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第四章
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しおりを挟む俺の手を握る呉内さんの手が震えていた。話を聞くのかは怖かったが、たとえどんなことを言われても受け入れようと思った。
「俺は高校に入学するまで、理人くんの実家の近くに住んでたんだ。って言っても車で五分くらいの距離だから、小さい頃からの知り合いってわけじゃない。君に出会ったのは俺が中学二年生のとき。たまたま祖父の大学の学祭に親と一緒に遊びに行って、そこで知り合った」
「あの、呉内さんのお爺さんって……」
「青蓮大学の理事長だよ。そのとき君もご両親に連れられて学祭に来ていた。俺の母親も当時は青蓮大学の教授だったから、家族ぐるみで仲良くなった。家もそんなに離れてるわけじゃなかったから、一緒に地元のお祭りに行ったり、花火大会に行ったりしてたんだよ」
地元の祭り、花火大会。それは俺が中学に上がるまで、ほぼ毎年家族で行っていた。でも家族以外の誰かと行った記憶はない。
「一人っ子の俺にとって君は弟みたいな存在だったし、君も俺のことを兄みたいに慕ってくれてた。でも俺は高校入学と同時に、父親の仕事の関係で海外に引っ越すことが決まっていた。君と最後に会ったのは中学三年の春休み。卒業式の次の日だった」
呉内さんは一旦そこで話を区切ると、話すの躊躇っているのか、少しの間沈黙が続いた。俺は呉内さんが話してくれるまで待つことにした。
「……俺と君は、いつも二人だけで会うんじゃなくて、必ずどちらかの親と一緒だった。二人とも子供だったから当然だよね。みんなでデパートに行くこともあれば、公園で遊ぶこともあった。お互いの家にもよく行ってたよ。でも理人くんに会える最後の日、俺たちは二人だけで外に出た。どうしても行きたい場所があったから。たった二人で冒険してるみたいな気分になって、すごく楽しかった。でもそれがいけなかった」
今よりも幼い呉内さんと幼少期の自分が、外を歩く姿を想像してみたが、どうしてもうまくいかない。
「…………二人で車通りの少ない路地を歩いていたとき、君はトラックに跳ねられて病院に運ばれた」
「え……」
あのとき……俺が交通事故に遭ったとき、隣に呉内さんがいたのか……?
「二人で手を繋いで歩いてたんだけどね、途中で俺のスニーカーの靴紐がほどけて、その場で足を止めたんだ。そのとき、俺は手を離して先を行く君を呼び止めなかった。行き先はもうすぐ目の前にあったから、大丈夫だろうって思ってた。靴紐を結んで、前を走ってる君の背中を追いかけようとした瞬間、横からトラックが突っ込んだ」
俺の手を握る呉内さんの力が強くなる。下を向いたまま辛い記憶を吐き出すように話し続けた。
「君は意識不明の重体で病院に運ばれた。前に事故に遭ったときの記憶がないって言ってたよね。でも君が失った記憶は事故当時だけじゃない。俺と出会ったときから事故に遭うまでのすべての記憶を失った」
呉内さんの話に、俺は相槌を打つことさえできなかった。
「それでも必死のリハビリのおかけで、君の体は事故に遭う前の健康な状態に戻ったし、記憶も断片的であるけれど思い出すことができた。ただ俺と事故当時のことは思い出せないままだった。それから俺は海外での高校生活を終えて、日本に帰国して光条大学に入学した。どうしても君に会いたくて、帰国してすぐに君の実家の近くに行ったよ。そしたらたまたま理香さんに会ったんだけどね。三年経っても俺のことは思い出せなかったって言われたよ」
強く俺の手を握りしめたまま、呉内さんはようやく顔を上げた。目に涙が浮かんでいて、今にも溢れ落ちそうだった。
「……だからさ、もう君のことは忘れようと思ったんだ。無理にでも会いに行こうとしたこともあったんだけどね。君に『知らない』って言われるのが怖くて行けなかった。大学を卒業して就職したら、海外に住んでいた経験からアメリカの支社に配属されて、そこで京斗に会った。このままアメリカで暮らしてもいいかな、なんて思っていたときに、日本の支社に異動することになった。だから俺は君と京斗と知り合いだってことも、光条大学に入学したことも、もちろんカルラで働いていることも、何も知らなかったんだ。もちろん同じマンションに住んでることもね。でも、あの日、京斗に『弟に会わせたいからカルラに来てくれ』って言われて、行ってみたら君が働いていたから本当に驚いたよ。また会うことができて、とても嬉しかった」
呉内さんの目からひらりと涙がこぼれ落ちる。俺もつられて涙が出そうになった。だって俺はこの話を聞いてもやっぱり何も思い出せなかったからだ。
親に連れられて学祭に行ったことも、地元の祭りや花火大会に行ったことも、はっきりとではないが思い出せるのに、そのとき一緒にいたはずの呉内さんのことだけはどうしても思い出せない。
どれだけ必死に記憶の糸を手繰り寄せても、呉内さんにたどり着く前に切れてしまう。
「隠していて本当にごめん。ただ再会して一緒にいるうちに、もしかしたら君が思い出してくれるんじゃないかって思ってた。でも車の中で事故のことを覚えてないって言われたとき、もう昔のことは諦めて今の君が俺を見てくれたらいいと思った」
今日、ここでこの話をするまで、呉内さんはどれだけ苦しい思いをしてきたのだろう。大切だと思っていた人間が自分のことを何一つ覚えていないなんて、そんなの、きっとどんなことよりも苦しいはずだ。
「すいません……俺、何も知らなくて……」
「謝らないで。あのとき、君から目を離した俺に責任がある。だから君は何も悪くない。本当はね、関わらないほうがいいこともわかってた。もし、いつか思い出したとしても、君にとっては辛い記憶でしかないから」
事故当初のことはほとんど覚えていない。だからこそ、辛い過去と向き合わずに済んでいることはたしかだ。でも、呉内さんは俺が何も知らない間もずっと事故のことを覚えていた。それがどれだけ辛いことなのか、今の俺には想像もできない。
「それでも君に関わったのは……どうしても離れたくなかったから」
呉内さんは俺の頭を優しく撫でた。きっと昔もこうやって頭を撫でられていたんだだろう。何も覚えていないのに、懐かしいような気持ちになるのは、それだけ当時の俺にとって呉内さんの存在が大きかったからだと思う。
「ただ理人くんのことが好きで、一緒にいたいっていう俺のわがまま」
呉内さんの大きな手がゆっくりと離れていく。その手を追うように視線を上げた。呉内さんは一度だけ笑うとベッドから立ち上がり、こちらに背を向けてカーテンに手をかけた。
「……理人くんといる時間は本当に幸せだった。今まで一緒にいてくれてありがとう」
カーテンが静かに開く。足を怪我している今、追いかけることはできない。だからせめてまっすぐにその背中を見て、できる限り声を張り上げた。ここで呼び止めなかったら、二度と会えなくなる気がしたからだ。
「……勝手なこと言わないでください」
いつもは大きくて頼りになる背中は、今は少しだけ小さく感じる。
「今まで、なんて言わないでください。俺は今、ようやく呉内さんのことを知ったんです。でもまだ知らないことがたくさんあって……これからなんです。あなたのことを知るのは」
「そう言ってくれて嬉しいよ。でも俺は君に怖い思いをさせた。今回の件だって、元はと言えば俺のせいだ。もうこれ以上、君に嫌な思いはさせたくない」
こちらを見ない呉内さんがどんな顔をしているのかはわからない。でも、どんなに情けない顔をしていてもいいから、顔がぐちゃぐちゃになるくらい泣いていてもいいから、こっちを見て欲しかった。
もうすぐ一歩踏み出せそうなのに、ここで別れたりしたら、一生後悔する。
「俺が一緒にいたい、じゃダメですか?」
「何、言って……」
「俺が呉内さんと一緒にいたいんです。それにまだ……あのときの返事をしてません……俺が答えを出す日まで、待っててくれるんですよね」
クリスマスのときだってそう言ってくれた。だから俺なりにちゃんと考えてる。呉内さんと会ってからはじめてのことばかりで、たくさん悩んで、たくさん戸惑って、すぐに答えを出すことはできないでいるけど、でも俺だってちゃんと考えてるから。
「だから、どこにも行かないで待っててください」
俺が呉内さんのもとに行く日を。
「……ありがとう、理人くん。やっぱり君は、今も昔も俺にとって世界で一番大切な人だ」
一度だけこちらに振り返ると、呉内さんは病室を出て行った。
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