上 下
10 / 30
第二章「まだ、行かないで」

第15話 「あたしの知っている清春は子供だもの」

しおりを挟む

 井上清春《いのうえきよはる》は、亡くなったはずの母の姿を十九年ぶりに見て、茫然《ぼうぜん》として言った。

「かあさん、こんなところで何をしているんだ。どうせなら、親父のところにいってやれよ。あのひと、あなたが亡くなってからもうめちゃくちゃに働いている」

 清春がそういうと、母親である井上万里子《いのうえまりこ》は生きていたころと同じく、ぷっと柔らかそうな頬をふくらませた。

『あなたが、お父さんを助けなくちゃダメじゃないの、清春』
「とうさんは、おれの助けなんかいらないよ。あの人が必要としているのは、昔も今もあなただけだ」

 ふっと、井上万里子は目を伏せた。そのしぐさをみて、清春は鋭い声で言った。

「かあさん、佐江《さえ》はどこだ。佐江をどこに隠したんだ」
『清春、あたしはあなたと話したいのよ』
「はなし?話なんて、佐江がいてもできる。佐江を返さなきゃ、ぼくは、一言もはなさないからね」

 ふと、清春は自分の声が甲高《かんだか》くなっているのに気がついた。あやしく思い、自分の手を見て、あっと声を上げた。 

「なんだよ、これ。かあさん!僕、ちぢんでいる!」
『だって、あたしの知っている清春は子供だもの』
「あれから、十九ねんもたっているんだよ。かあさん、ぼく、どんどん小さくなっているよ!」

 だって清春、と井上万里子は笑って言った。

『あたしの息子は七歳よ。まだ七歳なの。これから入学式に行くんだもの』
「にゅうがくしきは、もうおわったよ、かあさん。やなぎさんが、むかえにきた」

 清春の言葉を聞いて、井上万里子は笑ってかぶりを振った。

『きよはる、何を言っているの?入学式はこれからでしょう。おとうさんと一緒に、三人で行くのよ。
 三人でどこかに出かけるなんて久しぶりね。おとうさんは、最近ちょっと忙しすぎるわよね』
「おわったよ、母さん。入学式はもうおわったんだ。桜が咲いていた。僕は一人で、柳さんがいたけど、やっぱりひとりで。かあさん、きょうかしょがいっぱいあったよ」
『おわってない、終わっていないわ、清春』

 井上万里子は悲しそうに清春に言った。

『まだ終わっていないわ。これから行くのよ。三人で、校庭で写真を撮るの。桜がきっときれいよ、清春』
「桜はきれいだった。だが、おれはひとりだったよ」

 ふと、清春は自分の声と言葉が元に戻っているのに気がついた。姿はまだ七歳のままだが、思考と声音はもとに戻っていた。
 七歳の時に傷ついたきり三十三歳になった清春が、戻ってきた。

 清春の声音が戻ると同時に、白く形作《かたちづく》られていた万里子の姿がぐらっと崩れた。
 形が崩れたまま、万里子の泣き声だけが清春の部屋に響く。

『いやよ、いや。清春が待っているの、あたしは仕事に行かない。清春を教室に迎えに行くのよ』
「かあさん、大丈夫だ。柳さんがきたよ」

 清春は静かに答えた。しかし白い万里子の影は叫び続けた。

『あの子は教室で待っているの。あたしが行くのを待っているのよ。
 ダメダメダメ。あの子と約束をしたの。タコの形のウィンナーを作ってあげるって。あの子はあたしのお弁当なんて食べたことがない。あれが食べたいって、ずっと言っているのよ。
 あたしだって一度くらい、仕事に行かずに息子のお弁当を作りたいの』
「かあさん」

『きよはる、きよはる! あの子を残しては死ねない。だって、あたしの息子はまだたったの十四歳なのよ、十四歳の男の子をひとりだけおいて、どうなるの。
 きよはる!
 まだかあさんは、死にたくない。あなたをのこして、死にたくないの!』
「かあさん」

 と言って、清春はグズグズに形のくずれた白い渦巻きに近づいて、そっと抱きしめた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

十年目の離婚

杉本凪咲
恋愛
結婚十年目。 夫は離婚を切り出しました。 愛人と、その子供と、一緒に暮らしたいからと。

振られた私

詩織
恋愛
告白をして振られた。 そして再会。 毎日が気まづい。

夫を愛することはやめました。

杉本凪咲
恋愛
私はただ夫に好かれたかった。毎日多くの時間をかけて丹念に化粧を施し、豊富な教養も身につけた。しかし夫は私を愛することはなく、別の女性へと愛を向けた。夫と彼女の不倫現場を目撃した時、私は強いショックを受けて、自分が隣国の王女であった時の記憶が蘇る。それを知った夫は手のひらを返したように愛を囁くが、もう既に彼への愛は尽きていた。

ずぶ濡れで帰ったら彼氏が浮気してました

宵闇 月
恋愛
突然の雨にずぶ濡れになって帰ったら彼氏が知らない女の子とお風呂に入ってました。 ーーそれではお幸せに。 以前書いていたお話です。 投稿するか悩んでそのままにしていたお話ですが、折角書いたのでやはり投稿しようかと… 十話完結で既に書き終えてます。

皇太子夫妻の歪んだ結婚 

夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。 その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。 本編完結してます。 番外編を更新中です。

貴方の事なんて大嫌い!

柊 月
恋愛
ティリアーナには想い人がいる。 しかし彼が彼女に向けた言葉は残酷だった。 これは不器用で素直じゃない2人の物語。

選ばれたのは美人の親友

杉本凪咲
恋愛
侯爵令息ルドガーの妻となったエルは、良き妻になろうと奮闘していた。しかし突然にルドガーはエルに離婚を宣言し、あろうことかエルの親友であるレベッカと関係を持った。悔しさと怒りで泣き叫ぶエルだが、最後には離婚を決意して縁を切る。程なくして、そんな彼女に新しい縁談が舞い込んできたが、縁を切ったはずのレベッカが現れる。

処理中です...