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第五章
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しおりを挟む呉内さんのあとに俺も風呂に入り、シャワーを浴びながら鏡に映る傷跡を見た。痛みはない。この傷に関する記憶もない。前はそれでよかったのに、でも今は少しだけ寂しく感じる。
風呂を出て部屋着に着替え、ドライヤーで髪を乾かす。リビングに行くと呉内さんの姿はなかった。理香さんが紅茶を飲みながら、雪人さんと話をしている。リビングのテレビ台にはガラスで出来たうさぎのインテリアがある。
そういえば、理香さんは俺と呉内さんの今の関係を知らないと言っていたが、同じマンションに住んでいることも知らないのだろうか。
いや、待てよ。そういえばあのマンションって。
「あの、理香さん。一つ、聞きたいことがあるんですけど」
「何?」
理香さんはカップをテーブルに置いてこちらを見る。
「俺が今住んでるマンションって、理香さんが見つけた物件ですよね?」
「ああ、そのことね。私が見つけたわけじゃないわよ」
「じゃあ、雪人さんですか?」
「あそこはね、朱鳥くんのお爺様が所有してるマンションなのよ」
「……え」
「理人が大学から一人暮らしする予定だって話したら、ちょうど大学近くのマンションに空き部屋があるって、紹介してくださったのよ」
「そうだったんですか」
俺が大学に入学したころ呉内さんは海外にいたから、理香さんもまさか同じマンションに住むことになるとは思っていなかったのだろう。
「朱鳥くんも今、同じマンションに住んでいるんでしょう?」
「はい。俺は三階で、呉内さんは七階です」
「理人は、何かと朱鳥くんと縁があるね」
雪人さんがこちらを見てにっこりと笑う。同じマンションで、同じ大学出身で、同じ喫茶店でバイトをしている。それも小さいころからの知り合いで、親同士仲がいい。どこにいても呉内さんの存在がある。事故の前の俺が知ったら喜びそうだ。
ハウスキーパーさんが二階の和室に来客用の寝具を用意したと言うので、呉内さんはその部屋で寝るのだろう。昔の俺はそれを片付けに行って、呉内さんが自分の部屋で寝るように仕向けていたってことか。一緒に寝たくて仕方なかったんだろうな。
寝る前にボールペンのことを謝りに行こうと、リビングを出て二階に上がり、自室を通り過ぎて来客用の和室に向かう。階段を上がっているとき、廊下を歩いているとき、小さい俺が走る姿が思い浮かんだ。
和室の前にたどり着いたとき、ふと、脱衣所で見た呉内さんを思い出した。できれば髪型は戻しておいてほしい。さっきは何とか逃げられたが、あんなかっこいい呉内さんと長時間同じ空間にいたら、確実に心臓が保たない。
緊張しつつもドアをノックすると、中から呉内さんの声がした。
恐る恐るドア開けると、本を読んでいた呉内さんが顔を上げ、にっこりと笑った。そういえば、雪人さんもよく本を読んでいたから、きっとそれを借りたのだろう。
出入り口から見て正面にローテーブルと座椅子があり、その右側に来客用の布団が敷いてある。呉内さんは髪は下ろしていたが、普段のように整えられていない分、それはそれで新鮮だった。
「隣、おいで」
呉内さんは本を閉じてテーブルに置くと、部屋の隅にあった座布団を座椅子の横に置いた。俺はその座布団の上に座り、すぐに頭を下げた。
「あの……ボールペンのこと、本当にすみませんでした」
覚えてないとはいえ、俺がとったことには変わりない。それもずいぶん長い間、返すことができなかった。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「顔、上げて。たしかに理人くんが持ってたのは驚いたけど、それだけ俺と一緒にいたいって思ってくれたことが、本当に嬉しかったから。だからもう気にしないで」
「でも、お婆さんからもらった大切なものだって……」
「そうだね。うちの親は仕事が忙しくて、小さいころは祖父母によく面倒を見てもらってたんだ。でも俺が十一歳のころに病気になってね。あのボールペンは、祖母が亡くなる前に中学の入学祝いに買ってくれたものなんだ。でも、実は理人くんもあのボールペン、気に入ってたんだよ」
「俺が、ですか?」
「うん。俺が使ってるのを見てかっこいいって。だから、本当は離れる前にあげようと思ってたんだ」
「そんな大切なものを……」
「でも、やっぱり今度はちゃんと自分で買って君にプレゼントするよ」
「俺に?」
「そう。人にボールペンを贈るのって、ちゃんと意味があるんだよ」
「え……」
プレゼントするものによって意味なんかあるのか? 時計とか指輪ならわからなくもないが、ボールペンを贈る意味って……
「一つは『勉強や仕事を頑張ってください』って意味。もう一つは『あなたは特別な存在です』って意味」
気がつけば呉内さんの顔が至近距離にあり、驚きのあまり体勢を崩してしまった。そのまま呉内さんは俺に覆い被さるようにして畳に手をついた。
「ねえ、理人くん」
「は、はい……」
前に垂れ下がった髪をかき上げる仕草に、思わず息を呑む。
「俺がいる場所に一人で来ちゃダメだよ」
「へ……」
「それとも、あの布団を片付けるために来たの?」
「あ、それは……」
俺も呉内さんも、もう子供じゃない。この部屋の布団を片付けるということは、それはつまり……
考えただけでも全身が熱い。心臓がうるさい。触れられてすらいないのに、視線だけで脳がとろけそうで、指一本動かすことができない。つま先から頭のてっぺんまで、余すことなく呉内さんに支配されてるみたいだ。でも嫌な気はしない。
「……なんてね。もう遅いから、そろそろ寝ないと」
呉内さんが畳から手を離し、姿勢を戻そうとしたので、反射的にその腕を掴んだ。
「理人くん?」
「そうだって言ったら……どう、しますか」
呉内さんの目がわずかに大きくなる。そんなつもりはなかった。でも俺がこう言ったら、呉内さんがどんな顔をするのか、どんな返事をするのか知りたかった。
自分から言っておいて、呉内さんの目を見るのが恥ずかしくて視線を逸らす。手のひらが汗ばみ、うまく息を吸えない。
「それはとても魅力的なお誘いだけど……今の君と一緒に寝たら、俺が耐えられないと思うから……」
「た、え……?」
呉内さんはすっと目を細めると、ゆっくりと視線を下げ、まるで壊れものにでも触れるかのような手つきで、俺の下腹部を優しく撫でた。
「理人くんのここ、ぐちゃぐちゃにしたくなるって意味」
普段よりもワントーン低く、ぞっとするほど艶っぽい声だった。一瞬、呼吸が止まる。頭が沸騰したみたいに熱くなって、たぶんパンクした。
「だから、いい子はちゃんと自分の部屋で寝なきゃね」
呉内さんはいつもの笑顔に戻ると、俺の手を引いて上体を起こしてくれた。
そのあとのことは記憶が曖昧だ。たしか全身が熱くて、水を飲もうとリビングに向かった。自分の部屋のベッドに戻ると、呉内さんと寝ているところを想像してしまいそうで、ブラウンケットにくるまって、ソファで寝たはずだったのだが。
「おはよう」
朝目が覚めると、なぜか隣に呉内さんがいた。どうやら俺の部屋のベッドで一緒に寝ていたらしい。服はちゃんと着ていた。
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