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第五章
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しおりを挟む深月が退勤する一時間前に帰ることになり、京斗さんに車でマンションまで送ってもらった。マンションの前に車を停めると、京斗さんは運転席を降りて助手席のドアを開けてくれた。
すっかり日は沈み、マンションのエントランスの明かりと車のヘッドライトだけが辺りを照らしている。
「理人くん?」
シートベルトを外し、助手席から降りた瞬間、少し離れた場所から名前を呼ばれた。そちらに顔を向けると、呉内さんとその隣にもう一人、見覚えのある顔があった。
「八月一日さん、こんばんは」
「井坂くん……」
私服姿の呉内さんの隣にいたのは井坂くんだった。二人はマンションから出てきたようで、見たくないものを見てしまった感じがして、思わず顔を下げた。
何で、二人でこんなところにいるんだ。
「京斗、理人くんと一緒だったの?」
「うん。俺からお誘いしたんだ」
京斗さんは呉内さんを一瞥すると、すぐにこちらに向き直りにっこりと笑って見せた。
「理人くん。今日は俺のわがままに付き合ってくれてありがとう」
「いえ。こちらこそ、色々とありがとうございました」
「楽しかったよ。今日はゆっくり休んでね。おやすみ」
「はい。おやすみなさい」
言葉がぎこちない俺を見て、京斗さんは誰にも聞こえないように耳元で囁いた。
「大丈夫。朱鳥は君のこと、大好きだから」
京斗さんはそれだけ言うと、またね、と言って運転席に乗り込んだ。白い車は静かに発進すると、あっという間に夜の闇に消えていく。テールランプが見えなくなるまで、俺はその様子をぼうっと見ていた。その間、京斗さんの言葉が耳の奥で何度も繰り返された。
「理人くん」
後ろから名前を呼ばれた瞬間、はっと我に返った。恐る恐る振り返ると、想像していた以上に呉内さんの顔が近くにあって、ほんの一瞬、息が止まった。
「く、呉内さん……?」
「理人くん、なんかいい匂いするね」
首筋に呉内さんの鼻先が当たる。一番無防備な部分を触れられた気がして全身に力が入る。後ろから両肩を掴まれているせいで動けない。
ち、近い、近い、近い……!
「あ、これは……香水です」
「香水?」
話すたびに呉内さんの息がかすかにかかり、そっちに意識が向いてしまう。うまく息が吸えない。浅い呼吸を繰り返しながら、何とか言葉をしぼり出す。
「試しにつけてもらったんで……その匂いです」
ざり、と呉内さんが俺の首にかかった髪をかけあげる。
京斗さんとカフェを出たあと、一緒に香水を選んでほしいとお願いした。以前、呉内さんの家に行ったときに香水のボトルがあり、俺もつけてみたいと思っていた。
由莉奈さんとお揃いの香水をつけるのは嫌だったので、べつのものを探そうと思ったのだが、香水に詳しくないのでどれを選んでいいのかさっぱりわからない。
そこで京斗さんに選ぶのを手伝ってもらうことにした。京斗さんがつけているのは高いので、学生でも買えそうなものの中から選んでもらった。
匂いを嗅ぎすきてわけがわからなくなったころに、京斗さんが手に取った香水の匂いを嗅いで、「この匂い、朱鳥好きそう」と言ったので即決した。念のため店員さんに頼んで香水をつけてもらい、自分でも気に入ったので購入した。
「京斗と香水買いに行ってたの?」
「え……あ、その、ホワイトデーに京斗さんが深月に渡すプレゼントを一緒に見に行ってたんです。そのついでに、俺も香水を選んでもらおうと思って……」
「そっか。びっくりした。理人くんと京斗がデートしてるのかと思っちゃった」
呉内さんの声が軽くなる。肩から手を離され、全身から力が抜ける。まだ首元が少し熱い。
「デート、じゃないです」
冗談でデートしようと言われたのは内緒だ。京斗さんにそんなつもりがないことは最初からわかっていたし。
「あ、そういえば井坂くんは……」
周囲を見回すが、さきほどまで呉内さんと一緒にいたはずの井坂くんの姿がどこにもない。暗いから見失ったのかと思ったが、どれだけ目を凝らして見てもどこにもいない。
「祐馬くんなら帰ったよ。近くでタクシー捕まえるからって」
「いつの間に……」
「それより寒いから中に入ろうか」
呉内さんに促されてエントランスに入る。マンションの前にいたときは暗くてよく見えなかったが、明るい場所に行くと呉内さんの耳にピアスがついているのが見えた。
由莉奈さんの部屋で見た写真を思い出す。あのときのものとは少しデザインが違う。シルバーの小さなフープピアスだ。
「どうしたの?」
ピアスをじっと見てると、呉内さんと目が合った。慌てて視線を逸らす。
「あ、その……ピアス、いいなあと思って」
「ああ、これ? 今日はね、祐馬くんがピアスを買いたいって言うからついて行ったんだ。そのときに俺も久しぶりにつけようと思って買ったんだよね」
「井坂くんがピアス、ですか?」
井坂くんがピアスをつけているイメージはないが、俺が知らないだけで、本当はアクセサリーを身につけることが好きなのかもしれない。カルラはアクセサリーを禁止しているわけではないが、飲食店なのでわざわざつけるスタッフはいない。
「うん。好きな人ができたからおしゃれしたいんだって。去年、俺の部屋でピアスの穴を開けてあげたんだ。それで今日は新しいピアスを探しに行ったってわけ」
「え、好きな人って……」
やっぱり井坂くんは呉内さんのことが好きだったのか。はじめて会ったとき、かっこいいって言ってたし、誰に対しても優しい人だから好きになる気持ちはわかる。
エレベーターのボタンを押し、降りてくるのを待つ。呉内さんと井坂くんがエレベーターに乗って七階に行き、二人だけの空間でピアスを開けるところを想像する。胸奥がキリキリするのを誤魔化すように、香水入りの紙袋の取手を強く握りしめる。
エレベーターのドアが開いたところで、呉内さんが俺の顔を覗き込むようにこちらを見た。
「祐馬くんが好きなのは京斗だよ」
「……へ?」
……京斗さん? え、井坂くんが好きなのって京斗さんなのか? 呉内さんじゃなくて?
「井坂くんの好きな人は京斗さんって……」
てっきり呉内さんだとばかり思っていたので、井坂くんの好きな人が京斗さんだとは想像もしなかった。それならさっき俺が京斗さんの車から降りてきたのはまずかったんじゃ……。
「一目惚れだったって。俺はときどき祐馬くんの相談に乗ったり、話を聞いたりしてるんだよ」
「そうだったんですか……ちょっと意外でびっくりしました」
エレベーターに乗り込み、三階まで上がる。呉内さんは当たり前みたいに俺の部屋の前までついてきてくれた。
「理人くんに勘違いされたくなくて、言っておこうと思っただけだから、本人には内緒にしててね」
「勘違い?」
「俺が好きなのは理人くんだから。祐馬くんとはお友達。妬いてくれたら、それはそれで嬉しいけど」
「あ……」
あ、俺は井坂くんに嫉妬してたのか……。
言葉にされると急に恥ずかしくなる。ただ一緒にいるところを見ただけで嫉妬なんて、さすがに子供っぽいと思われたかもしれない。
「ま、俺は理人くんが知らない匂いを纏ってたら、ちょっと妬いちゃうんだけどね」
「え……」
それはつまり、この匂いにいい印象はないということだろうか。気に入って買ったことはたしかだが、呉内さんが好きそうだと思ったのに、本人が嫌がるならつける意味はない。ボトルのデザインが特徴的なのでインテリアとして飾っておくのも悪くないか。
「あの、嫌なら、つけないです……ただ、京斗さんがこの匂いは呉内さんが好きそうだって言ってたから……それでどうかなって、気になって……」
気まずくて視線を合わせられず、ずっと自分の足元を見ていたが、呉内さんが何も言わないので気になって顔を上げてみて驚いた。
「呉内さん?」
「あんまりそういう可愛いこと言わないで……」
片手で顔を隠すようにしているが、耳が少しだけ赤くなっているのが見えた。
もしかして照れてるのか?
「ごめんね。そんなつもりだったとは思わなくて。すごく好きな匂いなのはたしかだよ」
「よかったです。自分ではもう匂いはあんまりわからないんですけど、呉内さんが気に入ってくれたなら、これからもつけようかな……」
いつも呉内さんにはドキドキさせられているんだ。たまには俺がドキドキさせてみたい。
「うん。でもそれをつけるのは、俺といるときだけにしてくれると嬉しいかな」
左手首を掴まれたかと思うと、呉内さんは香水の匂いをたしかめるように鼻を近づけ、こちらを一瞥する。有無を言わせないその視線に、俺は黙って首を縦に振ることしかできなかった。
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