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第一章

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   カルラの閉店後、更衣室のロッカーの前で思わず大きくため息をついた。

   今日も夜の混雑のせいでまかないはなかったし、最後の客が閉店後も店内に残っていたこともあり、片付けが遅くなってしまった。おかけでいつもより疲労感は強いし、何より眠い。普段ならもうすぐ家に着く時間だ。

   こういう日もあるか。もう一度大きくため息をつき、エプロンを外して、帰る準備をする。

   コンビニに寄って適当におにぎりか何かを買おうと思ったが、そういえば今日の朝、食器棚の奥にインスタントラーメンがあったことを思い出し、それを夕食にすることにした。

   氷坂さんに挨拶をして店を出ると、あたりはずいぶん暗く、帰り道はほとんど人とすれ違うことはなかった。

   とても静かな夜だ。自分の足音がよく聞こえるくらいに。

   寄り道をせずにまっすぐマンションに向かう。早くご飯を食べて風呂に入って寝よう。明日は昼からの講義だけなので早寝する必要はないが、とにかく体が重く何より眠かった。

   エントランスを通ってエレベーターに向かおうとしたところで、前から来た人に声をかけられた。

「あ、理人くん。今帰り?」

   眠気と疲労で頭がぼうっとしていたせいで、名前を呼ばれたことにも一瞬気づかなかったが、目の前に立っている人物の顔を見て目が冴えた。

「あ、はい……えっと、お疲れ様です」

   昼間と同じ服装の呉内さんが、スマホを片手にエレベーターから降りてきたらしかった。おそらくこれから外に出るのだろう。

   こんな時間に? と思ったが、相手は社会人だ。門限があるわけでもないし、飲み会に呼ばれたとか彼女を迎えに行くとか、たぶんそんなところだろう。

「ずいぶんと遅いんだね」
「ちょっと片付けが長引いて……呉内さんはこれから出掛けるんですか?」
「ああ、うん……って、そうだ。理人くん、よかったらちょっと上がって来れる?」

   どこに? と言いたかったが、呉内さんはすぐに踵を返してエレベーターに向かって行ったので、言われるがままについて行くことにした。

   二人でエレベーターに乗って七階に向かう。七階は呉内さんが住んでいる階であり、俺は基本的に行くことがない。このマンションの内覧会に来た時に、七階にもいくつか空き部屋があったのでそのときに見に行って以来だ。

   つまり俺は今呉内さんの部屋に案内されているのか。そうだとすれば一体何のために? 俺自身この人に用はないし、向こうだってべつに何もないと思うのだが。

   疲労困憊の体をすぐにでも休ませたいが、今日は眠いから今度にしてくださいと言うわけにはいかない。

   相手が深月ならまだしも、会ったばかりの年上相手にそんな失礼なことは言えない。用もないのに呼ばれることはないだろうし、時間も時間だからきっとそんなに大したことじゃないだろう。

   そう思いながらエレベーターを降り、廊下をまっすぐ進む。どうやら突き当たりが呉内さんの部屋のようだ。

「ごめんね、ちょっと待っててくれる?」

   そう言うと呉内さんは俺を置いてさっさと部屋に入っていった。ドアはゆっくりと閉まり、誰もいない廊下でわけもわからずそのまま待つことになった。

 このマンションは廊下が外に面していないので、待っている間は白い壁をじっと見つめていることしかできない。疲れている頭ではそれがまるで永遠のことであるかのように感じられた。
 
   しかし実際は一分も経たないうちに呉内さんは部屋から出てきた。右手で透明な四角いプラスチックの容器を持っていて、それが何なのかはじめはわからなかった。

「これ、良かったら食べて」

   その容器を手渡されたときにふわっと良い匂いがして、すぐに中身が何なのかわかった。

「カレーですか?」

   仕事終わりで疲れていてもこの匂いはさすがに食欲をそそる。眠いとはいえお腹は空いているし、何よりインスタント麺やコンビニ弁当ばかり食べている身としては、とてもありがたい。

「今日カルラに行ったあと、京斗と深月くんと食事をする約束をしていてね。昨日は外食だったって言うから、それなら今日は家で食べようって話になって、カレーをつくることになったんだ。それでせっかくだから理人くんにもおすそ分けしようと思ってね」
 
   なるほど、そうか。深月が言い出しそうなことだ。あいつは俺と違って料理が得意だ。意外にも料理が苦手な京斗さんのためによく弁当をつくったり、夜ご飯をつくったりしていた。

   京斗さんが海外で一人暮らしをすることになったときも、食事面でかなり心配していたのを思い出す。

「そうだったんですね。ありがとうございます」

   いきなり七階まで来るように言われて何事かと思ったが、一人暮らしの料理下手にとっては嬉しいことだ。

   カレーならご飯以外にパンやうどんにかけて食べることが出来るので、三日くらいは食べ続けられる。

「小分けにしてあるから。冷凍庫に入れておけば日持ちするよ」

    明日大学に行ったら、深月に味の感想を聞かれそうだ。

   呉内さんにもう一度お礼を言って、容器を持ったまま自室のある三階に降りた。本来ならカレーの匂いは強いので鞄に入れるべきだろうが、どうせ誰とも会わないだろうからとそのまま持って降りて行った。
 
   部屋に入るなり疲れて荷物を床に置き、カレーの入った容器だけをテーブルに置く。蓋を開けるとラップに包まれたカレーが三つあり、すべて凍っている状態だった。

   その中から一つ取り出して電子レンジに入れ、あとは容器ごと冷凍庫に入れる。食パンを取り出して皿に乗せ、解凍されたカレーをその上にかけてカレーパンとして食べることにした。

「うま……」

   呉内さんと別れてから再び強い眠気に襲われていたが、このカレーパンを食べた瞬間、あまりの美味しさに目が冴えた。

   深月のやつ、料理の腕上がったな。もしかして京斗さんが日本に帰ってくると知ってから家で練習していたのかもしれない。

   京斗さんのためならそれくらいやりそうだ。最後に深月の手料理を食べたのはいつだったのかあまり思い出せないが、そのときよりは確実に上手くなっている。

 カレーパンはあっという間になくなってしまった。満腹になったわけではないが、もう一つ解凍するのはもったいない気がするし、だからといって自分で軽食をつくる気もないので、諦めて今日は寝ることにした。

   久しぶりに美味しいご飯を食べたことに感動しつつ、風呂に入ってからベッドに潜り込む。

 明日、深月に会ったらカレーのことを褒めまくろう。きっと得意気な顔をするだろうけど、本当に美味しかったのでよしとしよう。むしろまたつくってほしい。

   全身の力を抜いて横になり、深月の得意気な顔を思い浮かべていると、だんだん意識が遠のいていく。

  疲れていたのとカレーがあまりにも美味しかったせいで、俺は大事なことに気がつかなかった。いや、正確に言うなら気がついていたが、深く気にしていなかった。

   どこかに行くつもりでマンションのエントランスまで降りて来た呉内さんが、俺にカレーを渡したあと「おやすみ」と言って自分の部屋に戻って行ったことを。

   こんな遅い時間に出るくらいだから、大事な用事だったと思うのだが。出かけなくて良かったのだろうか。
 
   ぼんやりと頭の隅で呉内さんの顔が浮かんだが、すぐに眠気が勝ってしまいそれ以上考えることなく眠りについた。

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