イージーモードな俺の人生を狂わせたアイツ

世咲

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第一章

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 硬い床にぶつかるかと思いきや、痛みは全くなかった。代わりに誰かにぶつかったことがわかり、息が止まった。

「大丈夫?」

 段差に躓いて転けそうになったことろを、呉内さんが見事に正面から支えてくれていた。本当に見事に、まるで抱きしめらているかのような体勢だった。

 押し倒されたときのような力強さではないが、あの日、夢で見た感触と似ていて、体が萎縮しうまく動かすことができない。

「す、すみません……」
「俺は大丈夫だよ。それと、唇の下のあたり大丈夫? 痛そうだけど」

 周りには絶対に聞こえないような小さな声で、下唇の噛み跡を指摘された。呉内さんの顔が至近距離にあって、声を上げそうになるのを必死で抑える。

「だ、いじょうぶです……」

 声が震える。目を合わせることすらできずにいると、呉内さんがゆっくりと手を離したので、何とか体勢を立て直すことができた。

「理人くん、大丈夫?」

 座っていた京斗さんも心配そうにこちらを見ていたが、呉内さんのおかげで転倒することはなかったので大丈夫ですと告げて、すぐにカウンターに戻り一息ついた。

 あんな段差で躓くなんて、いくらなんでも動揺しすぎだ。呉内さんに会いたくないと思うあまり、結局あの人に抱きしめられるような体勢になってしまった。

 こっちはこんなにも意識しているのに、呉内さんはそのあともいつも通りだった。俺と話しているときも京斗さんと話しているときも、変わった様子はまったくない。

 転びそうになって受け止められたときも本当に心配そうな顔をしていた。唇の傷も指摘はされたが、触られることはなかった。

 昨日あんなことがあってわざわざ来るくらいだから、てっきり何かされるのではないかと心配していたが、どうやらそういうわけではないらしい。 昨日寝室で見た呉内さんとはまるで別人のようだ。

「やっぱり日本はいいね。落ち着くよ」

 京斗さんがコーヒーを飲みながら話す。聞くつもりはなかったが、静かな店内ではどうしたって聞こえてしまう。もともとBGMも客の会話を邪魔しない程度の音量で設定しているので、こればっかりは仕方ない。

「うん。向こうもよかったけど、俺もこっちのほうが落ち着くかな」
「でも初出勤は落ち着くどころか慌ただしかったね。とくに朱鳥は」
「んー、でもみんな来月には気が変わってると思うよ」

 少し呆れたように笑う京斗さんに対し、呉内さんは興味なさげにケーキを一口サイズに切る。

「だといいけど。日本の女性も結構積極的で驚いたよ。もうあの会社で朱鳥の連絡先を知らない人はいないんじゃない?」
「俺はほとんど知らないけどね。それと京斗もたぶん同じことになってるよ」

 そりゃ、こんなイケメンが会社に来たら、間違いなく大騒ぎだろう。きっとたくさんの女性が呉内さんと関わりを持とうと躍起になっていたに違いない。その中には飛び抜けた美人もいるはずだ。呉内さんと並んでも見劣りしない、きれいな人が。

 やはり俺は夢を見ていたのかもしれない。たぶん一度変な夢を見て、それからも勝手に呉内さんを意識するようになっていたから、だからあんな夢を見たんだ。だって会社中からモテるイケメンが、八歳も年下の男を好きになるわけがない。

「八月一日さん、あそこの席の二人とはお知り合いですか?」

 客が減ったことで仕事がほとんどなくなったのか、暇だと言いたげな顔の井坂くんが二人が座っている席を見ながらそう言った。

「ん、ああ、そうだけど」

 俺がそう答えると、井坂くんは二人を見つめたまま黙ってしまった。

「何? 実は井坂くんも知り合い?」
「知り合いじゃないですけど、なんかかっこいいなあと思って」

 たしかにあの二人は男から見てもかっこいい。それは認める。いわゆる男が男に憧れる要素が詰まっている、という感じだ。とくにスーツを着ていると、大人の男性という部分が顕著に現れている。

 二人とも身長が高くて姿勢もいいので、座っているだけでも様になる。足が長すぎてテーブルの下で窮屈そうにしている。

「まあ、かっこいいよな。男から見てもそれは思う」

 俺がそう言うと井坂くんは首を横に振った。

「あー、いや。そうじゃなくて」

 続きを言うとして彼は少し声のボリュームを落とし、俺にだけ聞こえるように続けた。

「言ってませんでしたっけ? 俺が同性愛者なの」
「……え?」

 驚きのあまりほとんど声が出なかった。いや、たぶんいつもの俺ならもっとすぐに返事ができただろうが、この時ばかりは言葉に詰まってしまった。

 同性愛という言葉はもちろん知っているし、テレビやドラマなんかでも見たことはある。前に氷坂さんが読んでいた新聞でもそんな記事が載っていた。

 ただ実際には自分の周りに同性愛者一人もいなかったので、そういう人がいるということは俺にとってはあまり現実味がなかった。

 目の前のバイト仲間が、自分は同性愛者だと言った。それも真剣な顔つきで。まさか自分の周りにいるとは思いもしなかったし、井坂くんが同性愛者というのも意外だった。

 カルラでときどき食事会を開くことがあるが、そのときに佐倉さんが井坂くんに彼女はいないのかと話していたことがあったし、俺も井坂くんとどこそこの事務所の女優が可愛いとか、最近テレビに出てるモデルが美人だとかそういう話をしたことがあった。

「女の子を可愛いと思うことはありますけど、恋愛対象じゃないってことです」

 たしかに可愛いと好きはべつだというのはわかる。俺だって可愛いかったら誰とでも付き合えるわけではない。でも、男に関しては「かっこいい」と思うことはあっても、恋愛として「好き」だと思うことはない。

「ほかのみなさんは知ってるんで、八月一日さんにも言っておこうかと」
「そっか」

 驚きはしたものの、井坂くんが同性愛者だからといってとくに何か思うことはない。だがこれはつまり、やはり昨日のことは夢ではなく現実だったということになる。

 人は見た目や勝手なイメージでは判断ができないということがよくわかった。実際、本人からその話を聞くまで、俺は井坂くんが同性愛者だとは夢にも思わなかった。

 だから呉内さんがそうであっても何ら不思議ではない。その対象がなぜ俺なのかはわからないが。

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