一生の孤独とひきかえに

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時雨はそれを見るや否や立ち上がり、息つく間もなく牢獄の鉄格子を握りしめ力一杯手前に引いた。
太く重そうな見た目に反して素直に時雨へ従った鉄格子は『キー』という高く鈍い音を立てながら手間に引かれ、鉄格子はその不快な音を牢獄部屋に響かせている。

「おいおい、本当に開くのか。」
その音に反応しそう言った椎名は驚きを通り越してしまったようで、その口調は冷静だ。
 
閉じていた牢獄の入り口は時雨によって人一人が入れる程の隙間が空いた。
それを確認した後、時雨は牢獄の中へと足を踏み入れる。

椎名は拷問によって身体のあちこちに傷を作られ、またその上から傷を作られと、かなりひどい状態で肉が見えているような部分もある。
鉄格子を隔てない椎名を初めて見た時雨は全身の奥をえぐられるような感覚に襲われた。

目を背けたくなる光景に足は後ろに下がりかけたが、そうはならずに踏みとどまる。
それどころか時雨は椎名の近くまで寄って行き、片手を椎名の口元に差し出した。
その手には赤黒い粒が一粒持たれている。

「椎名これ飲んで、痛み止め。」

一方で椎名は時雨の持つ小さな粒を見ると、何か言うでもなく固まってしまった。
時雨は自分の声がまるで聞こえていない様子の椎名に言葉が伝わっているのか不安になり念には念をでもう一度「飲んで。」と告げ、そして続ける。

「これ痛み止めとか...あと外の傷と中の傷、どっちにも効くから....私もよく飲んでるよ」 
時雨は必死で説明も加えるが、上手く言葉が出てこない。
結論、時雨が椎名に伝えたかったのは、怪しいものでは決してないから大丈夫という事だ。
もちろん飲んでいると言うのも本当の事で時雨は幾度となくこの粒に助けられてきた。
 
それは時雨が10歳の時、突然高熱で倒れたのが始まりだ。
原因は医師も分からないと言い、結局疲れからきた熱という何とも適当なもので決着がついた。
高熱は3日間続き、その後時雨は奇跡的に回復した。
しかしその熱以降時雨の身体に二つある変化が起きたのだ。
一つは熱より前の記憶が曖昧でほとんど思い出せない事。二つは時折身体のあちこちがあざを作ったように痛む事だった。
二つ目の変化はかなり厄介で、いつその痛みが襲ってくるか分からない。
それを治すものこそ椎名に差し出した赤黒い粒薬だったのだ。

時雨にとっての生命線とも言える粒薬を見つめたまま椎名は時雨の言葉にも答えず、飲もうともしない。
理由として思いつくのはひとつしかなかった。
「......椎名?」
「怪しいと思ってる?」


「あ、いや俺が飲んでいいのかこれ....?」
時雨の言葉から数秒後、ようやく反応を見せた椎名は珍しく言葉に詰まっている。

それを聞いた時雨は少し驚いた。
椎名がここまで慎重な性格だとは思っていなかったのだ。
初対面である自分に話しかけ、それも過去まで話している。そんな椎名が「飲んで大丈夫か?」などというのは少々予想外だった。

「うん.....誰が飲んでも大丈夫」

「そうか。助かる」
椎名がその一言を発した後は一瞬だ。
椎名は差し出された粒を直接唇で受け取り、それを口に含んだ。
両手を拘束されている椎名がこのようにして飲むしかないのは時雨も元より分かっていて椎名の口元まで手を持って行ったが、その瞬間はあまりにも突然やってきたので時雨の肩は少しだけ跳ねた。
 
「どうした?」
粒を既に飲み込み、それに気づいたらしい椎名は時雨に問いかけた。
 
「え?えっと...何でもない」
その問いに時雨は驚いたとも言えず、かと言って他の言い訳も思いつかず、結局口から出たのは答えになっていない返答だ。
時雨は自分の返答が椎名に納得されていないことに気づいてはいたが、見て見ぬ振りをした。
それから時雨は『もう聞かないで』とでも言うようにそのまま視線を横に逸らす。


視線を逸らした時雨の目線の先には牢獄の鉄格子、その先の壁、そして一番近くに椎名の手を吊る鎖が見える。
先程まで牢獄の外から見ていた牢獄部屋も見ていて気分はあまりよくないものだったが、それは牢獄を隔てる事によってさらに息苦しく見えるから不思議だ。
椎名の手を吊る鎖もそう見える要因のひとつなのだろうか。

その鎖に目が行った時雨はある一部分を見ると首を傾げた。
「あそこの鎖.....」
 
「今度はなんだ?」
椎名は先程した問いへの返答も十分にもらっていない中で、時雨がまた新しいことを言い始めたので、右往左往といった状態だ。

しかし時雨はそんな椎名をよそに続ける。
「あそこ、椎名の手を吊ってる鎖の真ん中、形が違う」
 

「鎖?」
「普通の鎖だろ、俺には見えないけど」


「知恵の輪みたいな形......」
 

「ごほっ.....知恵の輪?」


「うん。前に書物で読んだことがあって、いろいろなことをして解く遊び道具」
時雨はその言葉で知恵の輪がどういうものなのか説明したつもりだ。
しかし説明自体、壊滅的に下手な時雨はこの瞬間、椎名の前でもそれを披露してしまった。
士門と話す時も同じようなことに度々なるのだが、士門はさらっと聞き流してそれを指摘することは特にない。

その為時雨は自身が話下手ということにまだ気が付いていないのだ。
話せば話すほど共にいればいる程相手は時雨の話下手を知っていく。椎名もまたその一人なのかもしれない。
 

「何?私おかしなこと言った?」
時雨は椎名から返答が返ってこないのを少し不安になり聞き返す。
 
「いや何でもない」
「ははっ」
 
「なんで笑ってるの?」
何が面白かったかという事を分かっていないのは時雨だけだが、時雨は真面目に話したつもりでいるので何が可笑しいのか分からない。

 「いやいやごめん。ほんと何でもない。」
「それより鎖と知恵の輪の形が似てて何になるんだ?」
 
「私解き方知ってるからこの鎖外せるかもって思って」
そう言い終わると時雨は椎名の腕と牢獄をつなぐ鎖の中心へと駆け寄った。

時雨は手で形違いの鎖を触れながら、やはり書物で見た『知恵の輪』そのものだと改めて確信する。
その鎖は細長い鉄の先端を曲げ、輪にしたような造りをしていて、二つある形違いの鎖は互いの輪が交わるようにして連なっている。

知恵の輪型の鎖以外はすべてごく普通の鎖だ。その二つは無理やり溶かし溶接されたような不格好な付き方をしていて隣同士はつながっていた。まるで取って付けたような状態で、近くで見るとさらにそれは違和感を醸し出している。
 
時雨は日頃歴史書で鍛えられた記憶力で書物に記された『知恵の輪』の解き方を記憶していた。
生まれてこの方書物の内容を覚えていて、得するばかりか、読んだことのない書物が日に日に少なくなっていく喪失感に損をした気分になっていたが、今回ばかりはそれを損とは思わなかった。むしろその反対。得をしたと思った。

交わった二つの輪のうち左側だけを半回転させ二つの輪が正面から見て左右対称になるように固定する。あとは回転させていない方の右側を手前に引く。
そう書いてあったのを時雨はすぐに思い出した。

その手順を正確にそして素早くこなしていく。

時雨の言った 『いろいろなことをして解く』という言葉は間違いという訳ではない。
力ではなく頭を使わないと解けないのが知恵の輪なのだ。

するとある一時、時雨は鎖を持つ自身の両手が急に軽くなる感覚がした。それとほぼ同時、「トン」という何かが軽くぶつかったような音が時雨の足元で鳴る。

時雨がそちら見た時、既に椎名の片手は地面についていた。

「解けた!」

一方の椎名は突然床に降りた自らの片手を眺め茫然と言った状態だ。
 
「待ってて片手もすぐに....」
(「外すから」)
しかし時雨はこの最後の一言を発することなく口を閉じなければならなくなった。
それは何かをためらった訳でも言うのが嫌になった訳でもない。

途中で他の声が聞こえたからだった。
「――――まさかここじゃないよな」
「本当にどこにおられるんだ?時雨様は」
それは少し前まで書物庫で聞こえていたのと同じ従者の声だ。

しばらくの間聞こえなかったので、時雨は従者が諦めて別の場所を探しに行ったものだとばかり思っていた。
しかしそれは全くの見当違いで、別の場所を探しに行ったどころか近くなっている。
 
そう遠くないうちにこの部屋に入ってくるであろう事は考えるまでもなく明白で、時雨は思わず息を呑んだ。

時雨は一瞬従者の声に混乱し周りが見えなくなりかけたが、何とかそうはならずに持ちこたえる。
まだ椎名の片手を解いていないのだ。
そして時雨は反対側の鎖まで駆け寄ると先程と同じ様に、形が違う鎖を見つけ手に持つ。
 
「――――時雨様!」
「時雨様ー!いらっしゃいますか」
その間も従者の声はものの数秒で段々と鮮明に大きいものになっていき、それに比例して時雨の手も震えだした。持つ鎖もそれに合わせて小刻みに揺れている。
 
(早く解かないと....早く、早く)
そんな事ばかり頭をめぐり、焦りが先をいっている状態の時雨は先程の知恵の輪をどう解いたのかよく分からなくなってしまった。
(左側を半分回して......右側を前に引く......)
(どうしよう....間違えてる?全然解けない...)
 
一度上手く行かなければ二度、また三度と何度も試みるが、知恵の輪型の鎖は一向に離れないばかりではなく、変な方向に回転したり、もとに戻らなくなったりと散々だ。
 
「なんで...解けないの......?」
時雨が絶望に近い声をつぶやいたその時だ。手元に深い影が落ちた。

それと時を同じくして「どうやるんだ?俺にも見せてくれ」という一言が時雨の耳に届く。
 
「椎名....?」
時雨は一瞬状況が分からなかった。
今まで両手を吊られ跪いていたはずの椎名が隣に立っていたからだ。
 
「ほら。お前が解いてくれただろ。片手」
椎名は言いながら解放された片手を小さく振って見せた。
椎名は片手が自由になったことで立てるようになっていたのだ。
時雨は自分で解いておいてその事をすっかり忘れていた。

「これが外れたら全部終わるんだな... ははっ夢だったりして、」
椎名は時雨の絶望感とは反対に何か期待をしているような口調でそう話す。
しかしそれに含まれるものは期待だけではなく、『夢だったりして』という言葉で駄目だった時の救い、逃げ道といったものを作っているのかもしれない。

時雨は椎名が何度か弱々しく見えたことがあるが、それを今回程感じたことはなかった。

それを今救うのは自分だという使命感のようなものを勝手に感じた時雨は再び手元へと視線を戻す。

一度小さく深呼吸をした時雨は、再度鎖を持ち直し知恵の輪の手順を一から始めた。
頭では書物を思い出しながら。手では解いた時の感覚を思い出しながら。

もう手は震えていない。
(今ならできるかも)そんな気がした時雨はさらにその手を早めた。

(左側を半分回転させて....二つの輪は正面から見て左右対称。....最後回転させていない右側を手前に.....)
「....!解けた...」

「よし光が見えたぞ、急げ。」
時雨の声から数秒、突然誰かがそう言った。
その誰かは時雨と椎名どちらでもない。

従者は牢獄部屋の明かりをとらえたようだ。

牢獄部屋までおそらくあと数歩の距離。
暗闇から明かりが差す場所を目指す従者の足音は加速する。



「....逃げるぞ」
足音を遮るかのように椎名はそう言うと同時に時雨の手を引いた。

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