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「....拷問」
時雨は歴史書を拾い上げ、再び腕の中に抱え直しながら呟く。
歴史書に頻繁に登場する拷問は、残酷かつ苛酷なもので、中には作り話と分かって読んでいても、途中で閉じてしまいたくなるようなものもある。
そんなことが現実にあるという事実に時雨はその後の言葉が出てこなかった。
「....っごほっ...痛って....俺死にそうなんだけど」
男はおそらくまだ時雨が拷問に来た屋敷の役人と思っているのだろう。
「違う。私は間違えて入っただけ」
時雨は自分が黙るばかりで男の問いにまだ答えていなかった事に気が付いた。
一方時雨の言葉を聞いた男の方は何か言葉を発するでもなく、ある一点を見つめている。
時雨は視線の先をなんとなく追ってみたところ、瞳の黄色が捉えるのは自分だった。
男はどうやら時雨の手元を見ているようだ。
男の目線の先にある時雨の手は、ひとつの歴史書をしっかりと掴んでいる。
「...な何?」
「いや別に、」
まっすぐに歴史書を見る男は心ここにあらずといった感じで、時雨の問いには素っ気なく返す。
それからしばらくは歴史書を凝視していた男だが、ふと我に返ったようだ。
「それより、昔話暇つぶしに聞いて行けよ」
そして視線を時雨に向け直し男は何事もなかったような顔でそう言った。
「え、昔話....?」
あまりにも突然で、話の流れからしてもかなり逸れていると言わざるを得ない男の言葉が時雨はよく分からなかった。
あるとすれば男が突然言い出した『昔話』というのが、時雨が今持っている歴史書からきたということだ。
しかし、男が時雨のもつ書物を歴史書と分かるにはかなり目が良くない限り不可能だろう。
今の時雨と男の距離では、表紙の文字を読むことはできない。
書物の外観だけで歴史書と分かったのならば、それはこの歴史書を読んだことがあるか知っていたかのどちらかだ。
「これとなにか関係があるの?」
書物、しかも歴史書が関係しているとなれば黙っていられない時雨は、先を急ぐ気持ちをとりあえず頭の片隅に置いて男に問いかけた。
「どうかな。近くで見ないと何とも。」
「.....」
男の言葉を聞いた後時雨は少しずつ牢獄の鉄格子に近づいていく。
「このぐらいで見えるでしょ?」
時雨は牢獄の鉄格子と歩幅一歩分ぐらいの距離まで近づき足を止めた。
そして歴史書の両側を両手で持ち、男の方に表紙を向ける。
「いや。全然だな。俺怪我してるから目に血が入ってよく見えないんだよ」
「じゃあこれは?」
なぜこんなに近いのに見えないのかと時雨もやけになってきて、牢獄まであと一歩あった距離も詰めてしまった。
「さっきと変わらないな」
「分かった。これでいい?」
時雨はそういうと両手で持っていた歴史書を片手だけに持ち替え鉄格子の隙間から差し入れた。
男は目を見開き驚いたように、一瞬時雨を見たが、その視線はすぐに時雨の手に持たれている歴史書に注がれた。
「あぁ........これは.........」
「何回来ても汚ねぇ所だな、彷時様もこんなところを屋敷に隠すなんてな!ハハッ」
「.....?」
男が何か言いかけたその時時雨が先ほど通った通路から声が聞こえ男の声は遮られた。
そして時雨はそちらの方に視線を移す。
かなり大きな声で話しているようで時雨が居る位置からもその内容がはっきりと聞こえるほどだ。
そして時雨の父、彷時を『彷時様』と呼ぶのは東雲家の従者のもので間違いはないだろう。
時雨は『時雨様』、母の蜜月は『蜜月様』と名前に様をつけて呼ぶのがこの屋敷の従者の決まりだ。
「..屋敷の人だ.....どうしよう...」
屋敷の人間がここへ入ってくれば時雨が見つかることは決定事項だ。
そうなれば、勝手に牢獄部屋に入った事など母にすべて報告されるに違いない。
屋敷内では順番があり彷時、蜜月、時雨と優先順位が決まっている。
つまり、屋敷の従者達は、時雨に言われた事と反対の事を蜜月に言われたなら蜜月の方に従うといった具合だ。
この順番で行けば時雨の事をなんでも知っておきたい蜜月の意志が通される事になる。
時雨が言わないように懇願したところで意見が通ることはないのだ。
「あー昔話は後だな」
「お前なんでこれから拷問される俺より焦ってんの?」
「だってお母様に...どうしよう...」
時雨の頭の中は動かない表情とは裏腹に混乱状態で口から出る言葉はもう何を言っているのかすら分からない。
「.........」
「牢の後ろにすき間があったかもな。それ持って隠れてろ」
しばらく時雨の様子を伺っていた男は突然そう言った。
「ははっ....ごほっ....落ち着けって」
男は驚くことに時雨の混乱を見抜いているらしい。
表情が変わらない時雨は、体調を崩した時も何かを伝えるときも表情がないため本気として見てもらうことが出来ず不自由な思いをしていた。おまけに混乱すると言葉もちぐはぐになるので屋敷の従者も、『時雨様は美しいが難しい人』というなんとも微妙な評価を付けているのだ。そう裏で言われていたのを時雨は度々耳にしていた。
しかし男はなぜか時雨の混乱を感じとることができたらしい。
「う、うん。」
時雨は混乱の最中男の言葉が耳に入り、男が言う『牢の後ろの隙間』を目指し駆け出した。
時雨が男の言葉通り牢獄後ろの隙間を見つけ身を隠して数秒後その声は突然近くで聞こえてきた。
「おーい生きてるか―っと」
「お、生きてる生きてる。しぶといなお前、ハハッ」
どうやら東雲家の従者は時雨と男のいる牢獄部屋へと入ってきたらしい。
時雨はうっかり声を出してしまわないように片手で自らの口を押さえ、もう片方の手では、歴史書を抱えている。
こんな緊迫した状況に立ち会うことは生まれて初めてと言っても過言ではなく、時雨は歴史書を握る片手に手汗がにじむのを感じた。
「早く終わらせて戻りましょう。」
最初に入ってきた従者に引き続き少し遅れて入ってきた従者もそう言った。
「なんだよ東雲家でこんな機会なかなかないぞ、楽しもうぜ」
時雨のいる距離からも従者の会話は鮮明に聞こえている。
しかし、時雨はもうその時、会話の内容どころではなくなっていた。
『早く終わらせて戻りましょう』そう言った従者の声を時雨は知っていたからだ。
(士門?なんで....士門がここにいるの?)
その声の主は時雨の護衛、士門だったのだ。
時雨はその声を毎日のように聞いているので聞き間違うという事の方が難しかった。
護衛の士門は時雨が屋敷の中で一番頼りにしている人物だ。
士門も時雨ほどではないが、表情の起伏が他より少ない方で、時雨は勝手に仲間意識を持っていた。
それだというのに時雨より随分と立ち回りがうまく、屋敷の役人からも好かれていて、時雨はそれが少しうらやましい半面、士門に頼っている所があったのだ。
なにか困ったことがあれば相談し、それを士門は翌日には解決してくれていた。
すると突然鈍く高い音が時雨の耳に届いた。
士門のことを思い返していた時雨の意識も一瞬にしてそちらに向く。
時雨はその音を聞いているだけで体に鳥肌が立つのを感じた。
もう少し近くに行けば身震いしていたのではないかと思うほどで、音を言葉にするなら『キー』という不快を極める音だ。
隠れている時雨からは見ることが出来ないが、その音は男が入る牢獄が開けられたものだとすぐに予想がついた。
あの鉄格子が出す音以外ないだろう。
「あいつらはどこにいるんだ。」
その時突然として聞こえた声は先ほどまで時雨に話していた男のものだった。
しかしその声音は別人のようだ。
時雨は聞いているだけでまるで自分が睨まれているのかと勘違いしてしまうほど冷たいものに感じた。
「どこだ!生きているんだろ!」
「くっ....あ゛!」
男が叫ぶように言ったその瞬間、何かが派手にぶつかったような『ドン』という音と共に鎖が大きく揺れた音が牢獄部屋に響き渡った。
そしてその音とほぼ同時に発せられたのは、男の叫ぶような唸り声だ。
「ごほっ、、、!はぁげほっ!」
「俺が知るわけねぇ、だろ!」
今度は従者の方が怒鳴るような声を出した。
「ぐっ、、、!はっ、、あ゛」
痛々しい何かがぶつかるような音と鎖の揺れる音は連続していて止まることがない。
その音が響く度、男は苦しそうに声を上げる。
地獄すら思わせる音と声に、時雨は、手に力が入らなくなり口を塞ぐことすら忘れ、歴史書も手から滑らせてしまった。
時雨が歴史書を滑らせ出した音すらも男の声と、その度に出る音に消されてしまうほどだ。
(拷問...されてる)
聞こえてくる音だけで時雨は隠れている隙間から壁を隔てて行われている光景が目に浮かぶようだった。
(もうやめて!やめて!やめて!)
時雨は必死に心の中で叫ぶが、その音は酷くなる一方だ。
しばらくは痛めつける音が聞こえ、それに男が唸り声をあげるという状態が続いていたが それから数秒経つと、聞こえてくるのは従者が時々笑う声と痛めつけられそれを受け止める男の体が出す音、そしてその衝撃で出る鎖の音だけになった。
ある一時から男の声はぴたりと止んだのだ。
もういくら痛々しい音が響こうとも男の唸り声はもう聞こえてこない。
「ははっなんだよ!もう降参か!」
「おい!」
そう言った従者の声は大きさを増していてそれに合わせて痛ぶる音も大きくなる一方だ。
それを聞いていた時雨は男がされている事は理由もなしに振るわれる暴力だと思った。
罰を与える為や、罪を吐かせる為にする拷問などでは決してない。
理不尽なものだ。
「元より彼は動けません!それ以上はやめなさい」
そんな痛々しい音と、狂気にも近いような従者の声を遮ったのは士門の言葉だ。
士門の声の後、牢獄部屋は今までが嘘のように静まり返り、時雨が今物音を立てれば見つかってしまうほどになった。
「はぁ?!お前、俺と同期だろ?命令かよ、ハハッ時雨様の護衛ってだけで、ずいぶんと鼻が高いもんだな」
従者は士門のその言葉に心底嫌悪感を抱いたようで吐き捨てるような口調で言い放った。
「どうとでも思っていなさい。戻りましょう」
士門が冷たい口調でそう返した後、突然何かを開閉する音に時雨の肌には鳥肌が立った。
その音は時雨が最初に聞いた鉄格子を開ける音で、士門は従者を連れてここから離れようとしているらしい。
「おい、こいつ死んでねぇよな」
少しまずいといった様子でそう言った従者の声は先ほどとは対照的で、今気がついたかのような言い方だ。
(死んだ、、、、、)
その言葉に時雨は胸に穴をあけられたかのような気分になった。
「さあ。分かりません。死んでいるかもしれませんね。」
そんな男の問いにさらりと返した士門は「はぁ」とわざとらしくため息をついた。
時雨の位置からも聞こえたそのため息は時雨より近くにいる従者には十分すぎるほど聞こえていることだろう。
時雨は士門のことがよく分からなくなってしまっていた。
士門が自分と会話しているときに何を考えていたのか。困りごとを解決する最中何を思っていたのだろうか。
屋敷の皆に好かれ頼りがいのある士門という存在は何だったのだろうと、今は考えても考えても分かる気がしなかった。
「何とかしろよ!彷時様に何されるか分からねぇ!」
士門の一言に従者は声を荒らげそう言った。
「それなら最初からこんなことをしなければよかったでしょう?あなたは本当に救えない。」
士門はまたしても冷たい口調で言った後、牢獄を施錠しているのか、鉄と鉄が合わさるようなカチカチという音を牢獄部屋に数回響かせその音は止まった。
「おっおい!」
士門の嫌味な発言に乗る余裕はなく、従者は自分がもしや殺してしまったのではという、危機感で頭がいっぱいらしい。
その言葉を完全に無視しているかのように鳴り始めた早くもなく遅くもない一定に響く足音は士門のものだろう。
士門は早々にここから立ち去るようだ。
一方従者は、男の生死が気になって仕方がないようで、士門の後をついて歩く足音は聞こえない。
時雨は屋敷で暮らすうちに足音を聞き分けることが出来るようになっていた。
蜜月の足音、彷時の足音、それぞれに微妙な違いがあり、それはその人であればどんな時でもその音を出すものだ。
士門の足音は乱れることのない規則正しい音をしていて、時雨は一番見分けやすい足音だと思っていた。
そしてしばらくすると「おい!ちょっと待て」という声と共に士門の足音の中に、従者のものと思われる別の足音も加わる。
それから少し経った後、時雨は2人分の音が次第に遠くなっていくのが分かった。
「お前も責任取らされるぞ」、「死んでたらどうするんだ」などという声も聞こえるがその声も足音と同じく遠のいている。
ようやく足音も声も聞こえなくなり、時雨は牢獄の後ろから顔を出した。
辺りを一通り見回して誰も居ないことを確認すると、素早く牢獄の中の男の元へと駆け寄る。
しかし、時雨が駆け寄りその姿を見た時、牢獄の中に居るのは別人ではないかと思った。
最初、出会った時に着ていた着物もかなり傷んでいたが、今はその着物が赤く染まり、鎖で拘束された腕はつられたところから肩に向かって垂れ下がり今にも千切れてしまいそうだ。
力なく下げた顔は時雨の位置から表情こそ見えないものの、血が流れ出ていて滴る血が牢獄の床に血だまりを作っていた。
「あの人達、もういない。帰ったよ!」
「ねぇ死なないで...!」
時雨は自分がなぜこうも必死になっているのか理解できていなかったが、この光景を見るのが嫌で嫌で仕方がなかった。
「痛いの?どうして答えないの?」
そうつぶやいた時雨はもしかしたら今自分が泣いているのかもしれないと思った。
頬に伝う温かい何かは、自分の目からこぼれる感覚があった。
それはいつからなのか分からない。
隠れているときからなのかもしれないし、変わり果てた男を見た時からなのかもしれない。
しかし今はそんな事よりどうして声が聞こえないのか。それが時雨にとって一番重要だった。
「答えて!なんで!どうして何も言わないの」
時雨はそういうと、牢獄の鉄格子を片手で握り、もう片方の手を牢獄の中へ入れ男の頬に触れそうな距離までそのまま手を伸ばした。
その片手には、男の頬から濃い赤色が滴り落ち、先ほどまで歴史書を持っていた時雨の白い肌を染めていく。
慌てて飛び出した時雨は歴史書を牢獄の後ろにある隙間に落としたままだ。
しかし時雨はそれを思い出す余裕すらない。
男に伸ばした時雨の手は自分でもよく分かるほど震えている。
「私が止めれていたら...隠れていなかったらよかったの?」
続
時雨は歴史書を拾い上げ、再び腕の中に抱え直しながら呟く。
歴史書に頻繁に登場する拷問は、残酷かつ苛酷なもので、中には作り話と分かって読んでいても、途中で閉じてしまいたくなるようなものもある。
そんなことが現実にあるという事実に時雨はその後の言葉が出てこなかった。
「....っごほっ...痛って....俺死にそうなんだけど」
男はおそらくまだ時雨が拷問に来た屋敷の役人と思っているのだろう。
「違う。私は間違えて入っただけ」
時雨は自分が黙るばかりで男の問いにまだ答えていなかった事に気が付いた。
一方時雨の言葉を聞いた男の方は何か言葉を発するでもなく、ある一点を見つめている。
時雨は視線の先をなんとなく追ってみたところ、瞳の黄色が捉えるのは自分だった。
男はどうやら時雨の手元を見ているようだ。
男の目線の先にある時雨の手は、ひとつの歴史書をしっかりと掴んでいる。
「...な何?」
「いや別に、」
まっすぐに歴史書を見る男は心ここにあらずといった感じで、時雨の問いには素っ気なく返す。
それからしばらくは歴史書を凝視していた男だが、ふと我に返ったようだ。
「それより、昔話暇つぶしに聞いて行けよ」
そして視線を時雨に向け直し男は何事もなかったような顔でそう言った。
「え、昔話....?」
あまりにも突然で、話の流れからしてもかなり逸れていると言わざるを得ない男の言葉が時雨はよく分からなかった。
あるとすれば男が突然言い出した『昔話』というのが、時雨が今持っている歴史書からきたということだ。
しかし、男が時雨のもつ書物を歴史書と分かるにはかなり目が良くない限り不可能だろう。
今の時雨と男の距離では、表紙の文字を読むことはできない。
書物の外観だけで歴史書と分かったのならば、それはこの歴史書を読んだことがあるか知っていたかのどちらかだ。
「これとなにか関係があるの?」
書物、しかも歴史書が関係しているとなれば黙っていられない時雨は、先を急ぐ気持ちをとりあえず頭の片隅に置いて男に問いかけた。
「どうかな。近くで見ないと何とも。」
「.....」
男の言葉を聞いた後時雨は少しずつ牢獄の鉄格子に近づいていく。
「このぐらいで見えるでしょ?」
時雨は牢獄の鉄格子と歩幅一歩分ぐらいの距離まで近づき足を止めた。
そして歴史書の両側を両手で持ち、男の方に表紙を向ける。
「いや。全然だな。俺怪我してるから目に血が入ってよく見えないんだよ」
「じゃあこれは?」
なぜこんなに近いのに見えないのかと時雨もやけになってきて、牢獄まであと一歩あった距離も詰めてしまった。
「さっきと変わらないな」
「分かった。これでいい?」
時雨はそういうと両手で持っていた歴史書を片手だけに持ち替え鉄格子の隙間から差し入れた。
男は目を見開き驚いたように、一瞬時雨を見たが、その視線はすぐに時雨の手に持たれている歴史書に注がれた。
「あぁ........これは.........」
「何回来ても汚ねぇ所だな、彷時様もこんなところを屋敷に隠すなんてな!ハハッ」
「.....?」
男が何か言いかけたその時時雨が先ほど通った通路から声が聞こえ男の声は遮られた。
そして時雨はそちらの方に視線を移す。
かなり大きな声で話しているようで時雨が居る位置からもその内容がはっきりと聞こえるほどだ。
そして時雨の父、彷時を『彷時様』と呼ぶのは東雲家の従者のもので間違いはないだろう。
時雨は『時雨様』、母の蜜月は『蜜月様』と名前に様をつけて呼ぶのがこの屋敷の従者の決まりだ。
「..屋敷の人だ.....どうしよう...」
屋敷の人間がここへ入ってくれば時雨が見つかることは決定事項だ。
そうなれば、勝手に牢獄部屋に入った事など母にすべて報告されるに違いない。
屋敷内では順番があり彷時、蜜月、時雨と優先順位が決まっている。
つまり、屋敷の従者達は、時雨に言われた事と反対の事を蜜月に言われたなら蜜月の方に従うといった具合だ。
この順番で行けば時雨の事をなんでも知っておきたい蜜月の意志が通される事になる。
時雨が言わないように懇願したところで意見が通ることはないのだ。
「あー昔話は後だな」
「お前なんでこれから拷問される俺より焦ってんの?」
「だってお母様に...どうしよう...」
時雨の頭の中は動かない表情とは裏腹に混乱状態で口から出る言葉はもう何を言っているのかすら分からない。
「.........」
「牢の後ろにすき間があったかもな。それ持って隠れてろ」
しばらく時雨の様子を伺っていた男は突然そう言った。
「ははっ....ごほっ....落ち着けって」
男は驚くことに時雨の混乱を見抜いているらしい。
表情が変わらない時雨は、体調を崩した時も何かを伝えるときも表情がないため本気として見てもらうことが出来ず不自由な思いをしていた。おまけに混乱すると言葉もちぐはぐになるので屋敷の従者も、『時雨様は美しいが難しい人』というなんとも微妙な評価を付けているのだ。そう裏で言われていたのを時雨は度々耳にしていた。
しかし男はなぜか時雨の混乱を感じとることができたらしい。
「う、うん。」
時雨は混乱の最中男の言葉が耳に入り、男が言う『牢の後ろの隙間』を目指し駆け出した。
時雨が男の言葉通り牢獄後ろの隙間を見つけ身を隠して数秒後その声は突然近くで聞こえてきた。
「おーい生きてるか―っと」
「お、生きてる生きてる。しぶといなお前、ハハッ」
どうやら東雲家の従者は時雨と男のいる牢獄部屋へと入ってきたらしい。
時雨はうっかり声を出してしまわないように片手で自らの口を押さえ、もう片方の手では、歴史書を抱えている。
こんな緊迫した状況に立ち会うことは生まれて初めてと言っても過言ではなく、時雨は歴史書を握る片手に手汗がにじむのを感じた。
「早く終わらせて戻りましょう。」
最初に入ってきた従者に引き続き少し遅れて入ってきた従者もそう言った。
「なんだよ東雲家でこんな機会なかなかないぞ、楽しもうぜ」
時雨のいる距離からも従者の会話は鮮明に聞こえている。
しかし、時雨はもうその時、会話の内容どころではなくなっていた。
『早く終わらせて戻りましょう』そう言った従者の声を時雨は知っていたからだ。
(士門?なんで....士門がここにいるの?)
その声の主は時雨の護衛、士門だったのだ。
時雨はその声を毎日のように聞いているので聞き間違うという事の方が難しかった。
護衛の士門は時雨が屋敷の中で一番頼りにしている人物だ。
士門も時雨ほどではないが、表情の起伏が他より少ない方で、時雨は勝手に仲間意識を持っていた。
それだというのに時雨より随分と立ち回りがうまく、屋敷の役人からも好かれていて、時雨はそれが少しうらやましい半面、士門に頼っている所があったのだ。
なにか困ったことがあれば相談し、それを士門は翌日には解決してくれていた。
すると突然鈍く高い音が時雨の耳に届いた。
士門のことを思い返していた時雨の意識も一瞬にしてそちらに向く。
時雨はその音を聞いているだけで体に鳥肌が立つのを感じた。
もう少し近くに行けば身震いしていたのではないかと思うほどで、音を言葉にするなら『キー』という不快を極める音だ。
隠れている時雨からは見ることが出来ないが、その音は男が入る牢獄が開けられたものだとすぐに予想がついた。
あの鉄格子が出す音以外ないだろう。
「あいつらはどこにいるんだ。」
その時突然として聞こえた声は先ほどまで時雨に話していた男のものだった。
しかしその声音は別人のようだ。
時雨は聞いているだけでまるで自分が睨まれているのかと勘違いしてしまうほど冷たいものに感じた。
「どこだ!生きているんだろ!」
「くっ....あ゛!」
男が叫ぶように言ったその瞬間、何かが派手にぶつかったような『ドン』という音と共に鎖が大きく揺れた音が牢獄部屋に響き渡った。
そしてその音とほぼ同時に発せられたのは、男の叫ぶような唸り声だ。
「ごほっ、、、!はぁげほっ!」
「俺が知るわけねぇ、だろ!」
今度は従者の方が怒鳴るような声を出した。
「ぐっ、、、!はっ、、あ゛」
痛々しい何かがぶつかるような音と鎖の揺れる音は連続していて止まることがない。
その音が響く度、男は苦しそうに声を上げる。
地獄すら思わせる音と声に、時雨は、手に力が入らなくなり口を塞ぐことすら忘れ、歴史書も手から滑らせてしまった。
時雨が歴史書を滑らせ出した音すらも男の声と、その度に出る音に消されてしまうほどだ。
(拷問...されてる)
聞こえてくる音だけで時雨は隠れている隙間から壁を隔てて行われている光景が目に浮かぶようだった。
(もうやめて!やめて!やめて!)
時雨は必死に心の中で叫ぶが、その音は酷くなる一方だ。
しばらくは痛めつける音が聞こえ、それに男が唸り声をあげるという状態が続いていたが それから数秒経つと、聞こえてくるのは従者が時々笑う声と痛めつけられそれを受け止める男の体が出す音、そしてその衝撃で出る鎖の音だけになった。
ある一時から男の声はぴたりと止んだのだ。
もういくら痛々しい音が響こうとも男の唸り声はもう聞こえてこない。
「ははっなんだよ!もう降参か!」
「おい!」
そう言った従者の声は大きさを増していてそれに合わせて痛ぶる音も大きくなる一方だ。
それを聞いていた時雨は男がされている事は理由もなしに振るわれる暴力だと思った。
罰を与える為や、罪を吐かせる為にする拷問などでは決してない。
理不尽なものだ。
「元より彼は動けません!それ以上はやめなさい」
そんな痛々しい音と、狂気にも近いような従者の声を遮ったのは士門の言葉だ。
士門の声の後、牢獄部屋は今までが嘘のように静まり返り、時雨が今物音を立てれば見つかってしまうほどになった。
「はぁ?!お前、俺と同期だろ?命令かよ、ハハッ時雨様の護衛ってだけで、ずいぶんと鼻が高いもんだな」
従者は士門のその言葉に心底嫌悪感を抱いたようで吐き捨てるような口調で言い放った。
「どうとでも思っていなさい。戻りましょう」
士門が冷たい口調でそう返した後、突然何かを開閉する音に時雨の肌には鳥肌が立った。
その音は時雨が最初に聞いた鉄格子を開ける音で、士門は従者を連れてここから離れようとしているらしい。
「おい、こいつ死んでねぇよな」
少しまずいといった様子でそう言った従者の声は先ほどとは対照的で、今気がついたかのような言い方だ。
(死んだ、、、、、)
その言葉に時雨は胸に穴をあけられたかのような気分になった。
「さあ。分かりません。死んでいるかもしれませんね。」
そんな男の問いにさらりと返した士門は「はぁ」とわざとらしくため息をついた。
時雨の位置からも聞こえたそのため息は時雨より近くにいる従者には十分すぎるほど聞こえていることだろう。
時雨は士門のことがよく分からなくなってしまっていた。
士門が自分と会話しているときに何を考えていたのか。困りごとを解決する最中何を思っていたのだろうか。
屋敷の皆に好かれ頼りがいのある士門という存在は何だったのだろうと、今は考えても考えても分かる気がしなかった。
「何とかしろよ!彷時様に何されるか分からねぇ!」
士門の一言に従者は声を荒らげそう言った。
「それなら最初からこんなことをしなければよかったでしょう?あなたは本当に救えない。」
士門はまたしても冷たい口調で言った後、牢獄を施錠しているのか、鉄と鉄が合わさるようなカチカチという音を牢獄部屋に数回響かせその音は止まった。
「おっおい!」
士門の嫌味な発言に乗る余裕はなく、従者は自分がもしや殺してしまったのではという、危機感で頭がいっぱいらしい。
その言葉を完全に無視しているかのように鳴り始めた早くもなく遅くもない一定に響く足音は士門のものだろう。
士門は早々にここから立ち去るようだ。
一方従者は、男の生死が気になって仕方がないようで、士門の後をついて歩く足音は聞こえない。
時雨は屋敷で暮らすうちに足音を聞き分けることが出来るようになっていた。
蜜月の足音、彷時の足音、それぞれに微妙な違いがあり、それはその人であればどんな時でもその音を出すものだ。
士門の足音は乱れることのない規則正しい音をしていて、時雨は一番見分けやすい足音だと思っていた。
そしてしばらくすると「おい!ちょっと待て」という声と共に士門の足音の中に、従者のものと思われる別の足音も加わる。
それから少し経った後、時雨は2人分の音が次第に遠くなっていくのが分かった。
「お前も責任取らされるぞ」、「死んでたらどうするんだ」などという声も聞こえるがその声も足音と同じく遠のいている。
ようやく足音も声も聞こえなくなり、時雨は牢獄の後ろから顔を出した。
辺りを一通り見回して誰も居ないことを確認すると、素早く牢獄の中の男の元へと駆け寄る。
しかし、時雨が駆け寄りその姿を見た時、牢獄の中に居るのは別人ではないかと思った。
最初、出会った時に着ていた着物もかなり傷んでいたが、今はその着物が赤く染まり、鎖で拘束された腕はつられたところから肩に向かって垂れ下がり今にも千切れてしまいそうだ。
力なく下げた顔は時雨の位置から表情こそ見えないものの、血が流れ出ていて滴る血が牢獄の床に血だまりを作っていた。
「あの人達、もういない。帰ったよ!」
「ねぇ死なないで...!」
時雨は自分がなぜこうも必死になっているのか理解できていなかったが、この光景を見るのが嫌で嫌で仕方がなかった。
「痛いの?どうして答えないの?」
そうつぶやいた時雨はもしかしたら今自分が泣いているのかもしれないと思った。
頬に伝う温かい何かは、自分の目からこぼれる感覚があった。
それはいつからなのか分からない。
隠れているときからなのかもしれないし、変わり果てた男を見た時からなのかもしれない。
しかし今はそんな事よりどうして声が聞こえないのか。それが時雨にとって一番重要だった。
「答えて!なんで!どうして何も言わないの」
時雨はそういうと、牢獄の鉄格子を片手で握り、もう片方の手を牢獄の中へ入れ男の頬に触れそうな距離までそのまま手を伸ばした。
その片手には、男の頬から濃い赤色が滴り落ち、先ほどまで歴史書を持っていた時雨の白い肌を染めていく。
慌てて飛び出した時雨は歴史書を牢獄の後ろにある隙間に落としたままだ。
しかし時雨はそれを思い出す余裕すらない。
男に伸ばした時雨の手は自分でもよく分かるほど震えている。
「私が止めれていたら...隠れていなかったらよかったの?」
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トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
土地神になった少年の話【完結】
米派
BL
十五になったら土地神様にお仕えするのだと言われていた。けれど、土地神様にお仕えするために殺されたのに、そこには既に神はいなくなっていた。このままでは山が死に、麓にある村は飢饉に見舞われるだろう。――俺は土地神になることにした。
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