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第一章
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しおりを挟む呉内さんが、というよりは社会人がどんな本を読むのか気になって、カウンターに戻る前にちらっと表紙を見ると、どうやら海外文学のようで、あいにく作家の名前もタイトルも知らなかった。
そもそも俺が知っているのは、本をほとんど読まない人間でも知っているような有名な作家の作品ばかりだ。それもだいたいは映画やドラマを見て内容を知っている程度で、原作の小説はほとんど読まない。
京斗さんもそうだが、呉内さんは本を読む姿がよく似合う。コーヒーを飲みながら読書をする姿がかっこいいというのは羨ましいかぎりだ。もともと顔が整っているというのもあるだろうけど。
大学ではあんな風に静かに本を読んでいるやつはいない。ただ気づいていないだけかもしれないが、少なくとも俺の周りで本を読むのは京斗さんだけだ。あと氷坂さんもたまに読んでいるところを見かけるが、あの人の場合はだいたい洋書だ。
「考えごとかな?」
俺の視線に気づいたらしい呉内さんが、顔を上げてこちらに話しかけてきた。
まずい。知り合いとはいえ店の客の、それも昨日会ったばかりの人をぼうっと見ていたなんて気まずいにも程がある。
「あっ、いや……すみません! ちょっと休憩していただけで」
客の前で休憩している店員もどうかと思うが、本を読む呉内さんを見てかっこいいと思いました、なんて言えるはずもなく、誤魔化すように手元にあった布巾でカウンターを拭くことにした。呉内さんは俺を見てにこりと笑うと再び本に視線を落としたので、俺も気を引き締めて真面目に仕事を再開した。
カルラは暖色系のライトを使っているせいで、普段から店の中は全体的に薄暗く、並べられているインテリアはメッキが禿げていたり、色褪せていたりと古めかしいものが多い。壁に飾られている絵画は絵の具をこぼしてそのままぼかしたようなものばかりで、どこの誰が描いたものかもわからない。
おかげで客足が少ないと、ここだけ外の世界から取り残されたような不思議な気持ちになってくる。
眠気を誘う心地いい時間の中で、呉内さんがページをめくるたびに紙が擦れる音が聞こえる。その背後では落ち着いたリズムに合わせて邦楽の歌詞が流れている。カルラで唯一流れるこの邦楽は、氷坂さんがアメリカに渡る少し前に流行っていたらしい。
『この冬を忘れるころに、もう一度あなたに会いたい。失った日々を精一杯の愛で返すから、そのときはどうか笑っていてください』
聞き慣れたサビの部分は氷坂さんが一番好きなフレーズだ。店内で繰り返し流れるため、歌詞やリズムを覚えてしまった。無意識に口ずさむほどに。けれども俺には季節を超えても会いたいと思うような人はまだいない。
呉内さんはよほど読書に集中しているのか、食べかけのバームクーヘンが皿に乗ったままだった。そろそろコーヒーのおかわりを聞くべきだろうか。それとも邪魔をしないように、なるべく静かにしておくべきだろうか。
あれこれと悩みながら仕事をしているうちに時間が経ち、読書を終えたらしい呉内さんがお会計のためにレジカウンターに来た。
「美味しかったよ、ありがとう。理人くんは今日も夜までいるの?」
「はい、今日も閉店までここにいます」
そうはいってもそろそろ氷坂さんが休憩から戻って来るので、これ以降の時間はほとんどホールや雑用で終わるだろう。
「そう、無理しないでね。じゃあまた」
呉内はそう言って店を出た。
「また」ということは次も来るのだろうか。昨日の今日で来るくらいだからその可能性は高そうだ。常連客が増えればそのうち俺の時給もあがるだろうし、閑散時に来てくれればいい暇つぶしにもなる。
この店の閑散時は本当に暇なので、今日みたいに一人でも来てくれるとありがたい。それが同じマンションの住人で、かつ知り合いともなればなおさらだ。
「何か良いことでもあったのかい? 理人くん」
二階の自室から降りてくるなり、氷坂さんは俺を見てそう言った。この人は他人の表情の変化に鋭い。疲れている時やしんどいときは特に気を使ってくれる。
「どうしてそう思うんですか?」
「いや、ただいつもより楽しそうに見えただけだよ」
氷坂さんはそれ以上は何も言わず、すぐに仕事にとりかかったので、俺もそれ以上は聞かずに休憩に入ることにした。
カウンター奥の更衣室のさらに奥に、部屋とも言えない狭い空間があり、そこでいつも休憩時間を過ごす。中にはパイプ椅子が一つと、小学校や中学校の教室にある勉強机より一回りほど小さいサイズの机が申し訳程度に置かれている。
あらかじめ用意してしていたコンビニで買ったおにぎりやパンを食べる。基本的に休憩時間は一人なので、食事のあとはスマホで動画を見るか、アラームをかけて寝ることがほとんどだ。
ーー好きなんだ
ぼうっとしながらおにぎりの最後の一口を食べようとしたところで、呉内さんの言葉が頭の中で再生された。
それは勝手に何度も何度も繰り返され、同時に店内を出て行くときの呉内さんの背中がぼんやりと浮かんだ。
深い意味はなかった。いや、そもそもコーヒーの話だったのに、その単語がやけに胸のあたりに刺さるのは、たぶん最近彼女がいないのと、呉内さんの顔がきれいすぎるからだろう。
彼女が途切れることはないといっても、前の彼女と別れた翌日に次の彼女ができるわけではないので、今のように少しばかり間が空くことがある。
それが今回はいつもより長いから、きっとそういった言葉に過敏に反応してしまっただけだろう。だからといって呉内さんに特別思うことがあるわけでないし、あの人がカルラを出たあとどこに行ったかなんて俺にはまったく関係がない。
というか、どうして俺は昨日知り合ったばかりの人のことを考えているのだろうか。
久しぶりに新しく知り合いができたからなのか、相手がとんでもないイケメンで、そのうえ俺が淹れたコーヒーを褒めてくれたからなのか。あとは住んでいるマンションが同じという偶然があったからか……って、そんなことはどうでもいいか。
相手は昨日会ったばかりのコーヒー好きの男の人で、京斗さんの会社の同僚というだけだ。単なる顔見知りで、カルラの客。それだけ。深く考える必要はない。それにこれ以降の時間は忙しくなるだろうから、考え事をしている場合ではない。
休憩時間はあっという間に過ぎていき、終わる五分前には外していたエプロンをつけて気合を入れた。
「働くか」
呉内さんのことはなるべく思い出さないようにして、俺は店内に戻った。
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