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第一章
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しおりを挟む翌日の昼前に目が覚めたときには頭がスッキリしていて、疲れていた体もずいぶん楽になっていた。おかけで講義中に眠くなることはなさそうだ。
シャワーを浴びたあと服を着替えて髪の毛をセットする。すべての準備を終えてから、あらかじめトースターに入れておいた食パンを皿に取り、バターを塗って食べる。
料理スキルがないのでほぼ毎朝これを食べている。ときどきジャムを買ったりピーナッツバターを買ったりもするが、結局バターを塗るのが一番好きでほとんど毎朝同じになってしまう。
昼は学食で摂るとして、今日はバイトがないから夜は深月を誘ってファミレスにでも行こうか。京斗さんがいるからもしかしたら断られるかもしれないが、そのときは一人で定食屋に行ってもいい。
たしか定食屋の定休日は明日だから今日は空いているはず。と、そこまで考えて、昨日深月がつくったカレーをもらっていたことを思い出した。
呉内さんには日持ちするとは言われたが、はっきりといつまでに食べきらないといけないのかわからないので、早いうちに食べたほうがいいだろう。
外食はやめにして、スーパーで白ご飯と惣菜を買ってあのカレーを食べるとするか。それでも余ったらカレーうどんにでもすればいい。今日は昼から夕方まで講義を三つ受ける予定で、一つ目は深月も受けているのでそのときにカレーの礼を言おう。
全ての準備を終えて、いつもと同じ鞄を片手に部屋を出た。
マンションのエントランスを出たところで、背の高いスーツを着た男が視界に入った。呉内さんだろうかと思いドキッとしたが、顔を見ると全くの別人だった。
呉内さんだったら良かったのか? ふと、自分の中にそんな疑問が生まれる。
いやいや。そんなわけない。ただ知り合いなら挨拶しなければと思っただけだ。べつに全く知らない人だったからと言って残念に思うことはない。
脳内の呉内さんを振り払おうとして、今日見た夢を思い出した。
目覚ましが鳴った瞬間、見ていたはずの夢の内容はパズルみたいに頭から抜け落ちていった。それどころか夢を見ていたことすら忘れていたのに、たった今、古い記憶を呼び起こすように夢の内容を断片的に思い出してしまった。
俺は夢の中で大きな腕に抱き寄せられて眠っていた。ずっと前からそこで寝ているかのような心地良さがあったのに、その場所に見覚えがない。夢の中で目を覚ますとその腕は俺の頭を優しく撫でた。近くにある窓から見える景色はとてもきれいで、たぶん今の日本じゃ見れないような大自然がそこにあった。
抱きしめられている感触や体温まで思い出され、遠い昔に体験した出来事のように感じた。泣きたくなるほど切なくて、胸の奥がじんわりと熱くなる。俺を抱き寄せている人の顔は見えないのに、俺はその人が誰なのかをわかっていた。
「理人くん?」
「はひ!?」
突然後ろから声をかけられ、驚きのあまり変な声が出てしまった。
「あ、ごめんね。驚かせちゃった?」
後ろに立っていたのは、スマホと財布を持った呉内さんだった。ジャケットにジーンズというラフな格好からして、近所のコンビニかスーパーにでも行くつもりなのだろう。京斗さんが有給休暇中だと言ってたので、おそらくこの人もまだ休暇中なのだろう。
「あ、いえ……ちょっとぼうっとしてて……」
まさか夢で自分のことを抱きしめていた人のことを考えていたら本人が登場しました、なんて言えるはずもなく、適当なことを言って誤魔化すしかなかった。こんな場所でぼうっとしていたというのもずいぶん不自然な話ではあるが。
「そうなんだ。あ、もしかして今から大学に行くの? 良かったら送って行こうか?」
「え!? あ……いえ、だ、大丈夫です! すぐ近くなんで!」
いくらなんでもこの状況で呉内さんの車に乗るわけにはいかない。ただの夢なのだから気にしなければいいのだが、どうしたって意識してしまう。
相手が深月なら「今日お前に抱きしめられてる夢を見てさ」なんてくらいの軽いノリで話せるし、向こうもおかしな話として笑い飛ばしてくれるだろう。しかし数日前に会ったばかりの、それも年上の同性相手にそんな話をできるはずがない。
「そう? 体調不良とかじゃないならいいんだけど」
「はい、大丈夫です。すみません、こんなところで。それじゃあ、また」
そりゃエントランスの真ん前でぼうっとしてたら怪しいよな。
これ以上一緒にいるとボロが出てしまいそうだったので、少し強引ではあるが俺は呉内さんに一礼をして足早にその場を去った。
「気をつけてね」なんて後ろから聞こえたが、聞こえなかったフリをしておいた。
そこから大学の道のりまでの記憶はほとんどない。ちゃんと大学に到着している以上、きちんと自分の足で歩いて来たことは間違いが、道中呉内さんの顔と今日見た夢が交互に思い出されて、気がついたら大学に着いていたという感覚だった。
考えないようにしようとしても、忘れようとしてもベッドで抱きしめられていたシーンが脳裏に焼き付いて離れなかった。
講義室に入るとすでに席は半分近く埋まっていたが、運良く後方の席が二つ空いていたのでそこに座った。
「ねえねえ、この前付き合った彼氏の家に、昨日初めて行ったんだけどさあ」
前の席に座っている茶髪の女の子が、その隣の席に座っている黒髪の女の子と彼女の前席に座っている男に、自分の最近の恋愛事情について小さな声で話しはじめた。
小声といっても、前の席にもなると何を言っているのかはっきりと聞こえてしまう。見ず知らずの女の子の恋愛話など興味はないが、聞こえてしまうものは仕方ない。
いや、むしろ聞いていないと、頭の中に今日見た夢がよみがえってきそうだったので、頬杖をつきぼうっとしているフリをして聞き耳を立ててみた。
「この前って四日前に言ってたやつ? 他学科の先輩とどうのって」
「そうそう。喫煙所で知り合った人。家に行ったらめちゃくちゃ広くてさ、一人暮らしなのにベッドなんかキングサイズくらいあったのよ!」
「うそ、キングサイズは言い過ぎでしょ! ってか事実だとしたら女と寝るためとしか思えないし」
「で、そのまま泊まったわけ?」
「あ、それで今日の講義、遅刻したんだ」
「朝起きたら腕枕されてて、もうめちゃくちゃ幸せだった! しかも超イケメンだし!」
話している女の子はとても幸せそうに笑っていたが、腕枕という単語を聞いて結局すべて思い出してしまった。たしかに今日見た夢は抱きしめられているような、腕枕をされているような感じだった。思い出しただけでまた恥ずかしくなる。
せっかく忘れようとしていたのにこれでは意味がない。
「腕枕っていいよね! 私も彼氏にやってほしいもん」
「いや、あれ結構しんどいから。一回抱きしめたまま寝たことあるけど、腕死んだもんな」
そうだよ。俺だって恋人に対して腕枕をする側だし、抱きしめる側だ。 いや、彼女に抱きしめられるのもいいけど、どちらにせよ男に抱きしめられるなんてことはない。
何を気にしていたのだろう。俺は男で呉内さんも男。ついでに言うと俺の恋愛対象は女。 間違ってもそういう関係になることはないし、昔は深月と一緒に寝ていたこともあったが、恋愛云々に発展することはなく今でも大切な親友に変わりはない。
それに誰かに抱きしめられていたことはたしかだが、相手の顔は見えなかったし、その人が呉内さんだという保証はない。別人だった可能性も十分ある。
もしかしたらちょっと筋肉質な美女だったかもしれない。そもそも夢は記憶の整理なのだから、最近顔を覚えた呉内さんと、最後に別れた彼女との思い出を整理していただけだろう。
考えすぎるのは良くない。夢のことなんかさっさと忘れてしまおうと、スマホを取り出した。
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