一生の孤独とひきかえに

ショウブ

文字の大きさ
上 下
4 / 9

4-前

しおりを挟む
そう言って男の頬に触れる時雨の手はもう男から滴り落ちた赤色でほとんど染まってしまっている。
時雨は手に生暖かい血が落ちる度、体温を感じまだ男が死んでしまった訳ではないと無理やり自分を納得させた。

「ごほっ.....騒がしいな、今度は何だ?」
 
「......!」
先程まで死んだように動かなかった男は力ない咽び声と共に肩を揺らす。
その声を聞いた瞬間、時雨は目の前が少し明るくなったかのような錯覚を覚え、それと同時に体全体の緊張がほどけていくような感じがした。
時雨は今まで牢獄の前で膝をついて男と向かい合っていたものの、膝の力も抜けてしまい、数秒も経たないうちにその場に腰が降りた。
男に伸ばしていた片手もそれと同時に引っ込め、完全に脱力した状態だ。
 
「げほっ.....うまく隠れたか?」
もう一度咳込んだ男は、力なく下を向いたまま時雨に問いかけた。

「うん。しも...あの人たちはもう行った」
士門と言いかけて途中で止まった時雨は、『あの人達』と言い直す。
いつも、屋敷では『士門、士門』と常に頼っているので口が覚えてしまったらしい。
 
「痛って...ははっ....」
一方男はひどい拷問を終えた後だというのに笑っている。それが余裕と言えるものなのか時雨には分からなかった。

「げほっ....あー死にたくない」
しかし、時雨は男がその言葉を発した瞬間、余裕とは自分の思い違いだった事に気が付いた。
余裕があった訳では決してなく、男は笑う事で幾度となく自分を奮い立たせてきていたのかもしれない。そして最もの理由として、今も男が笑えるのは、『生きていたい』と思っているからだろう。
 
「何もできなかった....私はあなたに助けてもらったのに」
「ごめんなさい....」
本来なら今時雨が言った言葉は何よりも先に男に伝えなければいけない言葉だ。

しかし時雨は時雨で、あの時怖さに押しつぶされそうになっていた。
でもそれは目の前の男も同じ。男が死にたくないと思っているならば尚更の事だ。

「おいおいお前、また俺より深刻になってるだろ。ごほっ!げほっ....」
男は今にも笑いそうといった口調でそう返し、最後に咳込んだ。
男が言う『また』とは時雨が拷問にやってきた士門達に見つかりそうになり焦っていた時の事だろう。

「私は本当に悪い事をしたと思って.....それに今私の顔も見ていないのにそんな事分からないでしょ?」
時雨は真剣に言った事に対して、笑い話のように返され、少しむきになってそう言った。
屋敷の従者たちは、時雨に合わせて会話してくれる事がほとんどだった為、時雨は真剣に言った事に対して笑い話で返されるという経験があまりなかった。
それも相まって時雨は少しむきになってしまったのだ。
 
「いや、分かる。」
楽しそうにそう言った男はなぜか少し食い気味だ。

「じゃあどんな顔?」
一方時雨も男に負けまいと言い返す。

「んー美人?」
男の返答は一言だった。
男は顔を上げるのはつらいようで時雨の方を向くことはないが、今にも笑い出しそうな口調だ。
 
「そういう事じゃなくて!」
なにか言い返す準備をしていた時雨だったが、その続きの言葉は出てこない。
 
「ははっごめん。ごめん。」
時雨が黙ってしまうと、男は笑ってそう言った。


 それからしばし間が空いた後、口を開いたのは時雨だ。
「.....」
「....何でこんな事になったのかな...。」
それは時雨が男と会話している中で時折浮かぶ事だった。
普通に話す。普通に笑う。自分の事を差し置いて他人を助けられる。そんな男がどうして幽閉され、拷問まで受けているのか。時雨はふとそう思ったのだ。
 

「げほっ....はぁ、もうずっと昔の話だな」
時雨の言葉に男は拷問の後始めて顔を上げた。
どうにかというような様子で上げた顔は両頬が頭から流れる血で赤く染まっていて、拷問前までの鋭かった目も今は少しうつろだ。

しかし、男の双眸には僅かに光が揺れてる。それは何かをを思い出してのものなのだろうか。
時雨は男がなぜか弱々しく見えた。

そして同時にある事を思い出す。それは男が拷問の前に言っていた『昔話、暇つぶしに聞いて行けよ』という言葉だ。男の昔話とは自身に起こった出来事なのかもしれないと時雨は思った。

これについて時雨は問いかけようと口を開きかけたが、問いかける言葉が口から出る事はなく、そのまま口を噤む。

それは先に男の声が聞こえた為だ。
「ははっ....懐かしい」
下を向いたまま男はそっと言った。

  「あの時俺は...」
しおりを挟む

処理中です...