一生の孤独とひきかえに

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「おはようございます!時雨様!」
深く頭を下げた後、素早く背筋を伸ばし青年は時雨に満面の笑みを向け挨拶をした。
 
「おはよ」
一方、青年の方を向きそう返した時雨は青年とは対照的に表情を動かすことなく答える。
 
「では俺は持ち場に行きます!」
その時雨の素っ気ないとも言える返事に大満足の笑顔を見せた青年はまるでご機嫌な子供のように屋敷の長い廊下を駆け出す。
時雨は返事を返そうと口を開きかけたが、もうその時には青年の背中は見えなくなっていた。
 
その青年の後にも次々と時雨に向けて朝の挨拶は聞こえてくる。
「おはようございます」、「よい一日をお過ごしください」と皆一言告げ、丁寧に頭を下げそれぞれの方向へ廊下を歩いていく。
 
東雲時雨しののめしぐれはこの屋敷、東雲家の長男として生まれた。
今年で二十二だというのに時雨しぐれに跡継ぎや縁談などの話は一向に訪れず、驚くことに生まれてから今まで屋敷からは一歩も外に出たことがなかった。
もはや跡継ぎ云々といった話は屋敷から出たことのない時雨にとっては想像もできるはずのない話だ。

その原因は時雨の母、東雲蜜月しののめみつきにある。
時雨は生まれながらにして並外れた容姿を持っていた。
成長するにつれそれはさらに顕著に現れ、時雨と顔を合わせた者は息を呑むほどだ。

そんな息子を母、蜜月みつきはかわいがるあまり、屋敷の外へ出すことを恐れている。
最初はそれだけであったが、母の息子への執着は成長と共に増していく一方だった。

容姿、振る舞い、衣服に至るまで自分が決めたことを強要し、今や時雨は母の動く人形のようになってしまっていた。

しかしそれが日常。
時雨は、生まれてから今までの人生を母の言いつけ通りに過ごしてきた為、それらを疑問に思うことはなかった。
自分の母がおかしいことに気が付かないのだ。
 
そしていつからか、時雨は表情を失ってしまった。
 
「はぁ」
表情筋が動かなくなってしまった自らの頬を両手で触れながら時雨は小さくため息をついた。
毎朝毎朝、丁寧なあいさつをしてくれる屋敷の従者たちにせめて笑顔で「おはよう」と言えたらと何度も思っている時雨だが、この状態ではいつになってもそれは叶いそうにない。
 
今日も変わらず東雲家の屋敷で一日を始め一日を終える時雨は、毎日の日課であり唯一の楽しみである読書をするため、書物庫へと足を運んでいる途中だ。
 
東雲家の屋敷は、かなりの広さがあり屋敷の中を一周するだけで息が上がる。

屋敷の中心部に位置する長い廊下は左右に枝分かれしており、分かれた右側の廊下をさらに進むと書物庫にたどり着いた。
年季の入った重い鉄製の扉を押すと扉は鈍い音を立てながら前に押し出ていき、双方の扉に空いたすき間からはいつもの風景が見えてくる。
人一人分の隙間を開けた時雨は中に入り、また扉を両手で押し鉄の扉を閉めた。
 
「疲れた、、、」
屋敷の中を少し移動するだけの体力のない体には、鉄の扉を開けて閉めるという動作さえも過酷な運動だ。
一連の運動を終えた時雨は、閉めた扉を背にため息をついた。
 
書物庫の内装は、時雨の父、東雲彷時しののめほうときがかなりこだわって作ったものらしく、壁一面の上品な朱色は、漆器を思わせるものだ。

東雲家の書物庫には、たくさんの書物や本が並んでいて、童謡から、歴史書物、数式本や歌詠集に至るまでありとあらゆる書物がそろっていた。


その中でも時雨は歴史書が好きだ。
歴史書を見ていると自分が違う世界に居るような気になれた。
悲惨な出来事や、時には歓喜に湧いた出来事などひとつひとつの物語が生き生きとしているからだ。
 
しかし、それらを時雨は歴史書とは名だけの御伽話おとぎばなしだと思っている。
誰かが都合のいいように作り上げた話だと。
屋敷の中で生きてきた時雨にとっての現実、日常と言ったものとあまりにかけ離れている話ばかりなのだ。
 
東雲家の書物庫はニ階に分かれていて、一階は、数式本や童謡などが多く、ニ階に行くと歴史書物や歌詠集などが多く並んでいる。
時雨は歴史書を読むためニ階に上がる階段へと足を進めた。

十段ほどの緩やかな階段を登った先には時雨二人分ほどの高さの本棚が二十ほど並ぶ。
時雨の身長は特別低い訳ではなく、屋敷に仕える同年代の従者と差はない程度だ。
そんな時雨二人分の本棚が二十も並べば誰でもこの景色に圧倒されるだろう。

一つの本棚の本を読むだけでも、おそらくひと月ほどはかかるだろうが、時雨は書物庫の歴史書をほとんど読んでしまっていた。
そして驚くことに、内容を全部覚えている。
復唱できるほどではないが、書物の表紙を見れば内容を話せるほどには。
 
「確かこのあたりに、、」
時雨は読んだことのない歴史書を昨日一冊見つけていたため、翌日の楽しみに取っておくことにしていたのだ。
その本棚は階段の一番近くから数えて三つ目の本棚にある歴史書だ。
本棚の一番下にあった比較的新しく見える赤色の表紙をした書物で、実際のところ新しいかどうかは時雨には分からないが、他の書物より色褪せや黄ばみといったものが見られなかった。見た目から察するにこれらの歴史書の中でも最近本棚に入れられたものである可能性が高い。
 
「あれ、、、?ない」
しかし昨日目を付けていた歴史書は同じ場所を探しても見当たらない。
もしもの可能性を考え、ニ段目、三段目と本棚を探してみたがその書物を見つけることはできなかった。

(昨日読んでおけばよかった....)
時雨は昨日、自分のした選択を心底悔やんだ。
この数の中から目当ての歴史書をまた一から見つけるとなるとひと月ふた月で済む話ではなくなってしまう。
諦めて読んだことのある歴史書を読もうと本棚を見渡すが、あわよくば、あの歴史書を見つけてやろうという気持ちがどこかにあり、なかなか読む歴史書を決めることが出来ない。
 
時雨は未だに階段から三つ目の本棚を見渡している。

そして、ちょうど四段目に目を向けた時だった。
 
「ごほっ、、!げほっ!」
突然誰かの苦しそうな咽び声が時雨の耳に入った。
屋敷の書物庫は毎日貸し切り状態で、時雨以外ほとんど誰も足を運ぶことはない。

しかし、その声は明らかに書物庫から聞こえ、それもおそらくこのニ階、時雨が居る位置の左側から聞こえたように感じて、咄嗟にその方向へと視線を移す。

視線の先にあるのは、時雨の父、彷時がこだわって作った一面朱色の壁だけ。
扉があるわけでもその先に通路があるわけでもない。

(でも、確かにあそこから声が聞こえた...)

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