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第六章
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しおりを挟む痛い、痛い。足が痛い。
靴下で外を走るのってこんなに痛いのか。無数の鋭い針を踏んづけているような感覚だ。痛くて、寒い。でも走るのをやめたらまたあのトイレに連れ戻されるような気がして、しばらくは走り続けた。
ただ柴本から逃げたくて居酒屋を飛び出した。おかげで靴は履いていないし、コートも羽織っていない。呉内さんからもらった大切なマフラーも店に置いてきてしまった。
せめてマフラーだけでも持っていたかった。呉内さんの匂いがあれば、こんな状況でも少しは安心できたかもしれないのに。
雨が降っていることに気づいたのは、黒い水溜まりを踏んだときだった。泥水が靴下に染みて気持ち悪い。指先が冷えきっていて、それでも走り続けていたら、急に足の裏に激痛が走った。
「いっ……!」
思わず足を止めて、一旦息を整える。恐る恐る足の裏を確認すると、グレーの靴下が黒と赤に染まっており、小さなガラスの破片が突き刺さっていた。
抜けば出血がひどくなるだろう。周囲を見回すともうとっくに居酒屋は見えなくなっていて、知らない建物に囲まれていた。
行き交う人々は傘を差し、下を向いて歩いている。ときどき傘もささずにずぶ濡れになっている俺を見て、怪訝そうな顔をする人もいるが、声をかけてくることはない。それでよかった。今、見ず知らずの人に声をかけられても、何も答えることはできないだろうから。
痛む足をなるべく地面につけないように、引きずって歩くことにした。
居酒屋にはバスで行ったので、帰り道がわからない。タクシーを停めようかと思ったが、こんなに濡れた状態で車に乗る気にはなれない。
それに財布と家の鍵はコートのポケットに入れっぱなしで、居酒屋に置いてきてしまった。タクシーに乗っても支払いができないし、歩いてマンションに着いたところで部屋に入ることはできない。
ダメ元で深月に連絡しようと思ったが、ズボンのポケットに入っていたスマホは充電が切れていた。
「クソ……」
今さら居酒屋に戻ることはできないので、とにかく歩くしかなかった。何となく見覚えがある建物を見つけて、過去の記憶を遡って、マンションまでの道のりを歩く。戻ったところで部屋には入れないが、だからといって立ち止まるわけにもいかない。
そのうち雨足が強くなり、体が冷えて歩くことすら辛くなってきた。柴本との会話がずっと耳の奥で繰り返されている。
ーー俺さ、お前みたいなやつが大嫌いなんだよ
雨が地面を打ちつける音は、あいつの声をかき消してはくれない。居酒屋のトイレで軽蔑するような目で俺を見る柴本と、くだらない話をしながら試験勉強をしたり、食堂で一緒にご飯を食べたりしているときの、友達だった柴本の顔が重なり合う。
「何で……」
口からこぼれ落ちた問いかけには誰も答えない。わけがわからないまま、俺は一人の友達を失った。この一年近くあいつと過ごした時間は一体なんだったんだろう。
どれだけ歩いたかわからない。気がつくと大通りから外れた路地を歩いており、少し先に小さな公園があるのが見えた。
とにかく歩くのに疲れていて、休みたかった。ぼうっとする頭を抱えて誰もいない公園に入り、滑り台の下で雨宿りをすることにした。
静かだ。誰もいない夜の公園は鋭い雨のせいで、全体的に灰色に見える。足を抱えて両手を組む。手は冷たくて組んでいる感触がない。足の感覚もなくなり、痛みもそのうちわからなくなった。
このまま休憩を挟みながら歩き続けて、マンションに辿り着くことができれば、呉内さんの部屋を訪ねることができる。そうすればきっと助けてもらえる。
でもこんな姿は絶対に見られたくないし、男友達に襲われそうになったなんて知られたくない。それにこれ以上俺と関われば、柴本が呉内さんに何かするかもしれない。それだけは絶対にダメだ。大切な人を巻き込みたくない。
髪から雨水がぽたぽたと地面に滴り落ちる。
……会いたかったな。
今日会って、トリュフとスコーンを渡して、自分の気持ちをはっきりと伝えたかった。トリュフの形はまだ深月みたいにきれいにはできないけど、美味しくできたんだ。スコーンだって一回目につくったものよりは確実にうまくできた。
これまで呉内さんは俺に何度も好きだと言ってくれた。俺が二人で過ごした時間を忘れて、離れてしまった十二年の間も、呉内さんはずっと俺のことを好きでいてくれた。
だから今日は俺が好きだと伝える番だった。俺が好きだと言ったら、どんな顔をするだろう。嬉しそうに笑ってくれたらいいなあ、なんて思いながらチョコをつくった。
チョコづくりをはじめてからは、呉内さんと付き合ってからのことを考るようになった。あの大きな手に頭を撫でられたり、抱きしめられたり、恋人同士にしか許されないことができたら、どんなに嬉しいだろう。二人だけの時間を過ごせたらどんなに楽しいだろう。
きっと、これまで付き合ったどんなに美人な彼女といるよりも幸せなんだと思う。
ようやく心から好きになった人と一緒にいられると思ったのに。思い描いていた未来は、音を立てて崩れてしまった。
今、何時だろう。飲み会は九時に終わるから、帰ったらすぐに呉内さんの部屋を訪ねると約束したのに。怒ってるかな。こんなことなら早く連絡先を交換しておくべきだった。どちらにしろ、充電が切れていたら意味はないが。
雨はどんどん強くなり、体はさらに冷えていく。頭がぼうっとして、考えることさえしんどくなってきた。雨の音すら聞こえなくなっていく。
……もう、いいか。
全部夢だったらいいのに。何もかも投げ出したい気持ちになって、滑り台の柱に頭を預けてゆっくりと目を閉じた。次に目を開けたら自分の部屋だったらいいのに、なんて頭の片隅で願った。
「……とくん! 理人くん! 理人くん!!」
聞こえるはずのない声がした。何度も名前を呼ばれて重たい瞼を持ち上げると、呉内さんの顔が視界いっぱいにあった。慌てた様子で精一杯俺の名前を呼んでいる。仕事終りなのか、スーツの上からコートを羽織っている。
何で、こんなところに。
……ああ、そうか。これは夢か。
だってこんなところに呉内さんがいるはずがない。呉内さんは俺が飲み会を抜け出したことは知らないのだから。
その証拠に、目の前にいる呉内さんの声がやけに遠くに聞こえる。窓ガラス越しに声をかけられているような、そんな感じだ。
「俺の声、聞こえる!? 寒かったよね。今から帰るからね!」
呉内さんは傘を閉じて、手に持っていた大きなブランケットを俺の背中にかけると、そのまま俺を横抱きにして雨の中を走った。黒い空から降りしきる雨が、呉内さんの顔や腕を濡らしていく様子をぼんやりと見ていた。
公園の脇に黒い車が停まっていた。ブランケットに包まれたまま助手席に乗せられ、シートベルトをつけられる。座り心地の良いシートが雨水や泥で汚れる気がして、すぐにでも降りたかった。
ドアが閉まると、すぐに呉内さんが運転席に乗り込み、車は静かに発進した。
「大丈夫。もうすぐ、マンションだから」
乗っている間、呉内さんは何度も俺に声をかけてくれた。さきほどまで俺がいた小さな公園が遠のいていく。その公園が灰色の世界に呑み込まれて見えなくなるまで、窓ガラスから外を眺めていた。
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