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第六章

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 マンションに着きエレベーターに乗り込むと、呉内さんは迷うことなく七階のボタンを押した。自分で歩きたかったが、足の裏にガラスの破片が刺さっていたいることと、感覚が全くないことを思い出して言い出せなかった。

 呉内さんの部屋に入ると、すぐさまソファに座られされる。普段からは想像できないほど忙しなく動く呉内さんは、まずバスタオルで俺の頭を軽く拭いたのち、お風呂を沸かしてくると言って浴室に姿を消し、またすぐに戻ってきた。

「寒かったね。お風呂に入ってちゃんと体温めようね。でもその前に、服が濡れてるから着替えようか」

 コートとジャケットを脱いだ呉内さんが持ってきたのは、真っ白なバスローブだった。見るからにふわふわしていて暖かそうだ。

「脱がすよ」

 濡れたニットを脱がされる。その瞬間、呉内さんの顔が歪んだ。俺の下腹部をじっと見ている。そこは事故の傷があるのとは反対側だ。

「どう、したの、これ……」

 腹部に大きな青あざがあった。おそらく柴本に殴られたときのものだろう。こんなに強く殴られたのかと、他人事のように考えていた。

「ごめんね。言いたくなかったら大丈夫だから」

 苦しそうな声だった。俺は好きな人のこんな声を聞きたかったわけじゃない。ただ、自分も同じ気持ちだと伝えて、笑ってほしかっただけなのに。

 そのままズボンも脱がされ、下着の上からバスローブを羽織らされる。脱いだ服は洗濯機に入れられた。

「そろそろお風呂沸くけど、歩けそう?」

 その言葉に俺は小さく首を横に振った。歩きたい気持ちはあるが、それ以上に足が痛かった。暖かい部屋に入ったおかげで、感覚は戻りつつあったが、そのせいで消えかけていた痛みを感じるようになった。
 
 呉内さんに抱き上げられて浴室に入る。そのままバスローブを脱がされるのかと思いきや、浴槽のへりに座らされた。

「もしかして足、怪我してる?」

 俺が頷くと、呉内さんは何のためらいもなく床に跪き、靴下をそっと脱がせた。雨や泥で汚れた靴下をそのきれいな手で触ってほしくなかった。

「……痛いよね。消毒液とか包帯持ってくるから、ちょっとだけ待っててね」

 浴室を出てすぐに救急箱とタオルを戻って来ると、呉内さんはまず洗面器にお湯を溜めて、足にこびりついた血や汚れを丁寧に洗い落としてくれた。

「ちょっと痛いけど我慢してね」

 清潔なタオルで水を拭き取り、傷口の周りを消毒し、ピンセットでガラスの破片を抜き取られる。

「うっ、あぁっ……!」

 痛みが思わず足の指をぎゅっと曲げる。下唇を噛み締め、浴槽のへりを掴む手に力が入る。

「痛いね。ごめんね」

 そのあとは止血をし、ガーゼと包帯を巻いてもらった。俺の足に刺さっていたガラスの破片は、べつのガーゼの上に置かれ、白いそれを赤く染めていった。

「応急処置はこれで終わり。とにかく体を温めないといけないからお風呂に入ろうか。俺は外で待ってるからゆっくり浸かって」

 呉内さんが立ち上がった瞬間、俺はシャワーの蛇口を軽く捻った。外の雨とは違い、温かいお湯が頭上に降り注ぐ。

「シャワーだとまた体冷えちゃうから。ね?」

 呉内さんは宥めるような声色でシャワーの蛇口を閉め、俺と視線を合わせるようにしゃがみこむ。

「ごめん、なさい……」
「どうしたの?」
「今、一人になるのが……怖いんです……」

 今、一人になったら、自分でも何をするのかわからない。ずっと柴本の声が耳の奥にこびりついて離れないからだ。一人になるくらいなら、シャワーを浴びるだけでいい。それでも少しは体温が戻るはずだ。

「わかった。それじゃあ、一緒に入ろうか」

 その言葉に思わず顔を上げる。呉内さんは立ち上がると、その場でネクタイを外し、次に革のベルトを外し、靴下を脱いで、それらを一つ一つ床に落としていく。最後にシャツの第一ボタンを開けると、短く息を漏らした。

 シャツとスラックスのまま浴槽に入り、濡れた手で前髪をかきあげて、優しく俺に笑いかけた。

「恥ずかしかったら、下着はつけたままでいいよ」

 浴槽から降りて、お湯に浸かる呉内さんを見る。濡れているせいでシャツが肌に密着し、その下にある筋肉が透けて見えている。かきあげられた髪は湿っていて、ほんの少しだけ頬が赤い。

 俺はシャワーの水で重たくなったバスローブの紐を解き、その場にゆっくりと脱ぎ捨てた。下着を脱ぐのはやはり抵抗があり、そのまま風呂に入ることにした。

 視線を合わせるのが恥ずかしくて、できるだけ呉内さんを見ないようにし、怪我をしていない足をそっとお湯につける。入浴剤が入っているのか、お湯は白く濁っていた。

 慎重に足を浴槽の底につけると、呉内さんが俺の腰を抱きしめて、自分のもとにゆっくりと引き寄せた。後ろから抱きしめられる体勢で、お湯に浸かる。

「寒くない?」

 首を縦に振ると、俺を抱きしめる呉内さんの腕の力が少しだけ強くなった。

 静かだ。静かで温かい。内側から外側にかけて徐々に体温が戻っていくのがわかる。凍ったように冷たくなっていた指先が動かせるようになる。

 怪我をしている足はお湯につけないように、浴槽のへりにかけている。足の甲に巻きつけられた包帯の裏はきっと赤く染まっているだろう。

「大丈夫。ここには俺と君しかいないから」

 呉内さんは俺の肩に顎を乗せ、片手は腰に回したまま反対の手で俺の手を握った。恋人繋ぎをするように指を絡め、ぎゅっぎゅっと強弱をつけて握る。

 俺はしばらくの間されるがままその手を見ていたが、一生この時間が続けばいいのに、と少しだけ手に力を入れて握り返した。

 ふと、視線を横に向けると至近距離に呉内さんの顔があった。握り返されたことに驚いていたらしい。色素の薄い目と目が合う。ほんの一瞬、隙があった。俺はその隙を埋めるように、呉内さんの唇に自分のものを重ねた。

 触れ合ってからすぐに離す。再び呉内さんと目が合う。俺が何も言わずにいると、今度は呉内さんからキスをしてくれた。角度を変えて何度も唇に触れられ、そして吸われるうちに、わずかに開いた隙間から呉内さんの舌が口内に入り込んできた。

「あぁっ……んっ……!」

 自分の声が浴室に響く。舌が絡まり合う。キスをしているだけなのに信じられないほど気持ちよくて、その快感から逃げてしまいそうになるのを呉内さんは許してくれなかった。後頭部を掴まれ、腰を抱き寄せられる。

「はぁ、んっ……ぁっ!」

 男とキスをしているのに嫌悪感はまったくない。むしろつま先から頭のてっぺんまで、あますことなく幸福に満ちているような感覚だった。

「く……れ……っ、ない、さ……ん、ぁあっ……」

 息ができないと、軽く背中を叩くと、ようやく唇を離してくれた。

「ふっ、はあっ……ぁっ……はあ……っ!」

 脳が蕩けていくような感覚に襲われる。肩を使って必死に息を吸い、使い物にならなくなった頭に酸素を送る。

「理人くん、可愛い」

 喜びを隠し切れないという呉内さんの顔につられて俺も嬉しくなるが、同時に恥ずかしくて視線を合わせることができない。

「その可愛い顔、もっとよく見せて?」

 両手で頬を包まれ、少しだけ顔を上げる。顎からシャツの襟にかけてきれいに伸びた首筋、いつ見ても彫刻みたいに整った顔、こちらを射抜くような視線に目を逸らすことができない。

「もう一回、していい?」

 小さく頷くと、さきほどよりも激しく舌で口内を蹂躙された。唾液が混ざり合う音が壁に反響して、やけに大きく聞こえる。呉内さんの足が俺の足に絡んで動けない。でもそれが心地よくて、時間を忘れて互いを感じることに夢中になった。

 少しでもこの時間が現実のものであると感じていたくて、キスをしている間、俺はずっと呉内さんの大きな体を強く抱きしめ続けた。

「愛してるよ、理人くん」

 ようやく呉内さんの声が近くで聞こえた気がした。

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