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第六章

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 柴本のバカにしたような笑い声が聞こえてくる。こちらを蔑むような冷たい視線を感じる。

ーーお前みたいなやつ、大嫌いなんだよ

 消えろ、消えろ、と何度願っても、頭の中で柴本の言葉が繰り返される。意味がないとわかっていても、耳を塞がずにはいられなかった。

「理人くん? どうしたの?」

 心配そうな呉内さんの声が少しずつ遠くなり、浅い呼吸を繰り返す。ダメだ。このままじゃ、また何も聞こえなくなる。ちゃんと自分で助けを求めないと、いつかこの声に飲み込まれてしまう。

「……居酒屋のトイレで、男友達に……襲われそうに、なったんです……」

 体から不純物を吐き出すように言った。自分で言って気分が悪くなる。声が震える。こんなことを聞かされて呉内さんはどう思うだろう。

「友達、だと……思ってたんです。入学したときから、仲良くて……でも、そうじゃなかった。相手はずっと俺のことが……嫌いだった。たくさん、嫌いなところ、言われて……」

 たぶん俺は襲われそうになったことや殴られたことより、友達だと思ってたやつに嫌われていたことのほうがショックだった。

 自分の中で大切していたものがへし折れて、粉々になった。きっともう元には戻らない。でもその大切なものはじめから俺の勘違いだった。俺が気づいていなかっただけで。ずっと何も知らなかっただけで。

 でも柴本の言うことは間違っていない。俺は十八年と言う人生の中で大した苦労もせず、挫折や劣等感を味わうことなく生きてきた。

 いじめや嫌がらせを受けたことは一度もないし、誰かにはっきりと敵意を向けられたこともない。小さいころから周りに人がいることが当たり前だった。そして好意を向けられることも当たり前だった。だから他人に対する警戒心が薄い。これまでずっと誰かを疑う必要なんてなかったから。

 何の疑いもせずに人と接するから、由莉奈さんの口車に乗せられたり、俺のことを嫌いな人間を友達と信じてしまうんだろう。

 そして、そのせいで呉内さんには何度も迷惑をかけた。俺に何かある度に呉内さんは必ず駆けつけてくれた。深月にもたくさん心配をかけて、世話になった。金澤さんの件だってそうだ。全部、俺の考えなしの行動が招いた結果だ。

「……俺がこんなんだから、呉内さんに迷惑かけてばっかで……」

 視界がぼやける。せっかく着替えた部屋着に涙がぽろぽろと落ちて、膝の上に小さな黒い丸をつくる。呉内さんは俺を優しく抱きしめ、子供をあやすように背中をさすり続けてくれた。

「俺は君に迷惑をかけられたと思ったことは一度もないよ。だから謝らないで」

 人に慰められて安心してしまう自分が情けなくなる。これじゃあ、本当に子供みたいだ。

「それに誰かが理人くんの嫌いなところをたくさん言ったら、それ以上に俺が君の好きなところを言ってあげる」
「え……」

 呉内さんは少しだけ体を離すと俺と向き合い、人差し指で丁寧に涙を拭った。

「理人くんの好きなところはね、人に優しいところ、結果を出すためにちゃんと努力するところ、他人を否定しないところ、笑顔が可愛いところ。あ、でも真剣な顔してるときはかっこいいよね」
「あ……え……」
「まだまだあるよ。真面目なところ、人と壁をつくらないところ、人が大切にしているものを大切にするところ。それから……」
「あ、あの……」
「ん?」
「もう、十分ですから……」

 さすがに恥ずかしくて、呉内さんの口を手で覆い視線を外す。

 こんなにちゃんと俺のことを見てくれた人は、深月以外にはじめてかもしれない。顔と能力だけを評価されることに対して不満を持ったことはない。それも俺自身だし、そういうものだと思っていた。

 でも本当ははじめから何でもできるわけじゃない。勉強も運動もそれなり努力しないとできない。逆に言えばある程度努力すれば大抵のことはできるので、周りからは「はじめから何でもできる人間」だと思われることが多い。

 努力してるかどうかなんて傍目に見てもわからないから、評価されなくても仕方ないと思っていた。

 性格だってそうだ。過去に告白してきた女の子たちの中で、俺の性格を好きになったという子はたぶんいない。顔も自分の一部だからそれでもよかった。

 でも呉内さんみたいに、俺の内面的な部分を見て好きになってくれた人がいるのは、想像以上に嬉しかったし恥ずかしかった。

 呉内さんの口から手を離すと、呉内さんは子供みたいに笑ってこちらに手を伸ばし、俺の髪の毛を耳にかけた。

「恥ずかしがらないで。俺は理人くんが大好きだから。こうやってちゃんと君に伝えられるのは嬉しいことなんだよ」
「ありがとう、ございます……」

 胸の奥がくすぐったい感じがする。こんなに嬉しいと思うのも、幸せだと思うのも全部相手が呉内さんだからだろう。

 恥ずかしさを紛らわすように、テーブルに置いたマグカップを手に取り、ココアを飲んだ。

「それとね、理人くん。一つ聞きたいことがあったんだけど」
「はい」
「前に会ったとき、バレンタインの飲み会のあと俺に会いたいって言ってくれたけど……」
「あ、それは……」
 
 バレンタインのチョコは家に置いてきてしまった。少なくとも今日は部屋に戻れない。でも今日伝えると決めたわけだし、呉内さんもさっき俺に対する好意を伝えてくれたんだ。ここで俺が何も言わずにあいまいな関係のままにはしたくない。

 俺は呉内さんが好きだ。男とか年上とか、そんなの関係なく、呉内朱鳥という人が好きだ。それはもう、とっくに自分の中で変えようのない事実になっている。

 これから先もずっとそばにいてほしい。好きだと言って、抱きしめてほしい。

 本当は恥ずかしいけど、俺は呉内さんの頬に手を伸ばした。逃げられないようにではなく、俺が逃げないようにその頬に両手を添えた。しっかり目を合わせる。鼓動が早い。

 言うんだ。今、ここで。自分の気持ちを。

「……好きです」

 呉内さんの目がわずかに大きくなる。

「あなたが好きです。言うのが遅くなって、ごめんなさい。呉内さんがたくさん好きって言ってくれたから、だから本当は今日、バレンタインにチョコを渡して俺も自分の気持ちを伝えるつもりでした」

 好きと伝える前に、キスをしてしまったことは反省している。順番が逆だ。でも、キスをする以上に自分の気持ちを言葉にするほうが照れくさかった。

「チョコは渡せないけど、せめて俺の気持ちだけでも受け取ってくれたら、嬉しいです」
「ありがとう。俺も理人くんが好きだよ」

 呉内さんはまっすぐにこちらを見てそう言うと、俺の左手に自分の手を重ねて、恥ずかしそうに笑った。

「好きな人に好きって言われるの、こんなに嬉しいんだね」
「俺も、呉内さんに好きって言われるの、嬉しいです」

 ようやく伝えられた。そしてその気持ちを呉内さんは受け入れてくれた。緊張から解放されたせいで体から力が抜ける。

「理人くん。俺は君とずっと一緒にいたいと思ってる。君は、どうかな?」
「……俺もです。呉内さんとずっと一緒がいいです」

 はっきりと自信を持って言える。俺はこれから先も呉内さんのそばにいたい。そしてこの気持ちが変わることはないだろう。

「よかった。これからもよろしくね」
「はい。こちらこそよろしくお願いします」

 呉内さんな優しく笑うと、俺の左手の薬指に、そっと触れるだけのキスをした。

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