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仄暗い景色に視界は慣れず、千乃は刮目しようと手を動かそうとした。だが、その手の自由が効かないことに気づき、薄闇の中を懸命に目を凝らすと、足首も同じように縛られているのが目に入った。
「……どうし……て。ここはどこ、柊さんは——」
朧げな記憶を手繰り寄せ、千乃は柊と一緒にスペイン料理を堪能していたことを思い出した。
「そうだ……柊さんに誘われて——パエリア食べに店に入って、それから——サングリアが甘くて美味しくて……その先は……」
酒を飲んだ記憶もないのに、頭が割れるように痛い。左右に何度か頭を振ってみても、途中からの記憶は全く思い出されなかった。
辺りを取り巻く暗晦な景色に目を凝らすと、次第に目が慣れ、閉ざされた空間の天井が異様に高い事に気付く。その高さは五メートルほどあるように見え、漂う空気は冷えきってカビと埃が異臭を放っていた。
今いる場所より外の方がまだ温かいかも知れない。それほど千乃がいる場所は冷たく凍てついていた。
「と……とにかくどうにかして外へ出ないと……」
手足を縛る結束バンドは頑丈で、手首に至っては後ろ手に拘束されているため、力を入れてもがいても微動だにしない。
何か道具でもあれば——。
千乃は馴染んできた目で部屋の中を注視した。
部屋の隅には、埃まみれの潰れた段ボールが数個積まれていた。
中央にある柱に目をやると、側にある古びた麻縄が地面でトグロを巻く蛇に見え、千乃の心臓は一瞬凍りついてしまった。
縄が擬態で蛇に見えるなんてどうかしていると、今自分の置かれている状況に、一層愕然としてしまった。
「……どうしよう——あっ、俺のカバン、スマホ——どこだ……」
辺りを探したものの、ささやかな希望は直ぐに敗れ、私物は部屋のどこにも存在しなかった。
——やっぱあるわけない……か。
わかってはいたが、そこに縋るしか思い浮かばなかった。
千乃は深く深呼吸をし、冷静になるよう自分に言い聞かせた。
何度か繰り返すうちに、ささやかな明かりが部屋の一部分をクリアに見せているのに気付く。
灯る日差しが高い天井から得た太陽の欠片だと気付くと、自然とその光に吸い寄せられるよう、体を捩らせながら移動してみた。
僅かな日差しに照らされて煌めき舞う埃が、少しの安堵を与えてくれたが、それは一瞬のことで、不明瞭な現状はあらゆる妄想を引き出して恐怖心を植え付けてきた。
「誰かっ! 誰かいませんか!」
咄嗟に叫んではみたが、声が反響するだけで状況は変わらない。焦る気持ちのまま差し込む一縷の光を辿り、今度は出口らしい扉まで這うよう近づいてみる。だが引き戸になっている強固な扉は隙間なく閉ざされ、千乃の不自由な体では開けることが不可能だった。
「真希人……さん」
真っ先に思い出した顔と名前。呟いただけで泣きそうになる。
ここがどこかもわからない状況で、名前を呼んでも無駄なことだ。
今までもひとりで何とかしてきたんだ、この状況も自力で何とかしなければ……。
「とにかくここから出ないと……」
千乃は自分を鼓舞し、入り口の扉を蹴破れないかと考えた。
氷のように冷えた地面に横たわると、拘束された両足で扉を蹴ってみた。背中側にある両腕が砂利と埃で擦れ、かなり痛い。
細かな傷に耐えながら、何度も何度も扉を蹴った。
「くそっ、ビクともしない」
一枚ものの頑丈な扉は頑なに動かず、千乃の体力だけが消耗して吐く息の回数が増すばかりだった。
いつしか足は根を上げ、扉からずるりと落下させて地面に投げ出した。
上半身を壁にもたれさせると、落胆する虹彩は遠くて高い場所にある小さな窓を見上げていた。
冷えた体とは反対に、こめかみを伝う汗の感触を感じる。動いた汗なのか、恐怖からの冷や汗か。
千乃は唇を噛み締め、ぼんやりと明かりがさす場所を見つめていた。
誰が自分をこんな場所に監禁したのか、千乃は見えない相手に怒りが湧いた。
「くそっ! ここから出せっ」
なけなしの力で声を張り上げた時、外から金属音が聞こえると重い引き戸がごとりと少しの隙間を作った。
——誰か……来る——。
壁に体を預けていた千乃は反射的に、身を捩らせると、食い入るように扉を凝視した。
重そうに鈍い動きをする扉が徐々に開かれ、外の景色がゆっくりと千乃の目に映り込んでくる。そこに人ひとり通れるスペースが生まれると、差し込んで来る足が見えた。
部屋の中に全ての体が入ったことがわかると一気に緊張が増し、輪郭が一歩一歩と近づいて来る度に、千乃の心拍数も上昇していった。
正体を確認しようと目を凝らし、瞬きもせず見続けていると、逆光で背に光を浴びた人物との距離が縮まった。
「ユキちゃん、起きたんだ」
記憶にある呼び方と声に千乃の顔は蒼ざめ、目の前までやってきた相手を恐る恐る見上げた。
「柊さん……」
全貌が明らかになり、視線の先にいた柊を前に千乃は眸を限界まで見開かせた。
ゆるりと佇む彼の表情は、一緒に食事をした時と何ら変わらない微笑みに見える。だが見下ろしてくる異常な目付きに脅威を感じ、千乃の中に嫌な予感が込み上がってきた。
「もう、いくら誰もいないからって、大声出して暴れ過ぎだよユキちゃん。この蔵戸は欅で出来てるから、君の華奢な足で蹴ったところで簡単には壊れないよ」
「ど、どうして……。柊さんが俺をここに閉じ込めたんですかっ」
「そうだよ」
悪びれた様子もなく、平然とした顔で答える柊を前に、千乃はつま先に力を入れ、体を引き摺りながら後退りをしようとする。だが、震えた足に力は入らず、おまけに砂利で足裏を滑らせ、じわじわ近付く柊との距離は縮まるばかりだった。
「しゅ……柊さん、どうして。どうしてこんなことするんですか」
「どうして? そんなの簡単だよ、ユキちゃんを殺すためだよ」
軽口を言うように返答する柊の口元に歪な笑みを見つけ、千乃はこの現状を飲み込めず、ただ身体を震わせていた。
「あはは、震えてるね。怖い? 怖いよなー。でもいいじゃん、今まで裕福で幸せに暮らしてきたんだろ? 豪華な仁杉の家でさ」
「な、何を言ってるんですか。裕福って何のこ——」
「その態度。いい加減、煩いよユキちゃん。俺を苛立たせないでよ」
柊が吐き出す言葉の意味が分からず、思考力は恐怖で追いついて来ない。
怯える千乃をよそに、外からの日差しで、視認性の上がった部屋を柊がゆっくりと見渡している。
「ここは変わらないね。相変わらず埃まみれだ——」
小さく呟く柊に、拘束された手首を解かれ、千乃の両腕は胸の前へと移動させられた。一瞬の解放感からほっとしたのも束の間、両手首には再び結束バンドが巻かれてしまった。
「後ろ手だと水も飲めないもんね。これなら飲めるっしょ」
水の入ったペットボトルを地面に置き、千乃に背を向け柊が部屋を出て行こうとする。
「待って! 待ってください! 理由を——何で俺を殺すのか、理由を教えてください!」
なけなしの勇気を奮い立たせ、千乃は去って行こうとする背中に投げかけた。その声に足がほんの少し反応したものの、振り返ることはなく蔵戸は閉められ、再び千乃の周りは薄闇に制圧されてしまった。
「……どうし……て。ここはどこ、柊さんは——」
朧げな記憶を手繰り寄せ、千乃は柊と一緒にスペイン料理を堪能していたことを思い出した。
「そうだ……柊さんに誘われて——パエリア食べに店に入って、それから——サングリアが甘くて美味しくて……その先は……」
酒を飲んだ記憶もないのに、頭が割れるように痛い。左右に何度か頭を振ってみても、途中からの記憶は全く思い出されなかった。
辺りを取り巻く暗晦な景色に目を凝らすと、次第に目が慣れ、閉ざされた空間の天井が異様に高い事に気付く。その高さは五メートルほどあるように見え、漂う空気は冷えきってカビと埃が異臭を放っていた。
今いる場所より外の方がまだ温かいかも知れない。それほど千乃がいる場所は冷たく凍てついていた。
「と……とにかくどうにかして外へ出ないと……」
手足を縛る結束バンドは頑丈で、手首に至っては後ろ手に拘束されているため、力を入れてもがいても微動だにしない。
何か道具でもあれば——。
千乃は馴染んできた目で部屋の中を注視した。
部屋の隅には、埃まみれの潰れた段ボールが数個積まれていた。
中央にある柱に目をやると、側にある古びた麻縄が地面でトグロを巻く蛇に見え、千乃の心臓は一瞬凍りついてしまった。
縄が擬態で蛇に見えるなんてどうかしていると、今自分の置かれている状況に、一層愕然としてしまった。
「……どうしよう——あっ、俺のカバン、スマホ——どこだ……」
辺りを探したものの、ささやかな希望は直ぐに敗れ、私物は部屋のどこにも存在しなかった。
——やっぱあるわけない……か。
わかってはいたが、そこに縋るしか思い浮かばなかった。
千乃は深く深呼吸をし、冷静になるよう自分に言い聞かせた。
何度か繰り返すうちに、ささやかな明かりが部屋の一部分をクリアに見せているのに気付く。
灯る日差しが高い天井から得た太陽の欠片だと気付くと、自然とその光に吸い寄せられるよう、体を捩らせながら移動してみた。
僅かな日差しに照らされて煌めき舞う埃が、少しの安堵を与えてくれたが、それは一瞬のことで、不明瞭な現状はあらゆる妄想を引き出して恐怖心を植え付けてきた。
「誰かっ! 誰かいませんか!」
咄嗟に叫んではみたが、声が反響するだけで状況は変わらない。焦る気持ちのまま差し込む一縷の光を辿り、今度は出口らしい扉まで這うよう近づいてみる。だが引き戸になっている強固な扉は隙間なく閉ざされ、千乃の不自由な体では開けることが不可能だった。
「真希人……さん」
真っ先に思い出した顔と名前。呟いただけで泣きそうになる。
ここがどこかもわからない状況で、名前を呼んでも無駄なことだ。
今までもひとりで何とかしてきたんだ、この状況も自力で何とかしなければ……。
「とにかくここから出ないと……」
千乃は自分を鼓舞し、入り口の扉を蹴破れないかと考えた。
氷のように冷えた地面に横たわると、拘束された両足で扉を蹴ってみた。背中側にある両腕が砂利と埃で擦れ、かなり痛い。
細かな傷に耐えながら、何度も何度も扉を蹴った。
「くそっ、ビクともしない」
一枚ものの頑丈な扉は頑なに動かず、千乃の体力だけが消耗して吐く息の回数が増すばかりだった。
いつしか足は根を上げ、扉からずるりと落下させて地面に投げ出した。
上半身を壁にもたれさせると、落胆する虹彩は遠くて高い場所にある小さな窓を見上げていた。
冷えた体とは反対に、こめかみを伝う汗の感触を感じる。動いた汗なのか、恐怖からの冷や汗か。
千乃は唇を噛み締め、ぼんやりと明かりがさす場所を見つめていた。
誰が自分をこんな場所に監禁したのか、千乃は見えない相手に怒りが湧いた。
「くそっ! ここから出せっ」
なけなしの力で声を張り上げた時、外から金属音が聞こえると重い引き戸がごとりと少しの隙間を作った。
——誰か……来る——。
壁に体を預けていた千乃は反射的に、身を捩らせると、食い入るように扉を凝視した。
重そうに鈍い動きをする扉が徐々に開かれ、外の景色がゆっくりと千乃の目に映り込んでくる。そこに人ひとり通れるスペースが生まれると、差し込んで来る足が見えた。
部屋の中に全ての体が入ったことがわかると一気に緊張が増し、輪郭が一歩一歩と近づいて来る度に、千乃の心拍数も上昇していった。
正体を確認しようと目を凝らし、瞬きもせず見続けていると、逆光で背に光を浴びた人物との距離が縮まった。
「ユキちゃん、起きたんだ」
記憶にある呼び方と声に千乃の顔は蒼ざめ、目の前までやってきた相手を恐る恐る見上げた。
「柊さん……」
全貌が明らかになり、視線の先にいた柊を前に千乃は眸を限界まで見開かせた。
ゆるりと佇む彼の表情は、一緒に食事をした時と何ら変わらない微笑みに見える。だが見下ろしてくる異常な目付きに脅威を感じ、千乃の中に嫌な予感が込み上がってきた。
「もう、いくら誰もいないからって、大声出して暴れ過ぎだよユキちゃん。この蔵戸は欅で出来てるから、君の華奢な足で蹴ったところで簡単には壊れないよ」
「ど、どうして……。柊さんが俺をここに閉じ込めたんですかっ」
「そうだよ」
悪びれた様子もなく、平然とした顔で答える柊を前に、千乃はつま先に力を入れ、体を引き摺りながら後退りをしようとする。だが、震えた足に力は入らず、おまけに砂利で足裏を滑らせ、じわじわ近付く柊との距離は縮まるばかりだった。
「しゅ……柊さん、どうして。どうしてこんなことするんですか」
「どうして? そんなの簡単だよ、ユキちゃんを殺すためだよ」
軽口を言うように返答する柊の口元に歪な笑みを見つけ、千乃はこの現状を飲み込めず、ただ身体を震わせていた。
「あはは、震えてるね。怖い? 怖いよなー。でもいいじゃん、今まで裕福で幸せに暮らしてきたんだろ? 豪華な仁杉の家でさ」
「な、何を言ってるんですか。裕福って何のこ——」
「その態度。いい加減、煩いよユキちゃん。俺を苛立たせないでよ」
柊が吐き出す言葉の意味が分からず、思考力は恐怖で追いついて来ない。
怯える千乃をよそに、外からの日差しで、視認性の上がった部屋を柊がゆっくりと見渡している。
「ここは変わらないね。相変わらず埃まみれだ——」
小さく呟く柊に、拘束された手首を解かれ、千乃の両腕は胸の前へと移動させられた。一瞬の解放感からほっとしたのも束の間、両手首には再び結束バンドが巻かれてしまった。
「後ろ手だと水も飲めないもんね。これなら飲めるっしょ」
水の入ったペットボトルを地面に置き、千乃に背を向け柊が部屋を出て行こうとする。
「待って! 待ってください! 理由を——何で俺を殺すのか、理由を教えてください!」
なけなしの勇気を奮い立たせ、千乃は去って行こうとする背中に投げかけた。その声に足がほんの少し反応したものの、振り返ることはなく蔵戸は閉められ、再び千乃の周りは薄闇に制圧されてしまった。
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