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第三部
3ー40 あなたをマルッと理解したい
しおりを挟む「ミアちゃん。『お』ってどうかくの?」
「『お』はこう書きます」
「じゃあね。『あ』ってどうかくの?」
「『あ』はこうです」
朝御飯を食べ終わってすぐのこと。
シンディはテーブルにノートを置きつつ、ミアから文字を教わっていた。
ごく最近始まった習慣で、二人はときどき勉強を始めるのだ。
ノートにはその努力の跡が残されている。
書きなぐられた識別不能の文字が大変愛おしい。
「『お』と『あ』はスッゴクにてるの。どうしてなの?」
「文字とはそういうものです」
「なんでなの?」
「そういうものだからです」
ピシャリとミアが答えるが、これは彼女が正しいと思う。
世の中には抱いても意味の無い疑問というものがある。
文字や言葉は覚えるに限る。
その辺の事を聞かれても、ここに答えを持ってるヤツなんかいない。
「それでは、教えた文字を使って絵日記を書いてみてください」
「うん。わかったの」
シンディには勉学のために、紙と蝋(ろう)を与えた。
5本の蝋は全てビビッドな色に染まっている。
赤・青・黄・黒・ビリジアン。
その5色の細長い棒を紙に擦り付けると、色つき文字が書けるという仕組みだ。
ウチには金がないから上質な紙までは用意できない。
だから与えたノートは、デコボコのザラついた紙で出来ている。
見ていて書きにくいだろうと思う。
それでもシンディは文句ひとつ言わず、真剣に文字や絵を描いていく。
なんと甘やかし甲斐のある娘だろうか。
「かけたの。がんばったの」
「素晴らしいです。シンディちゃんは一杯描きましたね」
「えへへ。えらい?」
「もちろん。すごーく偉いですよ」
「おとさん、みてぇ。シンディがかいたの!」
愛娘が本日一番の笑顔で成果物を見せに来た。
大きな紙の右半分が文字で、『もっちよもちょ』と書かれている。
反対側がこれまた大きなイラストで、女の子が口から嘔吐し、その隣に頭を破裂させている男がいる。
……野戦病院かな?
「おぉスゴいな! このタッチは中々出そうと思っても出ないもんだぞ?」
「えへーぇ。すごい? えらい?」
「うんうん。凄いし偉い!」
「シンディちゃん。ひとつ聞きたいんですが、この絵はなんですか?」
「このまえ、おとさんにつれてってもらったトコ。もっちょもちょのコがいたの」
「あぁ……これは北の泉の話なんですね。てっきり野戦病院かと思いました」
全くミアは勉強が足りないな。
どっからどう見ても精霊と戯れるシンディだし、それを見守っているオレだろうが。
もちろん父親であるオレは、一瞬で全てを理解したぞ。
「ではシンディちゃん。もっちょもちょとは何ですか?」
「もっちょもちょは、もっちょもちょなの」
「それだとちょっと……」
「何だミア。知らないのか?」
「ええっ! 魔王様はご存じなのですか?」
「もちろんだとも。完璧に理解しているぞ」
「では教えてください、もっちょもちょとは何ですか?」
キラキラの眼差しでミアがオレを見る。
シンディはというと、より強烈な期待感を持ったらしく、物凄く良い笑顔を向けてくる。
……やばい、調子に乗ったかもしれん。
このタイミングで『嘘ですもち』なんて言う度胸は無い。
もはやオレには、誤魔化すという選択肢しか残されていなかった。
「もっちょもちょって言うのはあれだ。例えば……今朝食べたパンとか」
「あれは、もっちょもちょしてないの」
「してない。全然してない。だから間違えて覚えるなよ?」
「わかりました、気を付けます! お気遣いありがとうございます!」
「逆からいこう。要素が無い例を挙げていくぞ。原っぱにダンゴ虫がいるだろ? あれは全然してない……」
「あれは、もっちょもちょなの」
「そう。もっちょもちょだ。物凄く、かつて無いほどにな」
「そうなのですか。勉強になります」
ニコリと満足げにミアが笑う。
だが、それとは正反対に、シンディはつまらなそうな顔をした。
これは、まずかろう。
父として大変にまずかろう。
シンディの沈んだ顔は、目にするだけで胸が痛んだ。
ましてや自分が原因なのだから、ダメージは何倍にも膨らむ。
「おとさん。ウソはよくないの」
「い、いや! 嘘じゃないぞ! お父さんはただ……」
「ミアちゃん。いくの」
「え? はい、わかりました。それでは魔王様、失礼します」
「待ってくれ、オレはただ、シンディを一番理解する人になろうと……!」
家の奥へと二人は行ってしまった。
大失態を犯した父を置いて。
だからこそ、だが。
完全に自業自得だが、この仕打ちは余りにも辛すぎる。
「ライル。そんなに気に病まなくてもいいじゃない?」
「リタ! これはマズイぞ! シンディに嫌われた、もう遊んでもらえないかもしれない!」
「大丈夫よ。お昼ゴハンを食べ終わる頃には、機嫌を直してるわ」
「だと良いんだが……あぁ、辛い。昼飯はまだなのか?」
「朝御飯食べたばかりじゃない。一仕事してきたら?」
「やることない。全部クライスに任せてる」
「じゃあ二度寝でもしてらっしゃいな」
「そうだな……寝られそうにないが」
オレは寝室に戻り、ベッドに我が身を投げた。
そして身もだえる。
もっちょもちょとは何か。
その一事がオレの心を苛み続ける。
「隣はずいぶんと楽しそうだな……」
子供部屋の方からは楽しげな声が聞こえてくる。
どうやらシンディは機嫌を取り戻したようだ。
それが嬉しくもあるが、同時に寂しいし不安を覚える。
あの子の機嫌を良くしたのがオレじゃないからだろう。
だが、しばらく寝転がっていると、いつのまにか寝入ってしまった。
多少なりとも安心したからだろうか。
目を覚ますと、部屋の中にはほんのりとだが、美味しそうな匂いが漂っていた。
窓の外の日差しもだいぶ位置が動いている。
待望の昼飯の時間がやって来たのだ。
「よっしゃぁ! 昼飯じゃいぃ!」
オレは空を飛ぶようにして廊下をかけた。
脇目も振らずリビングへと向かう。
そこにはいつも通りのシンディが。
オレの側から離れようとしない、愛するシンディが。
……いない。
テーブルには三人分の食事があり、リタとアシュリーが座っていた。
残りはオレの分だろう。
つまりシンディとミアは、ここへやって来ない事になりはしないか。
「リタ。2人は……?」
「んーー。あの子たちなら、やりたい事があるからって言ってて。部屋から出てこないわ」
「そ、そんな!」
「だから食事も部屋でとらせてるから」
「珍しいですね。リタがそういうの許すなんて」
「まぁ、事情が事情だから」
その事実は、オレに致命傷を与えるのに十分過ぎた。
足元から世界が崩れていく。
動悸、眩暈(めまい)、息切れに頭痛。
オレは一瞬のうちに心の標(しるべ)を失い、膝を折った。
もう立ち上がる事はあるまい。
そう感じるほどに、体からあらゆる力が抜けてしまった。
「どうして、シンディ。今までずっと一緒にやってきたじゃないか……!」
「まぁ女の子って成長早いですからねぇ。親離れしたんじゃないです?」
「怖いこと言うなよ鳥ィ! シンディはいつの日もパパッ子なんだよぉ!」
「うわっ。泣かないでくださいよ面倒臭い」
「ライル。ひとまずご飯食べちゃって」
「無理。立てない」
「しょうがない人ねぇ」
オレは左右から抱き抱えられ、椅子に座らされた。
テーブルにはいつものように飯が並ぶ。
まるっこいのヤツ、何かの汁、肉と草。
オレの目には全てが灰色に映った。
それらを手にとって口に運ぶが、一切の味がしない。
無味無臭そのものだ。
娘の愛を失った父というのは、生ける屍(しかばね)に成り下がってしまうのか。
屍であれば補給も不要。
一連の作業はすぐに完了を迎えた。
「ごちそうさま」
「もういいの? 食べなきゃ体に悪いわよ」
「いらない。寝る」
「リタ。シンディたちのアレっていつ終わるんです?」
「晩くらいまでかしら。わからないけど」
世界が歪む、歪む。
上も下も左右も無い。
何とか記憶と壁を頼りに寝室へ向かう。
足がひたすらに重い。
ベッドにたどり着くまで、ずいぶんと時間がかかった気がする。
身を投げ出して横たわる。
返ってくる枕の感触が少しだけ気持ちいい。
こんな時でさえ快楽を得ようとする自分が、途方もなく恨めしかった。
「ごめんよぉ、シンディ。オレがバカだった。こんな親父を許してくれ……」
掠れた声と共に枕が濡れる。
ひたすらに、止めどなく。
このまま全ての水分を失ってしまえば良い。
そうしているうちに、視界が光を失った。
…………
……
それからどれほどの時が過ぎたろう。
心が微睡みのなかにいる。
ーータタタタッ。
遠くの世界で足音が鳴っている。
ずいぶんと軽い音だ。
まぁ、オレにとっては、関係の無い話か。
ーーガチャッ!
ドアの開く音。
それからすぐ、体に衝撃が走る。
ーーボフッ。
何かがベッドに飛び込んできた。
腹の上がいくらか重くなる。
目を開くとそこには。
「おとさん、おきて! こっちきて!」
「し、シンディ? これは夢なのか……」
「ねぼけてないで、はやく! はやく!」
「わ、わかった。引っ張らないでくれよ」
起き抜けの父に気遣いはなく、全精力をもって娘が腕を引く。
オレが魔王じゃ無かったら肩が抜けてたかもしれない。
そうやって引っ張られた先はリビングだった。
ミアとリタの姿もある。
いやそれよりも見るべきは天井の方。
紙をつなげて作ったらしい、大きな飾りが施されていた。
色とりどりの大きな文字を、端からひとつずつ眺めていくと……。
ーーおちさん おたんじうび おめでとお
電撃にも似た衝撃が走る。
リタを見ると、笑顔。
ミアを見ると、やはり笑顔。
そしてシンディは。
「おとさん! おたんじょうび、おめでとうなの!」
この子ったら!
ダメだ、涙が止まらない。
さっきまで散々に流したはずなのに、涸れたと思われたそれは、オレの頬を再び濡らした。
「ありがとうシンディ! ごめんよシンディ!」
「えへへ。おとさん、へんなの。どっちなの
?」
「うわぁぁん! ありがとうぅ、ごめんよぉおお!」
愛娘を腕に抱く。
いつもの慣れ親しんだ体温が、体の隅々に浸透していくようだ。
そして魂に光が灯る。
心を覆っていた闇は、強烈な朝日によって、その役目を終えたのだ。
余談。
今日は別にオレの誕生日ではない。
なんでもない、極々普通の日。
だがそれがどうしたと言う。
こんなにも喜びを感じられるなら毎日が誕生日だって構いはしない。
一年で365回迎えても良いくらいだ。
オレの太陽。
安らぎと道筋を示す目映い光。
それを両腕に抱き締めつつ、確かにそう思うのだった。
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