イージーモードな俺の人生を狂わせたアイツ

世咲

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第四章

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  名前を呼ばれて周囲を見回すと、通り過ぎたばかりの左の曲がり角から誰かがこちらに向かって歩いて来ているのが見えた。ロングコートにニットワンピースを着たその人は、俺が今会いたくない女の一人だ。

「こんばんは、理人くん」
「金澤さん……」

   金澤さんとはあのデート以来、連絡を取っていなかった。自分の勝手な感情で部屋から追い出したことは反省しているが、とにかく関わりたくなかった。

「今日はバイトだったの?」
「いや、違うけど。金澤さんは?」

 バイト帰りという感じの服装ではないが、しかし彼女の大学はここからバスで二十分ほどかかる場所にあるので、大学の帰りというわけでもないだろう。

「私はね、人を待ってたの」

 こんな時間に? と思ったが大学生ならありえない話ではない。俺自身は興味ないが、夜の遅い時間にクラブやバーに行くのが好きだという女友達も何人かいるし。

「そっか。あ、この前は本当にごめん。いきなり追い返して……」
「ううん。いいの。友達が体調崩したんでしょ? なら行ってあげなきゃ」

 そう言いながら笑ってくれたので、嘘をついているという罪悪感にかられながらも、もう彼女と関わらないと決めてその場を立ち去ろうとした。そもそも人と待ち合わせをしているなら長居をするべきではない。万が一相手が男だったとしたらややこしいことになりかねない。

「ありがとう。それじゃあ、俺はこれで」

   彼女の横を通り過ぎて歩きはじめた瞬間、後ろから左の手首を強く握られた。

「えっと……何?」

   満面の笑みで俺の手首を握っているのは、他の誰でもない金澤さんだ。それもかなり強い力で手首に爪を立てられている。ネイルの施された長い爪がぐいぐいと皮膚にのめり込んで、裂けてしまいそうなほどだった。あまりの痛さに顔が歪む。

「言ったでしょ。人を待ってるって」
「だったら……何だよ」

   何が言いたいのかわからなかった。人を待っているなら俺は関係ないだろう。

「電話、したでしょ?」
「何言って……」

   電話と言われても、金澤さんから電話がかかって来たことは一度もない。いや、そもそも電話をかけてくる人間なんて限られている。ほかに電話と言われて思いた当たるのは……非通知設定か。

「あれ……もしかしてお前が?」
「ずっとかけてたでしょ。理人くん、全然出てくれないから、どうしようかと思って今日はここで待ってたの」

 ずっと俺に電話をかけていたのは「非通知設定」だ。つまりあれは金澤さんの仕業だったのか。
  
「ねえ、理人くん。私ね、あなたのことが好きなの。合コンではじめて会ったときからよ。一目惚れだった。理人くんをはじめて見たとき、これまでの世界がとてもくだらいものに見えた。今まで積み上げてきた人間関係とか、学歴とかそういうの全部どうでもよくなっちゃった。全部捨ててあなたと結婚したいって本気で思ったの。あなたがいてはじめて私はここに立っていられる。だから理人くんが部屋に呼んでくれたとき、本当に嬉しかったの。ようやくあなたを手に入れられるって。それまでもずっと私を意識してほしくて、私以外のことを考えてほしくなくて、何度も何度も電話したのよ。でもやっぱり積極的すぎるのはダメかなって思って、私から会いたいって直接言わないようにしてたの。どうしても会いたいときは影から見守ることにしたの。偉いでしょ? ああ、もちろんあの日は、あんなタイミングで別れちゃったけど、そのことは本当に気にしていないから。友達の体調不良なんて嘘ついて、本当は私と二人きりになるのが恥ずかしかったんでしょ? いいのよ、それくらい。私だって本当はすごく緊張していたから。今も緊張してる。生まれてはじめて一目惚れしたんだもの。でもよかった。ようやく二人になれた。あの日の続きができるね。今日は何食べたい? 得意なのは和食だけどそれ以外もつくれるよ」

   金澤さんはそこまで一気にまくし立てるように話し、俺の手をさらに強く引っ張ろうとしたので、すぐに力づくで彼女の手を離した。

「悪いけど何言ってんのか全然わかんねえし、俺はお前のこと好きじゃないから」

   あまりの不快さに逃げたかったが、ここではっきり言わないといつまでも付きまとわれる可能性が高いと思い、普段よりも声を荒げた。

「どうして? 私を部屋に呼んでくれたじゃない。一緒に映画だって見たし、買い物もしたでしょ。私はずっと理人くんのことを見てた。私の視線に気づいてたのよね? 恥ずかしがらないで。私、あなたがいないと生きていけないの。あなたもそうでしょう?」
「知らねえって。何を言われても俺はお前と付き合うつもりはないし、二度と関わるつもりもない」

 俺がそう言うと、金澤さんは俯いて小声でブツブツと何かを言いはじめた。やっかいな女に関わってしまったが、今さらどうこう考えても仕方ない。

   とにかく今のうちに逃げようと思った瞬間、金澤さんはコートのポケットから何かを取り出した。それが何かわかる前に彼女は大声で叫んだ。

「私を好きじゃないあなたを見てられないの!!」

   勢いよく振り上げられ手には、裁縫のときに使うような刃先が鋭く尖っているハサミが握られていた。あまりにも突然のことで体がうまく反応できない。金澤さんはまさに鬼の形相でハサミを振りかざした。

   やばい! そう思ったときには目を瞑ることしかできなかった。

「こんな物騒なもの、人に向けちゃだめだよ」

   痛みはなかった。代わりに聞き覚えのある声がし、恐る恐る目を開けると、金澤さんが振り上げた手を俺の後ろから伸びている握り、ハサミが振り下ろされるのを止めていた。

   振り返ると俺の一歩後ろで呉内さんがにこにこと笑みを浮かべたまま立っていた。

「呉内、さん?」

 何でいるんだ。というか、俺は今呉内さんに助けられたのか?

 混乱する頭を必死で整理しながら二人を交互に見る。呉内さんは彼女の手首を握ったままもう片方の手でハサミをするりと抜き取った。

「返してよ! あなたには関係ないでしょ!? 前も私たちの邪魔して、本当に何なの!? 私は理人くんを愛しているの! 私を好きになってくれないならこうするしかないでしょ!?」

   金澤さんの金切り声をあげながら、呉内さんからハサミを奪い取ろうとするがさすがに届かないらしく、すぐに狙いを俺に変えた。

「理人くんが愛しているのは私だけでいいの!」

 彼女と目が合った瞬間、本気で殺されると思った。ハサミはもう取り上げられているのに、金澤さんから異様な殺気が感じられた。

「そうかな。理人くんには君よりもっといい人がいるんじゃない?」

   呉内さんはそう言うと、俺の頭を自分のほうを抱き寄せた。視界が遮られ、金澤さんの顔が見えないことに少しだけ安心する。しかしその直後、金澤さんが悲鳴ような叫び声をあげたせいで、たまたま近くを通りかかった巡回中の警察官二人組に見つかってしまった。

   金澤さんは慌てて逃げようとしたがすぐに取り押さえられ、その場にいた俺たちも事情聴取のため警察署に連れて行かれることになった。


「とんだ災難だったね」

   警察署で散々警察官に質問され、ようやく解放されたころには疲れきっていた。警察署を出て二人でマンションまで歩いて帰る。エントランスを通ってようやくここなら安全だと一息つく。

 呉内さんは心配だからと部屋の前まで送ってくれた。

「本当にありがとうございました。あのとき呉内さんがいなかったらと思うと……」

   そもそも俺がもっと早くから迷惑電話や度々感じる視線に危機感を抱いていれば、ここまで大ごとにはならなかっただろう。

「たまたまだよ。あの女の子、声が大きかったから通りがかりに聞こえてきたんだ」

   たまたまでも何でも、あのとき呉内さんが通りかかってくれなかったらと思うと背筋がゾッとする。付き纏われた経験はあるが、刃物を向けられたのははじめてだった。

「でも理人くん。変なことがあったら、大ごとになる前にちゃんと相談するんだよ。一人で抱え込むのはダメからね」
「はい。深月にも同じこと言われました。これからは気をつけます」
「それならよかった。あと、手首大丈夫?」

 呉内さんがそっと俺の左手首を掴んだ。金澤さんに爪を立てられたせいで、手首には赤い点がきれいに四つについている。皮膚が切れている部分もあって、痛みはあるが数日経てばそのうち治るだろう。

「痛そうだね」

 四つ並んだ赤い傷を指の腹で優しくなぞられる。触られた部分が熱を帯びていき、鼓動が速くなる。

「俺の部屋から絆創膏と消毒液持ってこようか」
「だ、大丈夫です。うちにも絆創膏とかあるんで……」
「そう? じゃあ、ちゃんと手当してね」
「はい」

 これ以上触られるとよくない気がして、ゆるやかに手を引っ込めた。

「それじゃあ、クリスマスにね」
「はい。それじゃあ、また」

 ドアを開けて室内に入ると、少しして呉内さんの足音が遠のいていくのがわかる。まだ心臓がバクバクしている。手首の痛みなんか忘れて、すぐにベッドに入り頭まで布団を被った。

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