イージーモードな俺の人生を狂わせたアイツ

世咲

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第一章

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   呉内さんは俺を引き止めようとはしなかったが、寝室を出る瞬間、小さな声で「またね」と言った。

   エレベーターを待つのも嫌で、ドタドタと足音を立てながら階段を使って三階まで降りた。ただ夢中で階段を駆け降りて、震える手でズボンのポケットに入れていた鍵を取り出し部屋に入った。

   部屋に入った瞬間、一人になれたことに安心して玄関のドアを背にしゃがみ込む。全身が熱いのは走ったからだけではないだろう。掻き乱された感情をどうにか落ち着かせようと、肩で大きく呼吸をする。

「はあっ……はあっ……何なんだよ、クソ!!」

 いきなり押し倒して、俺のことが好き?   意味がわからない。俺は男だぞ。女に間違われるようなことは今まで一度もなかったし、男に告白されたことだって一度もない。

   それに昨日俺を連れて帰ったのは呉内さんだったなんて。てっきり自分でタクシーを呼んで帰ったものと思っていたのに、歩けないほど酔っ払って呉内さんに連れ帰られたなんて信じたくない。

「俺の……ことが好き?」

   試しに声に出してみると急に現実味が増して、余計に頭が混乱するだけだった。このままではいけないと玄関で靴を脱ぎ、うまく力の入らない体を引きずってソファに倒れ込んだ。天井を見上げた瞬間、呉内さんの顔がフラッシュバックする。

 反射的に自分の視界を塞ごうとして、手首が鬱血していることに気がついた。おそらく押し倒されて掴まれたときの跡だろう。細くない俺の手首に、ここまでしっかり跡が付くとは相当な力だ。抵抗しようとしてもビクともしなかっただけのことはある。まるで逃がさないと言われているような気がした。
 
 あのとき俺が触るなと言わなければ、あのまま行為を続けられていたのだろうか。その先のことを、自分があのベッドで組み敷かれたまま好き勝手されるところを想像して全身に鳥肌が立った。

   二、三度大きく深呼吸して、ようやく少しばかり落ち着いてきた。ふと首筋だけが熱くなるのを感じた。
   
    首にキスをされた。最悪だ。押し倒されて抵抗できなかったことも、キスされて女がそうするときのような声が出たことも、呉内さんに手を離されてようやく逃げられたことも、何もかもが最悪だった。

 深月と京斗さんみたいな兄弟のような関係を築けると思っていたのに。大学に車で送ってくれたのも、料理をつくってくれたのも、夜景に連れて行ってくれたのも、全部、全部そのためだったのかよ……。

 一緒に夜景を見て嬉しかったことや、ついさっき呉内さんの部屋で食事をして楽しかったこと、すべてがぐちゃぐちゃに潰れて、無意識にのうちに下唇を強く噛み締めていた。血が出るほど噛んでいることに気づいたのは、ずいぶん後になってからだった。

 シャワーを浴びるとき、浴室の鏡に映った自分の首を見ると、キスされた部分が赤く鬱血していた。キスマーク。いつもより念入りに首を洗ってみたが、その程度で自分の気持ちが変わるはずもなく、もちろん跡が消えるはずもなかった。
 

 翌日は朝から講義があったものの、ほとんど眠ることができず、目が覚めた時点ですでに昼前だった。

 首に絆創膏を貼り、念のためハイネックのニットを着る。髪が長いのでここまですれば誰にも気づかれないだろう。手首の鬱血は消えていたので問題ない。

 それから急いで大学に行ったものの、到着するころには午後の講義はすでに始まっており、五分の遅刻となった。

 寝不足の状態で椅子に座ると、すぐに強い眠気に襲われた。瞼が重くつい目を閉じてしまうが、その瞬間、昨日の呉内さんの顔が浮かび、はっと目を覚ます。

 そもそもあの人は何だって俺のことを好きになったんだ? 俺たちはまだ会って二週間ほどしか経ってないし、呉内さんに好かれるようなことをした覚えはない。

 カルラで会ってそのあとマンションで鉢合わせして、一緒にレストランに行ったり、ときどき車で送ってもらったくらいだ。それ以外とくに接点はないし、連絡先を知っているわけでもないから、電話をしたりチャットでやりとりをしているわけでもない。

    百歩譲って俺がアイドル並みの可愛い女なら、一目惚れとか短い期間でも好かれる可能性があるのはわかる。だが残念ながら俺は男だ。別に深月みたいに可愛い顔の男というわけでもない。

   あるいは呉内さんが女ならわからなくもない。実際に初対面の女の子に一目惚れしたと告白をされたこともある。でもあの人はれっきとした男だ。そうなると考えられるのは、そもそも呉内さんの恋愛対象が男ということか。

 実際に告白されているのだからそれ以外に考えられないのだが、どうしてもあの人が男を好きになるということが想像できない。

 イケメンで背が高くて料理ができて、就職先の会社からして頭も良いはずだ。どう考えても女にモテる。同じく背の高い清楚な雰囲気の女性と並ぶと絵になる。

 呉内さんの隣の清楚な女性を俺に置き換えても恋人同士には見えない。たとえ恋愛対象が男だったとしても、俺じゃなくて京斗さんと並ぶほうがまだ納得できる。

 ダメだ。考えても考えても、昨日の呉内さんの言動が理解できない。もしかして、からかわれているのだろうか。


「それでどうだったの? 合コン」
「……合コン?」

 すべての講義が終わったあと、深月と正門に向かって一緒に帰っていた。道中であれこれ考えていたせいで、相槌を打ちながら深月の話を聞き流していた。

「え、ああ! 合コンな。行った、行った」
「新しい彼女できたんだ」
「いや、できてない……」

 俺の言葉に深月が珍しく驚いたように目を見開いていた。そりゃそうだ。彼女をつくるためにわざわざ行ったのに、誰とも付き合っていないなんて、合コンに参加した意味がまるでない。

「……そう。理人がそういう服装するときってだいたい彼女ができたときだから、てっきりそうなのかと」
「え、ああ、これな……ただの虫刺され。場所が場所だから勘違いされるかと思って」
「……まあ、最近は夏が暑すぎてこの時期に虫出るもんね」
「そうなんだよ。紛らわしいだろ、首に虫刺されなんて……」
「でも本当にどうしたの? 合コンしたのって、聖洋大の女子でしょ? レベル高かったんじゃないの?」 
「そうなんだけど……」
「珍しいよね。理人が女の子捕まえないなんて。近野に邪魔された?」
「いや、そういうわけじゃねえんだけど……」
「それとも本気で好きな人でもできた?」

   深月の言葉に対して俺はうまく反応ができなかった。

「……何で?」
「だってこんなに長い間、理人に彼女がいないのってはじめてだし。だから本気で好きな人でもできたのかと。それに疲れてるみたいだし。もしかして本気の恋愛で色々悩んでるのかなって、そう思ったんだよ」

 深月が冗談っぽく笑いながら言うから、俺も誤魔化すように笑いながら、そうじゃないと否定した。たぶん、うまく笑えていなかったと思う。

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