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第一章

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   翌日。今日は大学が休みなので、昼から閉店までのシフトに入っていた。平日なのでそれほど忙しくはないだろう。今日も氷坂さんが休憩している間は俺が一人で店を回す。

   昼の三時のデザートタイムが過ぎたあたりから、店内の客はほとんどいなくなったので、テーブルを端から端まで丁寧に拭いたりメニュー表を整えたりしていた。

   客がいなければだんだん気も抜けてくるもので、ふと昨日会った呉内さんの顔を思い出した。

   同じマンションに住んでいるなら、この辺りで偶然会うかもしれないし、もしかしたらカルラの常連客になるかもしれない。あれだけ顔が整っていれば、きっと社会人女性との繋がりも多いだろう。

   仲良くなって紹介してもらうのも悪くない。社会人の女性と知り合えると思ってバイトをはじめたが、カルラに来る女性客はほとんどが主婦や未亡人なので、恋愛対象にはならない。

 気がつけば大学を入学して半年が経とうとしている。そろそろ誰かと付き合って、クリスマスや年末年始を楽しく過ごしたい。

 つまりこれは紛れもないチャンスだ。そのためにまずは呉内さんと親しくならないと。


   三十分ほど考えごとをするだけの余裕のある時間が続いていたが、入店を知らせるベルが鳴り、すぐに頭を切り替えて出入り口に目を向けた。

「こんにちは、理人くん」

   入店した客の顔を見て、俺は店員としての挨拶の言葉を言い忘れてしまった。

「こ、こんにちは……」

   ついさきほどまで頭の中にいた人物が目の前に立っている。俺の想像が具現化したようなちょっと不思議な気分になり、数回瞬きをしてみたが、目の前に呉内さんがいるという現実に変わりはなかった。

「今日も一人?」

   そう言ってきれいに笑う呉内さんは、昨日のスーツ姿とは違いラフなTシャツにジーンズを履いていた。左手にはめている時計は、細い革製のベルトのシンプルなデザインのもので、それ以外にアクセサリーは身につけていない。

   これだけシンプルな格好なのに様になるのは、男の俺から見てもすごいと思う。

「あ、はい。店長は休憩中なんで、今は俺一人なんです」

   呉内さんを昨日と同じ席に案内すると、悩む様子もなく昨日と同じメニューを注文された。俺がコーヒーを淹れている間、呉内さんは小さめのバッグから一冊の本を取り出し、静かに読みはじめた。

   店内はとても静かだった。氷坂さんがアメリカに住んでいたところに好きだったバンドの曲が申し訳程度の音量で流れているだけで、それ以外はいたって静かだ。おかげでコーヒーを淹れるのに集中できたし、昨日よりもきれいにバームクーヘンを切ることができた。

   だから気がつかなかった。本を読んでいたはずの呉内さんが、席を立ちカウンターで俺の様子を見ていたことに。

「好きなんだよね」

 コーヒーときれいに切れたバームクーヘンのことでいっぱいだった頭の中に、すうっと透き通るような声が入ってきた。

「え?」

   バームクーヘンを皿に乗せようとして声のしたほうに目を向けると、呉内さんがカウンターに頬杖をついてこちらを見ていた。

 清潔感のある整えられた黒髪、眉間から筋の通った高い鼻、色素の薄い大きな目、形のいい唇、細い顎のライン、一つ一つが丹精込めてつくられた人形のパーツのようで、さらにはそれをバランス良く配置した、そんな顔がきれいに笑うものだから、思わず手を止めてしまった。

   ……あれ、今、何て言った?

   俺が言葉を理解する前に、呉内さんが先に話を続けた。

「淹れたてのコーヒーの匂い。好きなんだ」
「え……あ、ああ。良いですよね」

   本を読んでいると思っていたのに、一体いつから見ていたのだろうか。見られていることに気づかずに仕事をしていたというのは、いくらなんでも恥ずかしすぎる。

「呉内さんはコーヒーがお好きなんですか?」

   知り合いとはいえ相手は客なので、話しかけられたら会話を続けなければならない。特に常連ばかりのこの店では、客との会話が重要になってくる。マニュアル通りの接客ではなく、その人その人に合った接客をするために、まずは何度も会話をする必要がある。

「うん。って言っても詳しいわけじゃないけどね」
「コーヒーもたくさん種類がありますからね。俺もこの店で働きはじめて、少しずつわかるようになりましたけど」

   コーヒーを白いマグカップに注ぐと、ふわふわと白い湯気がたち香りが広がる。

 実家に住んでいた頃はコーヒーなんてどれも同じだと思っていたし、これといって興味もなかった。飲むのはせいぜいインスタントコーヒーで、友達とカフェに行って飲むものとの違いなんて大差ないと思っていた。

   呉内さんには最近わかるようになってきたなんて言ったが、正直わかるようになったのはこの店のコーヒーと市販のコーヒーの味の違いくらいだ。

   あとはコーヒー好きの常連客が豆の種類や海外のコーヒーについてよく話すので、その中で覚えた知識くらいで、本格的なことは何一つわかっていない。アルバイトだからその程度の知識で問題ないと思っていたが、客にコーヒー好きが多いとなるとやはりもう少し勉強するべきだろうか。

「お席までお持ちしますね」

   トレーにマグカップと小皿を乗せてカウンターを出て、席に着いた呉内さんの前にそれらを並べる。

「ありがとう」
 
   呉内さんはそう言ってからコーヒーを一口飲むと、「うん、やっぱり君が淹れたコーヒーはとても美味しいよ」と感想を述べ、すぐに本の続きを読みはじめた。

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