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最終章「薤露青(かいろせい)」~清春×佐江 編

第62話「初めての男の舌と唇」

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(UnsplashのESMA // 에스마が撮影)

 しだいに華やかさを増してくるホテルの廊下を男と歩きながら、佐江の頭はどんどん記憶をさかのぼっていく。
 さっきホテルのレセプションカウンターで会った、最愛の真乃の姿。
 それから6年前の、井上清春。

『まず、キスから始めよう』

 あの夜、清春はそう言って、佐江の身体を初めてひらいていった。
 軽いキスから始めて、やがて佐江の下唇を軽く噛み、唇が開いた瞬間に舌をすべり込ませた。

 19歳の佐江は、初めての男の唇と舌を夢中で受けた。
 最初のキスから清春は佐江を圧倒し、愛撫の間じゅう耳元で佐江の名をささやいた。まるで欲情をこらえかねるように。
 『さえ』という音が清春の声帯を経由すると、この世のものとは思えないほど甘く柔らかく聞こえた。
 あれほどやさしい男の声を、今も佐江は聞いたことがない。

 清春の口と指によって、佐江は想像をはるかに超える悦楽を教えられた。
 その日は、男との経験がまったくなかった佐江を思いやり、清春は最後まで求めなかった。そして佐江はそれ以来、どんな男ともキス以上は進めなくなった。

 今でもあの夜のことを夢に見る。
 佐江の唇から口紅をぬぐい取った清春の長い指。軽いキスに続く、深い深いキス。そして佐江の乳房に初めて触れた男の唇と舌。

『真乃のこと、一晩でいいから忘れてみろよ。きっと楽になるぜ』

 清春はそう言った。そして佐江はほんとうに、一晩だけ最愛の真乃を忘れた。
 佐江は清春によって、男と寝る快楽の入り口まで連れていかれたのだ。

 それなのに。

 岡本佐江は、あの初めての夜以来いちども身の内が震えるような快楽にめぐり合っていない。
 どの男の手も、清春ほどの愉悦を佐江にもたらさなかった。
 男が熱心に動けば動くほど、佐江の頭は冷たく冴えていく。そしてひんやりした感覚の中で、清春とのことは夢だったのではないか、と思うのだ。

 とはいえ。
 あれを夢と決めてしまうには、あまりにも明快な快感が佐江の骨の底に、まだ残っている。
 6年が過ぎても、清春から香った汗と、間違えようのない興奮のにおいを忘れられない。
 忘れようと思ったこともない。
 それでも、あれは夢にするしかない、と佐江の理性は言う。

 夢でまぼろしで、現実のものではなかった。
 だからあれきり清春は連絡をよこさず、真乃と佐江を見ても顔色すら変えないのだと、納得するしかなかった。

 夢で幻で現実に起きなかったことなら、と佐江は思う。
 佐江が今日、安原とともにコルヌイエホテルを訪れても問題はないだろう。
 そう思ってやって来たのだが、佐江はコルヌイエホテルに足を踏み入れた瞬間から、清春の大きな手が背中に当てられている気がして、仕方がない。

「……でも、今はレセプションじゃなくて、バー勤務だと言っていたし」

 佐江がつぶやく。安原が聞きとがめて、

「なにが、バーなんだ?」
「ああ、知り合いがここで働いているんです」
「へえ? ねえ、佐江。感心しないな、ホテル勤めの知人がいるなんて。ちゃんとした女性は企業で働くか、実家にいるものだよ」

 佐江はあきれてしまった。
 今どき、実家にいる女なんて存在するのか? 
 そう思っていた時、後ろから名を呼ばれた。やや金属音の混じった、高い声。若い女の声だ。

「岡本さんよね? なつかしいわ、大学を卒業してから会っていないでしょ? あなた、仕事なんかしているっていうから、びっくりしちゃった」

 佐江は振り返る。
「まあ、理奈」

 後ろにいたのは高校時代からの同級生だ。ふんわりしたベビーピンクのワンピースを着た理奈は、学生時代から男遊びが派手なことで有名だった。
 そのわりに、ろくな男を捕まえない事でも知られていた。

「よかった、あたし、このパーティに呼ばれたんだけど、あんまり知り合いがいないのよね。一緒に行きましょうよ」

 ぐい、と理奈は佐江の手を取った。いきなりの闖入者だが、安原もかわいらしい雰囲気のリナを見て、不機嫌ではないようだ。
 理奈が、ごくごくさりげなく佐江と安原のあいだに入ってきたのに気づいて、佐江はひそかにうなずく。
 この厚かましさは利用できる。佐江にとっては便利な女だ。
 3人は既に人であふれているパーティ会場に入っていった。
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