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第五章 日々鍛錬 -ひびたんれん-

23 聞いたような、聞いてないような

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 既視感。初めて経験した事なのに、なぜか覚えている気がする。そんな意味の言葉である。

 朱雀と眞代子さんが僕の吐瀉物を掃除する間、僕は部屋の隅で横になっていた。「もう少しだけでも召し上がりませんか?」と言われても、とても食べられる気がしない。「無理にでも御召し上がりに……」朱雀が勧めるのを、食事中、ずっと近くで祝詞を読み上げていた青龍さんが制止した。本当は文字を読みながら覚えるものだけど、時間の節約。耳コピである。少し懐かしそうな目を向けて、青龍さんは続ける。
「思い出すね、先代のことを」
「そう……ですわね」
「先代?」
「ああ。朱雀の名は代々継がれているという話、しなかったかい?」
「聞いたような、聞いてないような……?」
「朱雀、青龍、白虎、玄武。手前どもヤタガラスは、四つの部門に分かれていてね。それぞれに役割があり、各隊の長がその名を受け継ぐんだ」
「先代って……朱雀の前の朱雀隊の長? それとも青龍隊の?」
「朱雀だよ。先代朱雀。残された時間が少ない中、彼も必死で吐きながら食べていたよ」
「そう……つい昨日のことのようですわ。あの先代を見るのは、本当に苦しくて胸が張り裂ける思いでした。何度も何度も嘔吐して、それでも泣きながら御食事をなさって……」
 今の僕と同じか。時間に追われて何かをしなければいけないのは、とても大変で、辛いものだ。分かる、分かるぞ。先代朱雀さんが何のために、そんな苦労をしていたのかは知らないけど、今の僕にだって譲れないものがある。

―――栞奈のために!

 一休みした僕は、今度は祝詞の書かれた教本を見ながら、青龍さんの後に続いて音読。まずは発音から完璧に覚える。数百種類ある祝詞のうち数種類を頭に叩き込む。全く聞いた事のない言語、発音。ただひたすらに反復練習。

「ここは、ノの部分を強く発音するんだ」
「ここの発音は頭の部分。意識して大きく」
「カンマン、だよ。アンマンじゃないからね!」

 十分な睡眠も必要という事で、朱雀がいつもの音階を奏でる。今までしてくれたように膝の上へ、と誘うのを、僕は断固として拒絶した。あの柔らかくて暖かい感触は、忘れられるものではない。甘えたい気持ちが僕の中で渦巻いた。だけど、僕は……記憶を取り戻した僕は、栞奈への思いでいっぱいだ。朱雀に、朱雀さんに甘えるのは、僕はイケナイ事だと思う。栞奈への裏切りだと思う。少し前まで、朱雀さんの肌の温もりを全身で堪能していた僕が言えた話ではないと思うけど。あれはしょうがないじゃないか! 記憶を失っていたんだから! でも今は違う。

「どうして甘えて下さらないのです」
 気のせいだろうか。朱雀さんの表情は、どこか悲しげだ。
「私の膝は、耕作様のためだけにありますのに……」

 そんなわけないだろう。僕にだって分かる。これは僕が甘えやすいように、僕の気持ちを慮って言ってくれている言葉だって。本心ではない。本当は、僕みたいなブタ野郎を膝に乗せてナデナデする、僕にお尻や胸を撫で回される、ましてや僕みたいなブタと枕を共にするなんて、誰だって嫌に決まっている。キモくて、やりたくもないのに! 本心では嫌がっているのに! 表情に出さず笑えるものなんだ。女性というのは! 栞奈も……そうだったんだ……

「耕作様。泣いて、いらっしゃるのですか?」
 違う! 泣いてなんかない!
「御可哀想に……耕作様が首を縦に振って下さるなら、この胸に抱きしめて差し上げますのに……」
 ダメだ。甘えちゃいけない。涙でぼやける視界。朱雀さんに背を向け、ふと見た視線の先には、青龍さんがいた。こういう時、いつもは鋭い目つきで僕を見ている青龍さんだけど。今日は視界が霞んでいるせいだろうか? どこか優しく、心配しているような表情に見えた。きっと僕の心境が、そう感じさせているのだろう。

「アーアーアー、アアアー、アーアー……」
 背中越しに朱雀さんの声が響く。今日は疲れた。ただ、ゆっくり休みたい。

「アーアアアー、アアアーアアー……」
 今聞いても心地よい。疲れていても、悩んでいても。心がどんなに傷ついていても。こうやって朱雀さんが、僕を癒してくれていたんだ……

 だけど僕は思い出したんだ。僕の一生は、栞奈のためだけにあったんだって。栞奈がどう思っているかなんて関係ない。僕がそうしたいんだ。記憶を取り戻した今、後悔と栞奈への懺悔、そして僕のために身を捧げてくれた朱雀さんへの感謝しかない。あの時の僕を支え、立ち上がらせてくれたのは朱雀さんだ。朱雀さんの献身があったから立ち直れたんだ。もし朱雀さんがいなければ、きっと今の僕はない。それを言い訳にして良いとは思っていない。許されるとも思わない。だけど栞奈への思いは変わらない。だからこそ、僕はこれから栞奈のためだけに生きる。それが僕に出来る、唯一の栞奈への贖罪だ。朱雀さんの歌声、音階を聞いているうちに、僕はまた深く眠りに就いた……


「ああ、愛しい御人……」
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