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第17章「香港にいる男」
第143話「香港にいる男」
しおりを挟む(UnsplashのAlimarelが撮影)
北方はマスターにたずねた。
「電話してもいいかい?」
マスターはバーに低く流れつづけるジャズの音量を上げた。北方はうなずき、
「悪いね、すぐにすむから」
そう言いながら、御稲はなかなかバーカウンターに置いたスマホにふれようとしない。
一杯めのアラスカはすぐ空《から》になり、マスターがだまって二杯めを出す。
それもたちまち空になり、三杯めを口に持って行って御稲ははじめてグラスを見た。
おどろいたように、声を上げる。
「なんだよ、”グリーンアラスカ”じゃないか。いつものジョーヌを使った”アラスカ”でよかったのに」
口元をへの字に曲げたマスターが軽くあごでカウンターをしめした。
「あんた、ジョーヌの”アラスカ”はもう二杯のんだよ。三杯めはあんたが気づくかどうかと思って、リキュールをヴェールに変えて”グリーンアラスカ”にしてみた」
「そうか。すまなかったね、こんないい酒を水みたいに飲んじまって」
「いいがね。しかしあんたがそんなに考えこんでいるのは、珍しい」
北方は60を過ぎた女にしては美貌が残りすぎた顔を軽くゆがめて、苦笑《にがわら》いした。
「やりたくない仕事なのさ」
「やめればいいだろう。あんたくらいの年になれば、たいていのわがままは通せるもんだ」
北方はあきらめたように頭を振り、
「こいつは紀沙《きさ》の置きみやげだ。どうしようもないんだ。死んだ人間との約束こそ、最強だろ」
ああ、とマスターはうなずいた。
「あのお連れさんか。ん、置き土産?」
「死んだんだよ、3カ月前にね―――あたしを置いて。先に。ひとりで」
「そいつは、投げ出せねえ仕事だな」
マスターはもう一度ひしゃげた耳にさわり、グラスを洗い始めた。
北方はあきらめたようにスマホを手に取り、コールする。
この日のために、北方のスマホはつねに海外と連絡が取れる機種になっている。
24年前から、ずっと。
やがて――電話がつながる。
香港と日本の時差はマイナス1時間。日本が1時間だけ、いつも先にいっている。
いま日本は23時、香港はまだ22時だ。
相手も宵《よい》っぱりだから、電話に出た声はまだまだ眠気などまったくなく、仕事の真っ最中という雰囲気だった。
底さびた声が、電話ごしに御稲に呼びかけた。
「―――北方《きたかた》か?」
この声を聴くのも24年ぶりだ、と北方御稲は目を閉じた。
聞きたくなかった声だ。
北方が、ぜったいに伝えたくなかったことを言わねばならない。
しかしそれも、紀沙の置き土産だ。親友の最後の願いだった。
「北方なんだろう?」
電話口で、相手がじれったいように声量をあげた。
この男は、と北方は思う。
若いころから我慢のきかない男だった。せっかちで、いつでも路上を飛ぶように駆け抜けて、北方の手の中から大切な大切なものをひっさらっていった男だった。
暗いバーカウンターには、飲みかけの緑色の酒がグラスに残っている。
「悪いしらせがある」
北方はゆっくりと、香港にいる男に向かってそう言った。
相手が息を飲むのが、わかった。
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