桜はそっと淡く咲く

律と一楓 19

「まあ、東郷先生じゃないですか。お久しぶりです。先生もどなたかのお見舞いですか？」
　エレベーターが目的の階に到着し、扉が開いた途端、東郷は数ヶ月ぶりに亮介の母親と出会出会でくわした。亮介の母親に手を引かれているのは、一楓の妹だろうか。丸い瞳がジッとこちらを見上げている。
「お久しぶりです。僕は見舞いじゃなく、姉に用事を頼まれて来たんですが、ちょっと忘れ物をして……。半田さんはどうされたんですか？」
「甥っ子がここに入院してるんですよ。先生のお姉さんは、この病院にお勤めだったんですね」
「ええ、看護師なんですよ」
「そうだったんですか。あ、そう言えば先生、新しいお仕事は順調？」

　こんな偶然を予期してなかった東郷は、一瞬思考が停止した。
　一楓に性的虐待をしていたことを亮介に咎めた手前、もう家庭教師として彼と向き合うことは無理だろうと思ってバイトを辞退した。
　突然辞める理由は、兼ねてから希望していた大学に就職が決まったことにした。なのにまさかこんなところで出会うとは。
　平日の午後に病院にいる自分は、不審に思われただろうか。

「……順調ですよ。亮介君は勉強どうですか？」
　東郷は、笑顔を貼り付けて言った。
「一応成績はなんとかキープしてます。塾も家庭教師もいらない、自力で何とかするって」
　謙遜しながらも、亮介の母親は相変わらず息子を誇っている。
　一楓の件をかなりキツめに叱責したことを心配はしていたけれど、それに対して腐らず勉強に取り組んでいることが分かり、その部分だけは褒めてやれると思った。

　亮介の母親がエレベーターのボタンを押したところで、ナースステーションから出て来た看護師が、美琴に気付いたのか、ニコニコしながら近付いてきた。
「美琴ちゃん、お兄ちゃんのお見舞い？」
　顔見知りなのか、美琴が嬉しそうに、「はいっ」と返事をしている。
「そっか、お兄ちゃん喜んだでしょうね」
　頷く美琴は看護師に見送られ、亮介の母親と手を繋ぎ、到着したエレベーターに乗り込むと、「先生、それじゃ失礼しますね」と、扉が閉まりきるまで手を振ってくれていた。

　二人が乗ったエレベーターが下降していくの見送り、忘れ物をした談話室へ向かおうとしたら、もう一基のエレベーターの方向灯が点滅し、扉が開いたと同時に、東郷と背丈が変わらない男子高校生が降り立った。
　真横を通り過ぎる姿が余りにも目を惹き、東郷はつい、横目で彼を追っていたが、流し見しただけで再び目的の場所を目指した。

　廊下を曲がろうとした時、角の先から知った声が聞こえ、思わず壁際へと身を潜めた。

『久しぶりだな、京都以来か』
『あんた……一楓の従兄弟の……』
　二人の内、一人は亮介の声で、もう一方の声は知らない人間だ。
　会話に興味を持った東郷は、非常階段へ通じるドア横の窪みに身を置くと、そっと覗き見た。
　亮介が突っかかっているのは、さっきエレベーターですれ違った高校生だった。

『お前、毎日見舞いに来てるんだってな。暇なのか』
『……あんたには関係ない』
『あいつの面倒は俺が──半田の家がみてる。お前なんかいても役立たずだ、帰れよ』
　無視して通り過ぎようとする高校生の肩を掴んだ亮介が、敵意むき出しの目を彼に向けている。肩に置かれた亮介の手を見下ろす彼が、鋭い視線で対峙していた。その眼光に日和ったのか、負け惜しみの舌打ちを残すと亮介はその場を離れ、東郷の方へ向きを変えると、こちらへ向かってこようとしている。

　顔を合わせるのは気不味いと思い、東郷はドアを開けて非常階段へと身を隠した。
　亮介の変わらない傍若無人っぷりに感嘆を漏らすと、頃合いを見て東郷は病棟へと戻った。忘れ物をとりに行き、エレベーターに乗り込むと、壁に貼ってある案内図を何気なく見上げた。

　そう言えば、五階って血液内科の病棟だよな……。

　叔母が言っていた、甥っ子の見舞い。きっと盲腸か骨折だと軽く思っていた東郷は、姉がよく口にしていた幾つかの病名に眉根を寄せた。