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第五章
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しおりを挟む子供が二人で行ける場所なんて限られている。それにこれまでずっと親と一緒だったというなら、その日は勝手に二人だけで外に出たことになる。
そこまでして行きたい場所があったのだろうか。
「いつもどこかに出かけるときは、必ずどちらかの親が一緒だったからね、最後に、離れる前に二人だけでデートしようって話になったんだ。行き先は子供の俺たちでも行けて、大好きなロールケーキがあるお店。あの日、二人で行こうとしたのはカルラだよ」
中学生の呉内さんと小学生の俺が手を繋いでカルラに行く様子を想像してみる。お嫁さんにしたいと思えるほど大好きな人と、大好きなロールケーキを食べに行こうとしたのだから、すごく楽しくて幸せだったと思う。
「そうだったんですね。小学生の俺は、最後に呉内さんとデートできて幸せだったと思います。だって呉内さんといるときの俺、どの写真も楽しそうでちょっと羨ましいくらいですから」
今では出勤のために週に三、四回はカルラに行くが、当時の俺にとっては、好きな人と一緒に行く特別で大切な場所だったのだろう。だからこそすごく楽しくて、浮かれていたんだと思う。浮かれていて、もうすぐ着くってときに呉内さんの手を離してしまったんだろう。
「そう言ってくれて嬉しいよ」
「……だからもう、自分のことは責めないでください」
「え?」
「俺は今、こうやって呉内さんと一緒にいられて嬉しいんです。だから、これからは……その、今の俺を見てくれたら、嬉しい……です」
俺と違って、呉内さんは一緒に過ごした日々や事故のことを忘れることはできないだろう。風邪を引いた俺を着替えさせてくれたとき、腹部の傷を見て辛い思いをさせたかもしれない。これから先もどんな関係であれ、俺と一緒にいたら、ふとしたときに思い出してしまうかもしれない。夢に見る日が来るかもしれない。
でも、たとえ忘れられなくても、過去に囚われずに今隣にいる俺を見て欲しい。
「……ありがとう。君が隣にいてくれたら、それだけで十分だよ」
呉内さんがあんまり幸せそうに笑うから、思わずその頬に手を伸ばして触れそうになった。
コンコンコン、とドアをノックする音が響き、慌てて手を引っ込める。
「はい」
「理人さん、理香さんがお呼びです」
ドアの向こうからハウスキーパーさんの声がした。すぐに立ち上がり、二人で俺の部屋を出る。リビングに行くと、デートから帰ってきたらしい理香さんがソファに座っていた。
「こんにちは、理香さん。お邪魔してます」
「いらっしゃい、朱鳥くん。おかえり、理人」
「何かご用ですか? 理香さん」
「実は朱鳥くんに返したいものがあるの」
理香さんはゆっくりと立ち上がって、リビングにあるショーケースを開けると、あまりきれいとは言い難い箱を取り出した。
「え、何ですか、それ」
緑や青や赤など、色とりどりの折り紙が貼ってあるその箱には、『りひとのたからもの』と書かれている。理香さんは俺たちにソファに座るように促し、その箱をテーブルに置いた。
「これはね、理人が小学生のころ、大切にしたいと思ったものを入れていた箱なの」
「よくそんなの、残ってましたね……」
「あの事故のあと、あなたの目に触れないように、グルニエに片づけていたのよ」
理香さんは箱の中から一本のボールペンを取り出した。
「え、それ……」
そのボールペンは、俺が去年のクリスマスに呉内さんにプレゼントしたものと、まったく同じデザインだった。
「これ、朱鳥くんのよね。返すのが遅くなってごめんなさい」
「は、いや、ちょっと待ってください。そのボールペンって、俺が呉内さんにプレゼントしたものじゃ……」
思わず呉内さんと理香さんの顔を交互に見る。
「いいえ。これは中学生の朱鳥くんがお婆さんからもらった大切なボールペンよ」
理香さんは音を立てないように、そっとボールペンをテーブルの上に置いた。
「理人くんが持ってたんだね……」
「いや、その……俺、もしかして呉内さんの大事なものを……」
まさか人の大切なものをとったのか?
「事故に遭う二週間前に、一緒にこの家で食事したのを覚えてる?」
「はい、覚えてます」
「そのときにね、理人があなたのボールペンをこっそりこの箱の中に入れたのよ」
いくら覚えていないとはいえ、さすがにそれはダメだろう。あんなに呉内さんのことが大好きだったのに、どうしてそんなことをしたんだ。
「あなたが大切にしているものがなくなったら、海外に行けなくなると思ったみたいなの」
「え……」
「大切なものを置いて遠くに行けるはずはないから、このボールペンが自分の手元にあれば、朱鳥くんはずっと一緒にいてくれるって、そう考えたみたいなの」
小学生が考えそうなことではあるが、だからといって人のものをとっていいことにはならない。それも呉内さんは、そのボールペンをとても大切にしていたみたいだし。
「でもね、それは違うでしょって。理人だって、自分が大切にしているものを誰かにとられたら悲しいでしょう。それと同じで、朱鳥くんは今とても悲しい思いをしているのよ。だからちゃんと返さないといけない。あなたは、人が大切にしているものを、大切にできる人間になりなさい。そう言ったの」
理香さんに叱られて、俺は最終日にボールペンを返すつもりだったらしい。でも結局、俺から返すことはできなかった。理香さんも事故のことでボールペンのことをすっかり忘れていたらしく、返すのが遅くなったことを何度も謝っていた。
それから雪人さんと理香さんと呉内さんと四人で一緒に食事をし、その日は雪人さんの一言で、俺はたちはこの家に泊まることになった。
「理人、これを脱衣所に置いてきてちょうだい」
呉内さんが風呂に入っている間に、ハウスキーパーさんが調達してきた新品のスウェットと下着を理香さんから受け取る。
袋からスウェットを出し、ハウスキーパーさんからハサミを借りてタグを切り落とす。リビングを出て風呂場に行くと、シャワーの音が聞こえてきた。今がチャンスだ。早く着替えを置いて脱衣所から出なければ、呉内さんが浴室から出てくる可能性がある。
すばやくスウェットと下着を棚の上に置き、音を立てないようにして脱衣所のドアを開けようとした瞬間だった。背後にある浴室のドアが開く音がした。
「理人くん?」
「はいっ!」
驚きのあまり、その場で小さく跳ねた。
「あ、もしかして着替え持って来てくれたの?」
タイミングが悪かった。いや、でも着替えがないと浴室から出られないので、ここはギリギリセーフと考えて、俺が素早くここから出れば問題はない。
「理人くん……?」
浴室のドアが開いているせいで、脱衣所の湿度が高くなる。後ろに風呂上がりの呉内さんがいると思うと、鼓動が早くなる。振り返りたい気持ちを抑えて、脱衣所のドアノブに手をかける。
「そ、そうです……あの、ちゃんと呉内さんが着用できるサイズ、ですから……」
「ありがとう。あ、本当にピッタリだ」
よし、今のうちだ。
「ねえ、理人くん」
「は、はい……何ですか?」
「ハサミってある?」
「ハサミ、ですか?」
タグはすべて切ったはずなのに、どうしてそんなことを聞くのだろう、と反射的に振り返ってしまった。
「あ……」
後ろに立っていた呉内さんは、下着とスウェットパンツを履いていたものの、上半身は裸だった。
幼いころから空手と柔道を習い、今もジムに通っているというだけのことある。呉内さんの上半身は完璧に鍛え上げられていて、それでいてウエストラインはとてもしなやかなで、腹筋はきれいに割れている。
おまけに濡れた髪をオールバックのように後ろにあげており、風呂あがりのその姿からは、爽やかな石鹸の匂いがする。さすがに男の俺にも刺激が強かった。
な、何で、半裸なんだよ……!
「ここにタグがついてるから切ろうと思ったんだけど……」
呉内さんの言う通り、スウェットのトップスの襟元にはタグがついている。何でこんなにときに限って切り忘れるんだよ。
「……ちょっとは意識してくれた?」
耳元で囁かれて、一気に全身が熱くなる。
……これはさすがにやばい!
「す、すみません……! すぐにハサミを持って来ますから!」
慌てて脱衣所を出て、ハウスキーパーさんにもう一度ハサミを貸してくれと頼んだ。
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