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「やば、柊さんもう着いてる!」
五限目を終えた千乃は正門で待つ柊の姿を目にし、慌てて彼の元へ駆け寄ろうとしていた。
「ゆっきー。今日お前バイト?」
足早に正門を目指す千乃の背中に、声をかけて来たのは悠介だった。
「あ、悠介。今日はシフト入ってないけど、これから人と会う用事があってさ。どうかした? 何か急用か」
千乃は門で待つ柊の姿を遠目に確認しながら、悠介の言葉が追いつくのを待っていた。
「いや。バイトないならこの前の鍋のお礼に、飯食いに行こうかなって思ってさ。でも、先約あるならまた今度誘うよ」
「えー、マジで? いや、でもごめん……」
申し訳ないと思いつつ、千乃は眞秀や悠介以外に時間を共に出来る相手ができたことで、少し浮き足立っていた。
「いいっていいって。例の親友君か?」
「いや、違うよ。最近親しくなった人なんだけど、話が面白くて、めっちゃいい人だんだ。今、門の所にまで迎えに来てて」
「へー、どの人? あ、もしかしてあの人か」
明らかに人を待っている雰囲気の人物が、門扉にもたれているのを悠介が指差した。
「そうそう、あの人」
「へー、なんかカッコよさげな人だな。サングラスに髪の毛束ねて芸能人みたいだ」
「だろ? でも職種は近いかも。あの人画家さんなんだ」
「画家! お前よくそんな人と知り合えたな。千乃、絵画とか好きだもんな、よかったじゃん、いい出会いでさ」
「ああ。絵だけじゃなくて、話してても楽しいんだ柊さんは」
「そっか。じゃ、その柊さんって画家さんを待たせるのも悪いし、早く行って来いよ。引き止めて悪かったな」
「悪い、悠介。今度埋め合わせするからさ。じゃまた月曜に」
「おー。気ー付けて行って来いよ」
悠介の心遣いに感謝しながら手を振ると、千乃は待ち人の元へと駆け足で向かった。
初めて美術館に誘われた日を境に、千乃は何度か柊と一緒に出かけていた。美術館に行ったり、時には買い物したりと。
食事に誘われたこともあったが、バイトの時間が押し迫っていたり、柊の仕事が立て込んでいたりと、ずっと約束だけのままだった。
同じ趣味で話せる相手が眞秀しかいなかった千乃にとって、絵のこと以外でも気軽に話せる柊の存在は、貴重なものに変化していた。
「柊さん、すいません。お待たせして」
白い息を吐きながら、柊の元へ駆け寄ると、労るように頭を撫でられ、柊が楽しげに微笑んでいる。
「そんな走って来なくてもよかったのに。ほら、汗かいてるし」
「だって待ってるって思ったら……」
顔は世間に知られていないとは言え、描けば何十万、いや、百万単位でも売れる画家なのに、一般市民の自分が普通なら会える事など出来ない。
なのにこうして時間を割いて、大学まで迎えに来てくれる。そのことだけで浮かれて叫び出したくなる。
「ユキちゃん今日こそご飯行こうな。バイトないだろ?」
「はい。大丈夫です」
「よし、決まり。やっと念願叶うなー」
顔を崩しながら向けられたセリフに頬を高揚させ、千乃は自分に構ってくれることに心が逸り、柊の言葉一つひとつに喜びを感じていた。
「でも、柊さんくらいの人なら食事を一緒にしたいって思う人たくさんいるのに。どうして俺なんかと……」
「それはさ、ユキちゃんがかわいいからだよ。どうしても二人でご飯行きたくてね。あ、でもマキちゃんが怒るなら諦めるけど?」
「柊さんが相手なら、真希人さんが怒る理由はないと思いますけど」
千乃は今日のことを、いやこれまでも柊と二人で出かけていたことは、捜査で大変な藤永に話すほどのことではないと思って伏せていた。
本音を言えば、柊のことを口実にして藤永と会いかった。柊との個展巡りみたいなことも楽しいが、藤永とはただ一緒にいるだけで幸せだから。
柊と出かけると、伝える口実に電話もしたかったが、それさえも躊躇われた。
「そっか。じゃあ遠慮なく、ユキちゃんを独り占めできるな。美味いパエリア出す店あるんだ、そこへ行こうと思ってね」
「パエリア?」
「そうそう。パエリア嫌い?」
「いえ、好きです……って言うか食べたこと——ないです」
「へえ、そりゃいい! 旨いよ、スペイン料理。こっからだとタクシーで三十分くらいだし。酒も呑めるだろ?」
「あ、いえ、お酒はあまり得意じゃなくて」
「あーそっか。じゃあ今日は料理を堪能してもらおう」
「すいません……」
「いいって、いいって。そんなことで謝らなくていいよ」
羨ましい程のコミュニケーションを見せつけられ、強引に肩を組まれた千乃は、待機していたタクシーへと、押し込まれるような形で乗り込んだ。
車の中で繰り広げられる柊の話術に引き込まれ、千乃は芸術家としての魅力以上に、長けた話術にもどんどん引き込まれていった。
「あ、運転手さん。ここでいいです」
賑やかな大通りから一本裏道へ差し掛かったところでタクシーは止まり、柊が手際よく支払いを済ませると、車から降りるよう促された。
初めて見る街の景色に戸惑いながらも、千乃は歩道へと足を踏み出した。
「ここ、初めて来ました……」
同じ県内でも、行動範囲がほぼ決まっている千乃は、地方から初めて来た観光客のように、口を開けたまま辺りを見渡していた。
「ここに来る客は、日本人より外国人の方が多いかもしれないからな。ユキちゃん、こっち。ほらここの店」
陽気で明るい国を表すようなオレンジの扉が目の前に現れ、そこを開け放った途端、店の中から賑わう声と人熱が吹き出して来た。
「いらっしゃいませー」
異国訛りの日本語で迎えられ、千乃は先に進む柊の背中を慌てて追った。
「HOLA! 久しぶり。奥のテーブル席いい?」
理想的な発音で、カウンターのスタッフへと軽快に挨拶する柊に誘われ、千乃は三席あるうちの、一番奥のテーブル席へと腰掛けた。
店内の装飾といい、食事を楽しんでいる客といい、日本とは思えない雰囲気だった。
異国の空気に呑まれたままの千乃は、席に着いても好奇心旺盛な子供のように眸を右往左往させていた。
挙動不審にあちらこちらへと視線を移す千乃の目に、笑いを堪えている柊の顔が映り込む。
「しゅ、柊さん。我慢しなくていいですよ、笑っても」
「い、いや。ユキちゃんかわいーな。これじゃマキちゃんも君にメロメロなはずだよ」
「メロメロって——言い方が古いですよ」
藤永の名前を聞くと、どうしても結ばれた夜のことを思い出してしまう。
赤くなりそうな顔を隠すよう、千乃はメニューを開いて誤魔化した。
「俺、きっとマキちゃんに怒られるなー。ユキちゃんと二人っきりで何度も出かけてさ。今日だって食事を一緒してるって知られたら恨まれそう」
「恨むだなんて。真希人さんは気にも留めません、大人……ですから」
自分で言った言葉で凹む気持ちが生まれた。
本当はもっと会いたいし、話もしたい。電話して声も聞きたい。こんな風に思っているのは自分だけで、年上のクールで大人な藤永にはそこまでの熱い思いはない。想像するだけで、たまらなく切ない。
「ま、取り敢えずメシ食おう。お任せで作ってくれてるから」
その言葉通り、程なくしてテーブルの上に飲み物と料理が運ばれてくる。嗅覚と視覚が刺激される皿達が千乃の胃袋を攻撃してきた。
「お……いしそう」
「だろ? たくさん食えよ。今日は俺の奢りだからさ」
「そんな! 悪いです。俺、自分の分は払いますから」
「いいって。俺が誘ったんだし、今日はかっこ付けさせてくれよ」
髪をゴムで束ね直しながら微笑む柊に、何も言えなくなった千乃は「じゃあ、遠慮なく……」と、頭を軽く下げた。
「それじゃあ、乾杯するか。俺達の再会に。あ、これノンアルのサングリアだから安心して」
「はい」
柊のペースでグラスを重ね、緊張している身体中にサングリアが染み込んでいく。
アルコールは入ってないはずの液体が千乃の喉を伝っていくと、冷たくて熱い香りが浸透していく。それは千乃の肌をゆっくりと染め上げていった。
体中に張り巡らされている、血管の中の鮮血が沸騰しているように感じ、過去にうっかりアルコールを飲んだ時の感覚を思い出させた。
まるで酩酊する手前のように……。
「これ、美味しい……。初めて飲んだ、こんなの」
「旨いだろ? スペインと言ったらサングリアかシードルなんだ、俺的には。今日はノンアルだけどメシを堪能してよ。このピンチョス、生ハムとクリームチーズで、こっちは茄子とオイルサーディン。どっちも絶品だよ」
鮮やかに盛り付けられた皿から、柊が取り分けてくれる。それを受け取ったと同時に、千乃の腹の虫が先走って鳴いてしまった。
「うわっ! すいません、俺、卑しくって」
腹部を手で覆うと、今度は大きく声を荒げて柊が爆笑している。
千乃の火照った頬はみるみる上昇し、どんどん注がれるサングリアで全身を冷却すように喉へ流し込んだ。
「ほんと、かーわい。俺、マキちゃんから取っちゃおうかな」
「だーかーらー、真希人さんは動じませんって。さっきからそう言ってるじゃないれすか。あの人は、超、大人なんですから」
頭が朦朧とし、柊の顔が二重に見えて舌が痺れて上手く喋れない。それでも構わず話し続けるのは、ぬるま湯に浸かっているように心地良かったからだ。 千乃は砕けた口調でグラスを満たしてくる柊へ、舌足らずな口調で会話を続けた。
「あ、そう言えばこの間の友達。えーっと、ま——、なんだっけ」
「眞秀——れす。俺の大親友で、尊敬する人間なんれ……す。柊さんの個展もあいつが誘ってくれて……。俺、眞秀には色々教えてもらったんれすよ。本を読む楽しさとか、絵画鑑賞もそう。俺の人生に色を付けてくれたやつ……れす……」
「へー、いい友達だね」
柊の言葉がどこか冷たく聞こえた気がしたが、頬を紅くする千乃はさほど気に求めず話しを続けた。
「真希人さんもそうれす。俺が高校の時、もうあの人は大人で立派な警官として働いてまひ……た。友達を上手く作れなかった俺に、勉強や人付き合いを教えてくれた……ひ……と……でしゅ……」
「ふーん。そう、いい人達なんだね。さすが、マキちゃん正義のヒーロー。君の味方なんだ」
「はい……。俺の大好きな、尊敬する人……で——」
ノンアルだと信じて飲み続けていた液体。その正体を疑うことが浮かんだが、甘い美酒は既に千乃の思考を鈍らせ、全身を多幸感が支配してしまうと、意識は遠のき、千乃はテーブルの上へと突っ伏してしまった。
「あらら、ユキちゃん大丈夫?」
栗色の前髪が顔を覆うと、隠れた虹彩を探すよう長い指がかき分けてくる。
冷たい指先で額に触れられると、漂う大人の気配に千乃は熱くなった手のひらを求めるように伸ばした。
「ま……きと……さん」
愛しい人の温もりを求めて冷たい指先を手繰り寄せ、指先同士を絡ませる。彷徨う千乃の手は大きな手のひらに包まれ、千乃は安堵したように眠りに落ちてしまった。
「細っせー手首。これなら簡単にへし折れちゃうね、ユキちゃん」
寝息をたてる千乃を見つめる柊の視線は冷たく、眸は人懐っこかった色を消して、千乃の手首をおもちゃでも扱うようにぷらぷらと振っている。
「さー、このかわいい子どうすっかなー。刑事のマキちゃんが知ったらどうするだろーね」
路傍のゴミでも見るよう千乃を見据えると、意識を失った白い手のひらを自身の頬に擦り付けた。
「マレフィセントで出くわしたのも、計画的だったとはなぁ」
陽気な店内の明かりから遠ざかるテーブルに、つい数分前まであった和やかな空気は消え失せていた。変わりに居座っているのは、憎しみを込めた目を宿す男とその獲物だけ。
「……さあ、今から別世界を見せてやるよ、千乃」
蔑むような目で千乃を見下ろし、冷ややかな言葉を呟いた。
酔いの回ったあえかな花を眺め、疼く下腹部と心悸を自覚した柊は、屈託のない寝顔を人差し指で突いていた。
「さて、刑事さんはどうでるかな……」
ほくそ笑みながら、柊は栗色の髪を指に絡ませたあと、飼い猫でも愛でるように何度もそこを往復させた。
陽気な音楽とカラリと晴れたような笑い声でひしめく店内。
異国の香りが漂う場所で何も知らずに眠る千乃を、眸の奥に燃えるような憎悪を込めた目で柊は見ていた。
五限目を終えた千乃は正門で待つ柊の姿を目にし、慌てて彼の元へ駆け寄ろうとしていた。
「ゆっきー。今日お前バイト?」
足早に正門を目指す千乃の背中に、声をかけて来たのは悠介だった。
「あ、悠介。今日はシフト入ってないけど、これから人と会う用事があってさ。どうかした? 何か急用か」
千乃は門で待つ柊の姿を遠目に確認しながら、悠介の言葉が追いつくのを待っていた。
「いや。バイトないならこの前の鍋のお礼に、飯食いに行こうかなって思ってさ。でも、先約あるならまた今度誘うよ」
「えー、マジで? いや、でもごめん……」
申し訳ないと思いつつ、千乃は眞秀や悠介以外に時間を共に出来る相手ができたことで、少し浮き足立っていた。
「いいっていいって。例の親友君か?」
「いや、違うよ。最近親しくなった人なんだけど、話が面白くて、めっちゃいい人だんだ。今、門の所にまで迎えに来てて」
「へー、どの人? あ、もしかしてあの人か」
明らかに人を待っている雰囲気の人物が、門扉にもたれているのを悠介が指差した。
「そうそう、あの人」
「へー、なんかカッコよさげな人だな。サングラスに髪の毛束ねて芸能人みたいだ」
「だろ? でも職種は近いかも。あの人画家さんなんだ」
「画家! お前よくそんな人と知り合えたな。千乃、絵画とか好きだもんな、よかったじゃん、いい出会いでさ」
「ああ。絵だけじゃなくて、話してても楽しいんだ柊さんは」
「そっか。じゃ、その柊さんって画家さんを待たせるのも悪いし、早く行って来いよ。引き止めて悪かったな」
「悪い、悠介。今度埋め合わせするからさ。じゃまた月曜に」
「おー。気ー付けて行って来いよ」
悠介の心遣いに感謝しながら手を振ると、千乃は待ち人の元へと駆け足で向かった。
初めて美術館に誘われた日を境に、千乃は何度か柊と一緒に出かけていた。美術館に行ったり、時には買い物したりと。
食事に誘われたこともあったが、バイトの時間が押し迫っていたり、柊の仕事が立て込んでいたりと、ずっと約束だけのままだった。
同じ趣味で話せる相手が眞秀しかいなかった千乃にとって、絵のこと以外でも気軽に話せる柊の存在は、貴重なものに変化していた。
「柊さん、すいません。お待たせして」
白い息を吐きながら、柊の元へ駆け寄ると、労るように頭を撫でられ、柊が楽しげに微笑んでいる。
「そんな走って来なくてもよかったのに。ほら、汗かいてるし」
「だって待ってるって思ったら……」
顔は世間に知られていないとは言え、描けば何十万、いや、百万単位でも売れる画家なのに、一般市民の自分が普通なら会える事など出来ない。
なのにこうして時間を割いて、大学まで迎えに来てくれる。そのことだけで浮かれて叫び出したくなる。
「ユキちゃん今日こそご飯行こうな。バイトないだろ?」
「はい。大丈夫です」
「よし、決まり。やっと念願叶うなー」
顔を崩しながら向けられたセリフに頬を高揚させ、千乃は自分に構ってくれることに心が逸り、柊の言葉一つひとつに喜びを感じていた。
「でも、柊さんくらいの人なら食事を一緒にしたいって思う人たくさんいるのに。どうして俺なんかと……」
「それはさ、ユキちゃんがかわいいからだよ。どうしても二人でご飯行きたくてね。あ、でもマキちゃんが怒るなら諦めるけど?」
「柊さんが相手なら、真希人さんが怒る理由はないと思いますけど」
千乃は今日のことを、いやこれまでも柊と二人で出かけていたことは、捜査で大変な藤永に話すほどのことではないと思って伏せていた。
本音を言えば、柊のことを口実にして藤永と会いかった。柊との個展巡りみたいなことも楽しいが、藤永とはただ一緒にいるだけで幸せだから。
柊と出かけると、伝える口実に電話もしたかったが、それさえも躊躇われた。
「そっか。じゃあ遠慮なく、ユキちゃんを独り占めできるな。美味いパエリア出す店あるんだ、そこへ行こうと思ってね」
「パエリア?」
「そうそう。パエリア嫌い?」
「いえ、好きです……って言うか食べたこと——ないです」
「へえ、そりゃいい! 旨いよ、スペイン料理。こっからだとタクシーで三十分くらいだし。酒も呑めるだろ?」
「あ、いえ、お酒はあまり得意じゃなくて」
「あーそっか。じゃあ今日は料理を堪能してもらおう」
「すいません……」
「いいって、いいって。そんなことで謝らなくていいよ」
羨ましい程のコミュニケーションを見せつけられ、強引に肩を組まれた千乃は、待機していたタクシーへと、押し込まれるような形で乗り込んだ。
車の中で繰り広げられる柊の話術に引き込まれ、千乃は芸術家としての魅力以上に、長けた話術にもどんどん引き込まれていった。
「あ、運転手さん。ここでいいです」
賑やかな大通りから一本裏道へ差し掛かったところでタクシーは止まり、柊が手際よく支払いを済ませると、車から降りるよう促された。
初めて見る街の景色に戸惑いながらも、千乃は歩道へと足を踏み出した。
「ここ、初めて来ました……」
同じ県内でも、行動範囲がほぼ決まっている千乃は、地方から初めて来た観光客のように、口を開けたまま辺りを見渡していた。
「ここに来る客は、日本人より外国人の方が多いかもしれないからな。ユキちゃん、こっち。ほらここの店」
陽気で明るい国を表すようなオレンジの扉が目の前に現れ、そこを開け放った途端、店の中から賑わう声と人熱が吹き出して来た。
「いらっしゃいませー」
異国訛りの日本語で迎えられ、千乃は先に進む柊の背中を慌てて追った。
「HOLA! 久しぶり。奥のテーブル席いい?」
理想的な発音で、カウンターのスタッフへと軽快に挨拶する柊に誘われ、千乃は三席あるうちの、一番奥のテーブル席へと腰掛けた。
店内の装飾といい、食事を楽しんでいる客といい、日本とは思えない雰囲気だった。
異国の空気に呑まれたままの千乃は、席に着いても好奇心旺盛な子供のように眸を右往左往させていた。
挙動不審にあちらこちらへと視線を移す千乃の目に、笑いを堪えている柊の顔が映り込む。
「しゅ、柊さん。我慢しなくていいですよ、笑っても」
「い、いや。ユキちゃんかわいーな。これじゃマキちゃんも君にメロメロなはずだよ」
「メロメロって——言い方が古いですよ」
藤永の名前を聞くと、どうしても結ばれた夜のことを思い出してしまう。
赤くなりそうな顔を隠すよう、千乃はメニューを開いて誤魔化した。
「俺、きっとマキちゃんに怒られるなー。ユキちゃんと二人っきりで何度も出かけてさ。今日だって食事を一緒してるって知られたら恨まれそう」
「恨むだなんて。真希人さんは気にも留めません、大人……ですから」
自分で言った言葉で凹む気持ちが生まれた。
本当はもっと会いたいし、話もしたい。電話して声も聞きたい。こんな風に思っているのは自分だけで、年上のクールで大人な藤永にはそこまでの熱い思いはない。想像するだけで、たまらなく切ない。
「ま、取り敢えずメシ食おう。お任せで作ってくれてるから」
その言葉通り、程なくしてテーブルの上に飲み物と料理が運ばれてくる。嗅覚と視覚が刺激される皿達が千乃の胃袋を攻撃してきた。
「お……いしそう」
「だろ? たくさん食えよ。今日は俺の奢りだからさ」
「そんな! 悪いです。俺、自分の分は払いますから」
「いいって。俺が誘ったんだし、今日はかっこ付けさせてくれよ」
髪をゴムで束ね直しながら微笑む柊に、何も言えなくなった千乃は「じゃあ、遠慮なく……」と、頭を軽く下げた。
「それじゃあ、乾杯するか。俺達の再会に。あ、これノンアルのサングリアだから安心して」
「はい」
柊のペースでグラスを重ね、緊張している身体中にサングリアが染み込んでいく。
アルコールは入ってないはずの液体が千乃の喉を伝っていくと、冷たくて熱い香りが浸透していく。それは千乃の肌をゆっくりと染め上げていった。
体中に張り巡らされている、血管の中の鮮血が沸騰しているように感じ、過去にうっかりアルコールを飲んだ時の感覚を思い出させた。
まるで酩酊する手前のように……。
「これ、美味しい……。初めて飲んだ、こんなの」
「旨いだろ? スペインと言ったらサングリアかシードルなんだ、俺的には。今日はノンアルだけどメシを堪能してよ。このピンチョス、生ハムとクリームチーズで、こっちは茄子とオイルサーディン。どっちも絶品だよ」
鮮やかに盛り付けられた皿から、柊が取り分けてくれる。それを受け取ったと同時に、千乃の腹の虫が先走って鳴いてしまった。
「うわっ! すいません、俺、卑しくって」
腹部を手で覆うと、今度は大きく声を荒げて柊が爆笑している。
千乃の火照った頬はみるみる上昇し、どんどん注がれるサングリアで全身を冷却すように喉へ流し込んだ。
「ほんと、かーわい。俺、マキちゃんから取っちゃおうかな」
「だーかーらー、真希人さんは動じませんって。さっきからそう言ってるじゃないれすか。あの人は、超、大人なんですから」
頭が朦朧とし、柊の顔が二重に見えて舌が痺れて上手く喋れない。それでも構わず話し続けるのは、ぬるま湯に浸かっているように心地良かったからだ。 千乃は砕けた口調でグラスを満たしてくる柊へ、舌足らずな口調で会話を続けた。
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「眞秀——れす。俺の大親友で、尊敬する人間なんれ……す。柊さんの個展もあいつが誘ってくれて……。俺、眞秀には色々教えてもらったんれすよ。本を読む楽しさとか、絵画鑑賞もそう。俺の人生に色を付けてくれたやつ……れす……」
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柊の言葉がどこか冷たく聞こえた気がしたが、頬を紅くする千乃はさほど気に求めず話しを続けた。
「真希人さんもそうれす。俺が高校の時、もうあの人は大人で立派な警官として働いてまひ……た。友達を上手く作れなかった俺に、勉強や人付き合いを教えてくれた……ひ……と……でしゅ……」
「ふーん。そう、いい人達なんだね。さすが、マキちゃん正義のヒーロー。君の味方なんだ」
「はい……。俺の大好きな、尊敬する人……で——」
ノンアルだと信じて飲み続けていた液体。その正体を疑うことが浮かんだが、甘い美酒は既に千乃の思考を鈍らせ、全身を多幸感が支配してしまうと、意識は遠のき、千乃はテーブルの上へと突っ伏してしまった。
「あらら、ユキちゃん大丈夫?」
栗色の前髪が顔を覆うと、隠れた虹彩を探すよう長い指がかき分けてくる。
冷たい指先で額に触れられると、漂う大人の気配に千乃は熱くなった手のひらを求めるように伸ばした。
「ま……きと……さん」
愛しい人の温もりを求めて冷たい指先を手繰り寄せ、指先同士を絡ませる。彷徨う千乃の手は大きな手のひらに包まれ、千乃は安堵したように眠りに落ちてしまった。
「細っせー手首。これなら簡単にへし折れちゃうね、ユキちゃん」
寝息をたてる千乃を見つめる柊の視線は冷たく、眸は人懐っこかった色を消して、千乃の手首をおもちゃでも扱うようにぷらぷらと振っている。
「さー、このかわいい子どうすっかなー。刑事のマキちゃんが知ったらどうするだろーね」
路傍のゴミでも見るよう千乃を見据えると、意識を失った白い手のひらを自身の頬に擦り付けた。
「マレフィセントで出くわしたのも、計画的だったとはなぁ」
陽気な店内の明かりから遠ざかるテーブルに、つい数分前まであった和やかな空気は消え失せていた。変わりに居座っているのは、憎しみを込めた目を宿す男とその獲物だけ。
「……さあ、今から別世界を見せてやるよ、千乃」
蔑むような目で千乃を見下ろし、冷ややかな言葉を呟いた。
酔いの回ったあえかな花を眺め、疼く下腹部と心悸を自覚した柊は、屈託のない寝顔を人差し指で突いていた。
「さて、刑事さんはどうでるかな……」
ほくそ笑みながら、柊は栗色の髪を指に絡ませたあと、飼い猫でも愛でるように何度もそこを往復させた。
陽気な音楽とカラリと晴れたような笑い声でひしめく店内。
異国の香りが漂う場所で何も知らずに眠る千乃を、眸の奥に燃えるような憎悪を込めた目で柊は見ていた。
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