イージーモードな俺の人生を狂わせたアイツ

世咲

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第三章

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 温めてもらったお粥を今度は自分で食べ、再び薬を飲む。今度はお粥の味がはっきりとわかった。昨日想像通した通りとても美味しかった。
 
「昼から深月くんが来てくれるみたいがら、俺はそろそろ帰るね」

 枕元のスマホを確認すると、深月から連絡が来ていた。今日はバイトが休みなので、スポーツドリンクやゼリーを買って来てくれるらしい。

「それじゃあ、またね。ちゃんと休んでるんだよ」

 ベッド脇に座っていた呉内さんが立ち上がり、ソファに置きっぱなしのジャケットを取りに行こうと離れていく。その後ろ姿を見ているうちに、その背中に手を伸ばしていた。

 きゅっと指でシャツを掴んだ。ほとんど無意識だったので自分でも驚いたが、何より振り向いた呉内さんが一番驚いていた。

「……どうしたの?」
「あ、の……ほんとに、ありがとう、ござい……ました。あと、かぜ、うつしてたら……すみ、ません」

 掠れる声で何とか気持ちを伝えると、呉内さんは子供をあやす大人みたいに優しく笑った。

「俺なら大丈夫。普段から風邪引かないからね。あ、それと治ってからも無理しないでね」

 俺が頷いたのを確認すると、呉内さんはソファにかけていたジャケットを羽織り、部屋から出て行った。

 ガチャリと音を立ててドアが閉まった瞬間、一気に室内が静まり返る。カーテンの隙間から差し込む陽の光だけが、薄暗い室内を頼りなく照らしている。さきほどまで呉内さんがいた場所をじっと見つめる。

「ゴホッ……ゴホッ……」

 自分の中から大きな何かが消えたような感覚があり、このままぼうっとしているとまた余計なことを考え込みそうだったので、とりあえずトイレに行こうとベッドから降りた。

「あ……」

 トイレのあと、洗面所で手を洗っていて気がついた。昨日、着ていた服とは違う服を着ている。たしか普段からよく部屋着にしているロンTを着ていたはずたが、今はスウェットを着ている。

ーー上だけでも着替えようか

 昨日の呉内さんの言葉を思い出す。でも自分で着替えた記憶はない。というか、その言葉を聞いたあとの記憶がない。つまり呉内さんが着替えさせてくれた?

「……まじ、か」

 食事の補助をしてもらったうえに着替えさせてもらうなんて、今になって想像すると本当に恥ずかしい。

 ……どんだけ世話になってんだよ。

 いや、それより服を脱がされたということは、たぶんあれも見られたに違いない。

 スウェットを捲り上げ、鏡に映る腹部を見る。臍の近くから右の脇腹にかけて大きな傷がある。小学生のころに交通事故に遭った際の手術の跡だ。当時のことはほとんど覚えていないので、見られても困るものではないが、向こうもあまり見たいものではないだろう。

 傷の部分を指で這う。痛みはない。記憶もない。ただそこには痛々しい傷がある。自分のものであるのに、これを見るたびに他人事のような気持ちになる。


 午後十二時ちょうど。インターフォンが鳴り、部屋のドアフォンのモニターを見ると、エントランスに深月が立っていた。オートロックを解除すると、一分もしないうちに玄関のインターフォンが鳴った。ドアを開けると、ビニール袋を三つも持っている深月と目が合った。

「理人、大丈夫?」
「なん、とか」

 深月は慣れた足取りで室内に入ってくると、ビニール袋をテーブルに置いた。中にはアイス、ゼリー飲料、栄養ドリンク、うどん、インスタントのお粥、マスク、額に貼る冷却シートなどが入っていた。

「あ、りがとな……」
「声、掠れてるね」
「これ、でもマシ……なった。きの、呉内さん……が来て、くれた……から」
「よかった。とりあえず理人は寝てなよ。お腹空いた?」
「さっき、食べた……から、大丈夫」

 呉内さんが多めにつくっていたらしく、冷蔵庫にまだお粥が残っていたので、それとフルーツゼリーを深月が来る少し前に食べた。

「わかった。じゃあ、寝てて。俺は勝手にしてるから」

 言われた通りベッドに横になると、満腹になったせいかあるいは体調が悪いからか、すぐに眠くなってきた。寝る前にせめて呉内さんにお礼のメッセージを送ろうとスマホを開く。画面には不在着信五十件と表示されている。すべて非通知からだ。面倒だがそろそろどうにかするべきだろうか。

 高校二年のときにも似たようなことがあったのを思い出す。当時、別れた彼女から執拗な嫌がらせを受けたことがあり、その際も非通知から着信が一日二十件はあったし、家の近くに待ち伏せされていたこともあった。

 あのときはずっと無視していたらいつの間か止んだので、今回もそうするつもりだったが、しかし時間が経つにつれてひどくなっている。学祭のときに電話に出たのが悪かったのだろうか。

 もし今回も女関係だとすれば、相手は合コンで一度関係を持った女の子の可能性が高い。しかしそれにしては時間が空き過ぎているような気がする。あれはたしか夏前のことだったし、そもそも向こうも俺に一度も連絡を寄越していない。今さら嫌がらせをする必要はあるだろうか。

 画面を見ているうちに眠くなってきたので、呉内さんにメッセージを送るのはあとにして、スマホに充電コードをさして眠りについた。


 意識が浮上し目を覚ますと、だしのいい匂いが鼻を掠めた。その匂いに包まれていると、お腹が空いていることに気がついた。どうやら誰かが料理をつくっているらしい。

「あ、起きた?」

 キッチンにいたのは黒地のエプロンをつけた深月だった。

「おはよって言っても、もう夜だけど」
「おはよ。……お前、それ自前?」
「うん。京兄に買ってもらった。ってか、声もだいぶんよくなったね」

 喉の痛みはほとんどなくなっていた。気だるさや関節の痛みもなく、体調が戻りつつあることがわかった。

「熱測って」

 どこに置いたかわからなくなっていた体温計を渡され、熱を測ると三十六度七分だった。どうりで体が楽なわけだ。

「微熱だね。うどんつくったから食べよ」

 深月がつくっただしがしみたくたくたのうどんを食べる。うどんがこんなにうまいと思ったのは生まれてはじめてかもしれない。

「ありがと。うまかった」
「よかった。あとこれ、昨日のレジュメ」

 深月から昨日の講義のレジュメを受け取ると、さらには溜まっていた洗濯、部屋の片付けと簡単な掃除をやってくれたとのことで、今度必ず何か奢ろうと決めた。

「悪いな、何から何まで」
「いいよ。一人暮らしだとこういとき何もできないのは仕方ないからね」
「何つうか、主夫力上がってんな」
「京兄が苦手だからね。家事とか料理とか。この前なんか、電子レンジに卵入れて爆発させてたし」
「あー、そういやそうだったな」
「理人も結婚するなら家事が得意な人のほうがいいんじゃない?」
「いや、料理以外はだいたいできる……はず」
「ま、理人が結婚しなかったら俺が京兄とまとめて面倒見るけど」

 冗談ぽっく笑う深月にそのときはよろしくな、なんて軽口を叩く。

 それから今日の講義について簡単に話を聞き、夜の七時に深月は俺の部屋から出て行った。動けるようになったとはいえ、ぶり返すと良くないので、大人しく風呂に入ってベッドに横になった。

 スマホでウェブサイトを見ていると、必ずと言っていいほど広告が目に入る。普段は全く気にしないが、このときは何となくその単語が目についた。

「……結婚か」

 それはウェブ漫画の広告で、笑っている女の隣に『結婚』という単語があった。自分にとってそれはたぶんそう遠くない将来に起きることだろうと思ってはいるものの、今のところ現実味はまったくない。

 ただ単に、就職してある程度お金が貯まったら結婚して子供を産む。それが一般的だから俺もその道を通るのだろう、という感覚でしかない。

 呉内さんは由莉奈さんと結婚を考えているのだろうか。社会人だし一流企業に勤めているし、年齢的にもちょうどいいタイミングだろう。あの二人が夫婦になる姿は簡単に想像できた。


 俺もいつか誰かとそうなるはずだから、今はまだ深く考える必要はないのに、こんなに気持ちが焦るのはどうしてなのか。

「わっかんね……」

 誰もいなくなった部屋で、俺の言葉は空気に溶けて消えた。

 
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