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第二章「まだ、行かないで」
第15話 「あたしの知っている清春は子供だもの」
しおりを挟む井上清春《いのうえきよはる》は、亡くなったはずの母の姿を十九年ぶりに見て、茫然《ぼうぜん》として言った。
「かあさん、こんなところで何をしているんだ。どうせなら、親父のところにいってやれよ。あのひと、あなたが亡くなってからもうめちゃくちゃに働いている」
清春がそういうと、母親である井上万里子《いのうえまりこ》は生きていたころと同じく、ぷっと柔らかそうな頬をふくらませた。
『あなたが、お父さんを助けなくちゃダメじゃないの、清春』
「とうさんは、おれの助けなんかいらないよ。あの人が必要としているのは、昔も今もあなただけだ」
ふっと、井上万里子は目を伏せた。そのしぐさをみて、清春は鋭い声で言った。
「かあさん、佐江《さえ》はどこだ。佐江をどこに隠したんだ」
『清春、あたしはあなたと話したいのよ』
「はなし?話なんて、佐江がいてもできる。佐江を返さなきゃ、ぼくは、一言もはなさないからね」
ふと、清春は自分の声が甲高《かんだか》くなっているのに気がついた。あやしく思い、自分の手を見て、あっと声を上げた。
「なんだよ、これ。かあさん!僕、ちぢんでいる!」
『だって、あたしの知っている清春は子供だもの』
「あれから、十九ねんもたっているんだよ。かあさん、ぼく、どんどん小さくなっているよ!」
だって清春、と井上万里子は笑って言った。
『あたしの息子は七歳よ。まだ七歳なの。これから入学式に行くんだもの』
「にゅうがくしきは、もうおわったよ、かあさん。やなぎさんが、むかえにきた」
清春の言葉を聞いて、井上万里子は笑ってかぶりを振った。
『きよはる、何を言っているの?入学式はこれからでしょう。おとうさんと一緒に、三人で行くのよ。
三人でどこかに出かけるなんて久しぶりね。おとうさんは、最近ちょっと忙しすぎるわよね』
「おわったよ、母さん。入学式はもうおわったんだ。桜が咲いていた。僕は一人で、柳さんがいたけど、やっぱりひとりで。かあさん、きょうかしょがいっぱいあったよ」
『おわってない、終わっていないわ、清春』
井上万里子は悲しそうに清春に言った。
『まだ終わっていないわ。これから行くのよ。三人で、校庭で写真を撮るの。桜がきっときれいよ、清春』
「桜はきれいだった。だが、おれはひとりだったよ」
ふと、清春は自分の声と言葉が元に戻っているのに気がついた。姿はまだ七歳のままだが、思考と声音はもとに戻っていた。
七歳の時に傷ついたきり三十三歳になった清春が、戻ってきた。
清春の声音が戻ると同時に、白く形作《かたちづく》られていた万里子の姿がぐらっと崩れた。
形が崩れたまま、万里子の泣き声だけが清春の部屋に響く。
『いやよ、いや。清春が待っているの、あたしは仕事に行かない。清春を教室に迎えに行くのよ』
「かあさん、大丈夫だ。柳さんがきたよ」
清春は静かに答えた。しかし白い万里子の影は叫び続けた。
『あの子は教室で待っているの。あたしが行くのを待っているのよ。
ダメダメダメ。あの子と約束をしたの。タコの形のウィンナーを作ってあげるって。あの子はあたしのお弁当なんて食べたことがない。あれが食べたいって、ずっと言っているのよ。
あたしだって一度くらい、仕事に行かずに息子のお弁当を作りたいの』
「かあさん」
『きよはる、きよはる! あの子を残しては死ねない。だって、あたしの息子はまだたったの十四歳なのよ、十四歳の男の子をひとりだけおいて、どうなるの。
きよはる!
まだかあさんは、死にたくない。あなたをのこして、死にたくないの!』
「かあさん」
と言って、清春はグズグズに形のくずれた白い渦巻きに近づいて、そっと抱きしめた。
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