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第四章
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しおりを挟む目を覚ますと視界がひどくぼんやりとしていた。全身がだるく、頭がやけに重い。何度か瞬きしているうちに視界がクリアになり周囲を見回すと、自分の部屋ではないことがわかった。柴本の家でも近野の家でも、ましてや呉内さんの家でもない。
……どこだ、ここ。
知らない部屋だ。それも室内は花で埋め尽くされている。畳の上には名前もわからないいくつもの花が落ちていて、それは花びらだったり、花の形を保っていたり、茎がついていたりする。ピンクや赤、白、オレンジ、黄色、紫、黒……色とりどりの花が落ちている。
天井には網のようなものが張り巡らされており、そこからドライフラワーが吊るされている。よく見ると、俺の膝の上や上半身にも花びらがついている。これだけ花が落ちているのに、花の匂いがひとつもしない。体が動かない理由と何か関係があるのだろうか。
ここで起きる前の記憶を辿ろうとするが、眠気がひどくてなかなかうまくいかない。
何なんだ、ここは。
ぼうっとする頭で自分のいる場所を確認していると、どうやら室内の隅に座っているらしかった。右側の壁に窓があり、薄いピンク色のカーテンが取り付けられている。立ち上がって外の景色を見ようとして、手が動かないことに気がついた。
「……は?」
コートを羽織ったまま両手が背中で拘束されている。何とか手のひらを折り曲げて手首に触れてみると、どうやら手錠をはめられているらしい。おそらくハロウィンなどで使われるおもちゃの類だろう。
なぜこんなものをはめられているのかさっぱりわからないが、よくない状況であることだけはたしかだ。
誘拐? いや、誘拐なら口に粘着テープを貼ったり、足も拘束したりするだろう。となるとこの状況はなんだ。うまく回らない頭で必死に考えるが、答えが出てこない。
集中しようと目を閉じると、強い眠気に襲われる。気を抜くと意識を失いそうになる。襖が開く音がして目を開けると、ノースリーブの白いワンピースを着たきれいな女性が立っていた。
「ゆ、りなさん……」
「おはよう、理人くん」
由莉奈さんは俺の前に来てしゃがむと、にっこりと笑顔を浮かべ、俺が動けないことをたしかめるように丁寧に頭を撫でた。
「眠そうね」
「……はい、なんか、すごく眠く、て……」
「寝ててもいいのよ」
ここは由莉奈さんの部屋なのか。カルラからの帰り道に由莉奈さんの車に乗ったことをぼんやりと思い出した。たしか呉内さんと北川さんと年越しをするって……。
しかしこの部屋に呉内さんも北川さんもいない。あるのは花だけだ。由莉奈さんは立ち上がると、背の低い茶色のタンスの上に置いてある数本の花とハサミを持った。花にはそれぞれ茎や葉がついており、色や形もすべて違う。
どこかで聞いたことのある鼻歌を歌いながら、花の茎の部分を切っていく。切るたびに花がぼとりとたたみの上に落ち、由莉奈さんの手には茎だけが残る。鼻歌の合間にハサミの鋭く尖った音がやけに大きく聞こえる。
「あの……これ、外してくれませんか」
ここが由莉奈さんの家であるなら、俺に手錠をかけたのも由莉奈さんということになる。理由はわからないが、一刻も早く外してほしかった。
「……ねえ、見て。とてもきれいでしょ?」
由莉奈さんが畳に落ちているピンク色の花を拾い上げ、口付けでもするみたいにそっと自分の元に寄せる。
「これはね、芍薬《しゃくやく》っていう花なの。こんなにきれいなのに、花言葉は『怒り』」
次に拾い上げたのはさきほど切り落とした黄色い花だった。特徴的なデザインで、花びらから細い糸のようなものが数本飛び出ている。
「こっちはオドキリソウ。花言葉は『敵意』」
由莉奈さんは愛おしそうに拾い上げた花を見つめる。
「……何が、言いたいんですか」
「そしてこれは、マリーゴールド」
由莉奈さんはゆっくりと立ち上がると、俺の前に座り込んでオレンジ色の花を見せ、そしてぐしゃりと潰した。
「マリー、ゴールド」
白い封筒から出てきたオレンジ色の花びらを思い出すと同時に、由莉奈さんの左手の薬指の先に包帯が巻かれていることに気がついた。
「花言葉は、『変わらぬ愛』、『嫉妬』」
足元に落ちた花びらはどれ見覚えのある形で、ぼうっとする頭でも自分が置かれている状況が最悪であることだけはわかった。
「ねえ、理人くん、あなたはどうして私の邪魔をするの?」
「……は?」
まっすぐでそれでいで一切光の宿さない目で、由莉奈さんは俺の顔を覗き込む。
「あなたのせいよ。私と朱鳥は結ばれる運命なのに、あなたが邪魔をするから」
頭がぐらぐらする。瞼が重く、体がだるい。でも今、ここで眠りに落ちると、より事態が悪化することだけはたしかなので、爪が食い込みそうなほど両手を力強く握りしめた。
「大学時代からね、ずーっと朱鳥のことが好きだったの。朱鳥は私の運命の相手だから。私と一緒になってはじめて幸せになれるのよ。これは決まってることなの。朱鳥だって十分理解しているわ。だから、私はそのときが来るまで待ってたの。それなのに、朱鳥ってば大学を卒業したらアメリカにいっちゃったのよ。でもね、それもこれも一流企業に就職して私と幸せになるためだと思ったら我慢できたわ。だからずっと、ずっと、ずっと、ずっと、ずうっと我慢してた。待った甲斐があったわ。今年、ようやく戻って来た。涙が出るほど嬉しかった。それなのに、それなのに……」
ーーあなたが邪魔をしたのよ。
由莉奈さんの顔があまりにも苦しそうで、それでいてすべての恨みをぶつけようとしているみたいで、背筋がぞっとした。せっかくきれいな顔が歪んで見える。
俺の足元に落ちていた白い花を拾う。スノードロップ。深月が調べてくれた花の名前を思い出す。
「俺と……呉内、さんは……ただ同じマンションの、知り合いって……だけです……あんたの邪魔をした、ことはありません……」
何でこんなに眠いんだよ。あきらかに身の危険を感じているのに、なかなか体に力が入らない。足を上げるのすら億劫だ。
「そう。じゃあ、これからも大人しくしていてもらわないとね」
由莉奈さんはスッと目を細めて笑うと、床に落ちいてハサミを拾い上げる。それがあの日の金澤さんの姿と重なって見えた。
「ちょ、何やって……!」
しかし由莉奈さんはその刃物を俺には向けなかった。代わりに鋭い音をたてながら、きれいな白いワンピースが胸元から切られていく。慌てて辞めさせようとするが、手錠がガチャガチャと音を立てるだけで、何もすることができない。
「私と、気持ちいいことしましょ」
胸元が大きく破れ下着が露わになった状態で、由莉奈さんは俺の足の上に乗り、両手で頬を掴んだ。抵抗しようと足を動かした瞬間、太もものすぐ横にハサミを突き立てられた。畳が裂ける音がする。
「大人しくしてたら、すぐに終わるから」
「嫌だ……頼むからやめ……っ」
頭を横に振ってみるが、無理やり首を正面に向けられる。由莉奈さんは恍惚とした表情でこちらを見下ろしている。その目を見るのが怖くて、唇と唇が触れそうになった瞬間、強く目を閉じた。同時に部屋のインターフォンが鳴った。
由莉奈さんの動きが止まる。助かったと思ったのも束の間、外からは今一番聞きたくない声がした。
「由莉奈ー? 俺だけど」
呉内さんだ。何でこのタイミングでここに来たんだ。
「いないのか?」
何度もドアをノックする音が聞こえる。由莉奈さんはすぐに俺の手錠を外すと、その格好のまま部屋を出て静かに襖を閉めた。
今のうちに何とかして逃げないと、もし由莉奈さんが俺に襲われそうになっていたなんて言ったら、確実にこちらが悪いことになる。手錠を外したのもそのせいだろう。
呉内さんにだけは、勘違いされたくない。
スマホで深月に連絡しようと思い、体に力が入らない状態で何とかコートのポケットを探ってみると、以前近野に渡されたコンドームが入っていた。これではより状況を悪くするだけだ。コートなんて着てくるんじゃなかった、なんて後悔しても意味はない。おまけにポケットに入れたはずのスマホはなかった。
由莉奈さんが被害者として呉内さんに泣きつけば、何を言っても言い訳にしかならない。
一か八か。逃げるしかない。
無理矢理体に力を入れて、四つん這いになりながら窓に向い、ベランダに出た。
「くそっ……立つんだよ……!」
両手で柵を掴みながら下唇を噛み締め、何とか足に力を入れて立ち上がる。
アパートの二階。高さはどれくらいかわからないが、下にクッションになりそうなものは何もない。飛び降りれば、無傷では済まないだろう。だがここで性犯罪者になるくらいなら、いや、呉内さんに俺と由莉奈さんの関係を誤解されるくらいなら、飛び降りて逃げたほうがいい。
時間帯が遅いせいか近くに人はいない。遠くで二人の話し声が聞こえる。きっと、由莉奈さんが呉内さんに嘘の事情を説明しているのだろう。
ほとんど回らない頭で、ただこの場から逃げることだけを考え、後ろから聞こえる声にも耳を貸さず、俺は塀を乗り越えてそのまま飛び降りた。
「理人くん!!!!」
遠くで呉内さんの声が聞こえたような気がした。
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