上 下
4 / 57

しおりを挟む
 ネロリの香りは落ち着く。
 八束の受け売りではないが、精神安定剤のようで、身も心も癒される。
 訪れる客の不安をかき消してくれる優秀な香りを堪能するよう、千乃は鼻の奥まで思いっきり息を吸い込んだ。

 ひと仕事終え、宵月と書かれたドアを閉めると、香りを閉じ込めて受付へと戻った。
「お、お疲れさん」
「お疲れ様です。清掃も終わりましたよ」
 事務仕事をする横顔の八束を目にし、緩んだ筋肉を引き締めると、千乃はリュックの中からペットボトルを取り出し水を口に含んだ。

「彼女どうだった?」
「担当が変わって最初は緊張してましたけど、後半はリラックスしてくれてましたよ。来月も予約入りました」
「そうか。なら、よかったよ」
 画面に目を向けながら問いかけてくる八束の仕草を目にし、昔と同じようにパソコンへ向かっていた姿を重ねると千乃はなぜかホッとした。
 この横顔が自分にとって、とても心が凪いだ景色だったからだ。

「やれやれ、入力終わったぞ。事務仕事終わり」
 背伸びをする八束を横目に、千乃は自然と口元を綻ばせていた。
「集中してる横顔って、昔と同じですね」
 他意のない、何気ない言葉をかけたつもりだった。だが、それは言ってはいけないことだと、八束の曇った表情で直ぐに悟った。
 さっきも同じ失敗をしたと言うのに、どうしても口をついて出てしまうのは、家族のないも同然の千乃にとって、彼が頼れる数少ない大人だったからだ。

「すいません……。俺、月宮の部屋にお香炊いてきます。今日ってイヴさん達の予約入ってましたよね」
「あ、いや千乃……」
 取り繕うよう八束が呼ぶ声に気付かないフリをし、千乃は施術室へと向かった。
 来店する予約客が好むお香に火を灯しに。

 部屋に入り、香に火を灯す。
 橙色の芯が一瞬揺らぎ、千乃は手うちわで風を起こすと、白く揺蕩う煙がくうへと立ち上がり、品のいい白檀の優しい香りが部屋の四隅に広がっていった。
 小さく深呼吸すると千乃は、向かい入れる二人の密事みそかごとを思い浮かべ、敬虔な気持ちを授かった。
 彼らの手伝いをすることで、自分自身も癒され、好きな人との間に生まれる絆を教えてもらっていたからだ。

「俺、また余計なことを言ってしまったな……」

 ベッドのシーツのシワを伸ばしながら、千乃は自分を咎めていた。
 知らぬ間に八束を傷つけ、彼の地雷を踏んでしまった。それを何度も。
 温厚な八束が冷めた表情に移り変わる瞬間を、以前にも目にしたことがあった。その時も今と同じように、かける言葉を選べずその場から逃げてしまったと言うのに。

「昔に何かあったのかな。ここで働くのも似合ってるけど……普通に考えても勿体ないんだよな」
独り言を呟く千乃の耳に、受付の方から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
 慌てて部屋を出ると、受付には楽しげに八束と雑談する二人の笑顔がそこにあり、千乃は思わず頬を緩ませた。

「イヴさん、アユムさん。こんばんは」
 営業用でも何でもなく、素直な笑顔が自然に溢れ、千乃は二人の元へと駆け寄った。まるで数年ぶりにあう友人のように。

「わーい、ゆきちゃんだ。元気だった?」
 ゆるし色に染まる淡い唇で微笑むイヴは、女子顔負けの甘いミックスボイスで手を差し出し、千乃に握手を求めて来る。これは彼女のお決まりの挨拶だった。

「元気ですよ、俺は。お二人ともお久しぶりです」
「千乃君、もう大学三年だろ? 就活あるのにここでバイトしてても大丈夫かい?」
 男らしく作り上げられた、低音の声でアユムに心配され「余裕です」と、千乃は得意げな表情でピースサインを掲げて見せた。

「え、ゆきちゃんもしかして、もう内定もらったの?」
「そうなんですよ、こいつ早々に内定ブン取って来ちゃってね。えっと、どこだっけ。ほら、あの出版社で、あー名前が出てこねえー」
 悶絶しそうな表情が、いつもの八束に戻っていたことにホッとし、「はなぶさ出版社ですよ」と、千乃も表情筋を弛ませた。

「ああ、そうそう。美術や芸術、それと旅行やビジネス経済とかの雑誌出してて、小説やコミックも手がけてる大手の出版社だよな」
 つっかえていたものを吐き出したように、スッキリした顔をする八束に、心の中で千乃はこっそりと安堵していた。さっきの違和感を、二人が払拭してくれた気がする。

「知ってる! 超有名な会社じゃない。さすが私のゆきちゃん」
「おいおい、何だよ今の聞き捨てならないな。千乃君は誰のものでもないし、お前は俺のものだろーが」
「やだ、アユム嫉妬? 可愛いぃ」
 焦ると僅かに残る女性が混ざる声で、独占欲をアピールするアユムと、頬を赤らめるイヴ。来店すると一度は披露される二人の戯れに、いつも千乃の方が照れ臭くなってしまうのだ。

「お二人さん、いちゃつくのはその辺で。もうレッスンの時間ですよ。今日も安心、安全にプレイで使える緊縛をご指導しますから」
「はーい、八束先生。じゃあね、ゆきちゃん。今度就職祝い持ってくるわね」
「あはは。ありがとうございます、お気持ちだけで十分ですよ。ごゆっくりお過ごしくださいね」
「うん。じゃ、また後で」

 アユムの腕に手を絡ませ、部屋までの短い距離を歩く後ろ姿を見守りながら、千乃は二人の醸し出す優しい空気を堪能していた。
「千乃、受付頼むな」
「はいっ」
 前を歩く二人より背の高い八束の背中が、まだ幼かった千乃の記憶を思い出させる。
 頼りがいのあるその後ろ姿に、父や兄のような憧れを抱いていた。どこにも、誰にも繋がらなくなった命を救われ、手を差し伸べてくれた人。小さな千乃にとって唯一の優しい大人だった。それは今でも変わらない温かさだ。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

この愛のすべて

高嗣水清太
BL
 「妊娠しています」  そう言われた瞬間、冗談だろう?と思った。  俺はどこからどう見ても男だ。そりゃ恋人も男で、俺が受け身で、ヤることやってたけど。いきなり両性具有でした、なんて言われても困る。どうすればいいんだ――。 ※この話は2014年にpixivで連載、2015年に再録発行した二次小説をオリジナルとして少し改稿してリメイクしたものになります。  両性具有や生理、妊娠、中絶等、描写はないもののそういった表現がある地雷が多い話になってます。少し生々しいと感じるかもしれません。加えて私は医学を学んだわけではありませんので、独学で調べはしましたが、両性具有者についての正しい知識は無いに等しいと思います。完全フィクションと捉えて下さいますよう、お願いします。

【完結】義兄に十年片想いしているけれど、もう諦めます

夏ノ宮萄玄
BL
 オレには、親の再婚によってできた義兄がいる。彼に対しオレが長年抱き続けてきた想いとは。  ――どうしてオレは、この不毛な恋心を捨て去ることができないのだろう。  懊悩する義弟の桧理(かいり)に訪れた終わり。  義兄×義弟。美形で穏やかな社会人義兄と、つい先日まで高校生だった少しマイナス思考の義弟の話。短編小説です。

ドSな義兄ちゃんは、ドMな僕を調教する

天災
BL
 ドSな義兄ちゃんは僕を調教する。

婚約者に会いに行ったらば

龍の御寮さん
BL
王都で暮らす婚約者レオンのもとへと会いに行ったミシェル。 そこで見たのは、レオンをお父さんと呼ぶ子供と仲良さそうに並ぶ女性の姿。 ショックでその場を逃げ出したミシェルは―― 何とか弁解しようするレオンとなぜか記憶を失ったミシェル。 そこには何やら事件も絡んできて? 傷つけられたミシェルが幸せになるまでのお話です。

【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】

彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』 高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。 その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。 そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?

3人の弟に逆らえない

ポメ
BL
優秀な3つ子に調教される兄の話です。 主人公:高校2年生の瑠璃 長男の嵐は活発な性格で運動神経抜群のワイルド男子。 次男の健二は大人しい性格で勉学が得意の清楚系王子。 三男の翔斗は無口だが機械に強く、研究オタクっぽい。黒髪で少し地味だがメガネを取ると意外とかっこいい? 3人とも高身長でルックスが良いと学校ではモテまくっている。 しかし、同時に超がつくブラコンとも言われているとか? そんな3つ子に溺愛される瑠璃の話。 調教・お仕置き・近親相姦が苦手な方はご注意くださいm(_ _)m

孕めないオメガでもいいですか?

月夜野レオン
BL
病院で子供を孕めない体といきなり診断された俺は、どうして良いのか判らず大好きな幼馴染の前から消える選択をした。不完全なオメガはお前に相応しくないから…… オメガバース作品です。

食事届いたけど配達員のほうを食べました

ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
なぜ自転車に乗る人はピチピチのエロい服を着ているのか? そう思っていたところに、食事を届けにきたデリバリー配達員の男子大学生がピチピチのサイクルウェアを着ていた。イケメンな上に筋肉質でエロかったので、追加料金を払って、メシではなく彼を食べることにした。

処理中です...