……タイミングがわかんねえ」
「会話の流れでさらっと呼んでみたら?」
「まあ、わざわざ呼んでいいですかって聞くのも変だしな」
「うん。一回呼べば気が楽になるんじゃない?」
「慣れたら楽だよな」

 深月と話していると呼べるような気がしてきた。深月や京斗さんから名前で呼ばれているわけだから、俺が呼んだって違和感ないだろうし。

「やってみるか」
「うん。呼んだら報告してね」
「別に何もないと思うぞ。俺が気にしてるだけだし」

 呉内さんは多分、呼び方なんてこれっぽっちも気にしてないだろう。そもそもあっちは付き合う前から俺を名前で呼んでいたし、そういうことをさして気にするタイプではないと思う。

「いいじゃん。朱鳥さんの反応気になるし」
「はいはい。まあ、言えたら言ってみるよ。そういや、新歓って何時からだっけ?」
「六時から。理人はお酒飲みすぎちゃだめだよ」
「わかってるって」

 新入生歓迎会の幹事は、近野と今年からうちの学科に転科した相模の二人だ。柴本は春休みの間に退学したと聞いた。近野も理由は聞いておらず、連絡も取れない状況らしい。もちろんこちらから連絡を取るつもりはない。

「ってか、六時からってことはちょっと間に合わないか」
「うーん、そうだね。でもどうせ、はじめはぐだぐだしてると思うよ」
「それもそうだな」

 駅に到着し、予定時刻から五分遅延した電車に乗り込む。店に着くのは六時二十分ごろになりそうだ。

「そういや、理人、髪伸びたね」
「伸ばしてんの」
「何で?」
「色々と便利だから」

 髪は伸ばしているが、呉内さんとお揃いのピアスが隠れるのは嫌なので、基本的にはハーフアップにしている。ピアスは呉内さんが日本を発つ前に穴が安定したので、二人で一緒につけることができた。

 深月と話しているうちに目的の駅に到着した。ちょうど電車を降りたタイミングで近野から電話がかかってきた。居酒屋の場所がわからなかったので、まだ到着しないのかと小言を言う近野に道案内をしてもらう。

 居酒屋は駅から徒歩五分の場所にあった。今回は一階を貸し切っているとのことで、店内に入ったとたん、騒ぎ声が聞こえてきた。店員に声をかけるとすぐに席に案内してくれた。

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