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第四章「美しいホテル 美しい息子」

第27話 「あたしはもう、あなたのもの」

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(Jaesung AnによるPixabayからの画像 )

 佐江《さえ》が胸元を見下ろすと、左の乳房に小さな赤いあざが浮き上がっていた。バラの形をした小さなあざ。
 佐江と清春《きよはる》の母が交わした、契約のしるしだ。
 清春はそっとあざの上に唇を乗せた。

「おかしいな……ここには何百回もキスをしているんだ。あざがあれば、見逃すはずがない。そうだ、ついさっきも見たのに。あのときは何もなかった」
『ごちゃごちゃと、うるさい男ね。とっとと女房をいかせてあげればいいのに』

 清春の母はそういうと、ざあっと冷たい風を送り込んできた。
 清春は、あわてて首をすくめる。

「なんだよ、これ。佐江、寒くないか、大丈夫か」

 ふわっと、レモンの香りに包み込まれるのを佐江は感じ取った。柔らかく温かい、母の香り。
 レモンバーベナの香りが、佐江に微笑んでいる。

『言ってちょうだい。あたしの息子が欲しいって。そしてこの子を、幸せにして』

 佐江はもう目を閉じて、屈服する。

「ほしい。きよさんが、もっと、ほしい」

 清春がささやく。

「この部屋でひとりで泣いていた夜には、おれは、これほどの幸せを受けるようになるとは思っていなかった。佐江、ありがとう」

 甘い悲鳴を上げながら、佐江は目を閉じて思った。

 あたしは知っていたわ。
 あなたが十九年かけて、少しずつあたしに近づいてくれるのを。

 あたしは、知っていた。
 あの夜から。
 あたしはもう、あなたのものだった。



 ★★★
 あれから二週間がたち、佐江はいつものように早起きをして、キッチンでコーヒーを入れていた。
 清春は今日は日勤だから、七時に出かけるように起こしてやらねばならない。

 晩秋の朝、光がいっぱいに入る清春の部屋のキッチンで、佐江は真剣な顔でコーヒーを入れていた。
 料理がまったくできない佐江にとっては、清春に作ってやれる数少ないものがコーヒーだ。
 真剣な顔でコーヒードリッパーをにらんでいる佐江の耳に、清春がのんびりと歩いてくる音が聞こえた。

「きみのいれるコーヒーの匂いは、絶品だな。朝からこの匂いをかげるなら、それだけでも、きみと結婚する価値がある」
 佐江《さえ》はドリッパーから目を上げずに、あきれたように清春《きよはる》に向かって言った。

「コーヒーのためだけに、あたしと結婚するんですか」

 佐江がそう言うと、清春は裸足《はだし》でぺたぺたと歩いてきてそっと背後から佐江のうなじにキスをした。

「こんな朝はやくから、について話題にするには、おれはつつましすぎるんだ」
「いい加減にしてください。こっちの手にケトルを持っていますから、やけどをなさらないで」

 うん、といって清春はパジャマ代わりのスウェットのポケットから小さなカードを取り出した。
 ケトルのお湯をすべて落とし終えた佐江が、不思議そうな顔をしてカードを見た。

「なんですか」
「きみのキーだ」
「キー?」

 佐江は清春を見て、ぴかぴかの調理台の上に置かれたプラスチックカードを手にした。
 コルヌイエのルームキー。真乃のスイートを借りたこともある佐江にとっては、何度も見たものだ。

 部屋番号は、4019。

 清春はキッチンカウンターの向こうにある小さなダイニングテーブルにつきながら、佐江を見た。

「きみにやるよ。親父はもう二度とあの部屋に入らないだろうから、きみが好きに使えばいい」
「だめよ。あの部屋はあなたとおじさまのものだわ。それから、あなたのお母様のものよ」

 清春は小さくあくびをしてから、ダイニングテーブルの上の新聞をとって開いた。

「そのおふくろがさ、きみにキーをやれって言うんだ」
「お母様が、言う?」
「このあいだからさ、やけにおふくろの夢を見るんだ。そのたびにおふくろが、きみにあの部屋の鍵をやれってうるさくて」

 佐江は目をぱちくりさせた。清春は苦笑して佐江を見て

「おれにだって、意味が分からないよ。だがあんまりうるさいんで、きみのためにもう一枚キーを作ったんだ。このまま夢の中でおふくろに叱られ続けていたら、おれは寝不足になりそうだ」

 佐江は何も言わずに、調理台の上のカードキーを取った。
 プラスチックの小さく軽い鍵だが、佐江にとっては世界中すべてをゆずり渡されたのとおなじくらい、重かった。

 清春は横目で佐江を見て、笑った。

「それからさ、ときどきはおれたち、あの部屋に泊まったほうがいいな」
「なぜです?」
「ええと、安西《あんざい》さんからきみに、メッセージが来ていないか?」

 佐江は、とつぜん自分の部下の名を清春から言われて、目をぱちくりさせた。

「安西?安西さんが、なんですって?―――ああ、あの話ですか。コルヌイエホテルが最近やっている宿泊イベントのことね」

 うん、と清春は新聞に目をやって生返事《なまへんじ》をした。佐江はできあがったコーヒーをダイニングテーブルに乗せてやりながら

「あれ、大人気なんですってね。安西さんがどうしても参加したいと言っているんですけれど、もうお部屋は空《あ》いていないでしょう?」
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