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第15章「政治家の家族」
第127話「春尾夫人」
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(guillermo gavillaによるPixabayからの画像)
華やかな名古屋ホテルのレセプションホールで、翡翠色の着物をはんなりとまとった春尾夫人の声がのどかに続いた。
決して声を荒《あら》げることなく、しかし何もかもを自分の意のままに動かすからくりを知り抜いている女性の声。
「ねえ、環さん。せっかく紀沙さまが長いあいだ続けられた絵手紙教室ですもの。この時期にお休みされてはもったいない気がしますわね? わたくしのまわりのかたも、皆さま、再開を心待《こころま》ちにしておられますのよ」
「そうですね。でも私では、おばのように水墨画をみなさまにお教えすることができないのですが……」
「だから、春尾さまがいらしてくださったんじゃないの」
環の声の上に、聡の叔母・野江《のえ》の甲高《かんだか》い声がかぶさった。
環の背後にいる今野《こんの》の身体がぴりりと反応する。しかし環はわずかだけ身体をかたむけて、今野に『大丈夫です』と言うメッセージを送った。
それで一気に猛《たけ》りたった若い男の気配が、水を打ったように消えた。
聡は後援会幹部と話しながら、内心で、にやりとする。なるほど環はすでに今野の扱い方を覚えたようだ。
ふと聡は思う。
今野は環を守っているつもりで、実は環に守られているのかもしれない。
その証拠に、今日の環は野江からどれほどきつい物言いをされてもびくともしない。
野江はイライラして続けた。
「あのね、環さん。春尾さまは、絵手紙教室の先生を代わってくださってもいいと、こうおっしゃるの。いっそお願いしたらどうかしらね」
「お願いできればうれしいのですが」
環は早すぎる展開について行けず、とまどっている。そこへまた、春尾夫人ののどかな声が聞こえた。
「ええ、ちょうど主人《たく》の父が絵を描きますので聞いてみましたら、手本を描いてもいいと申しますし。
わたくしも義父《ちち》から多少の手ほどきを受けておりますので、紀沙さまのようにはまいりませんが、まねごとでよければ、お助けできますわ」
「あ……でしたらぜひ、お願いいたします。あの、お義父《とう》さまとおっしゃるのは……?」
環が無邪気にたずねると、野江がフン、と盛大に鼻を鳴らした。
「名古屋の日本画家で”春尾”さまといったら、”春尾竹水《はるおちくすい》”先生に決まっているでしょう」
「はるお、ちくすい先生!」
さすがに環が大きな声を出した。
聡は自分も後援会幹部と会話しながら、ひそかに驚いた。
春尾竹水《はるおちくすい》と言えば、数年前に文化勲章を受賞した日本画の巨匠だ。
名古屋生まれで名古屋育ち、今なお名古屋に在住という日本画壇の重鎮で、繊細な絵柄から”美人画の神”と呼ばれている。
野江は、長年にわたって自腹《じばら》を切って美術関係のNGO団体を運営してきており、ついに春尾竹水のような大物画家の身内まで、聡の選挙陣営に引っ張ってきたらしい。
さすが、野江おばさんだ。
聡は内心で舌を巻いた。環も、
「野江さま……ありがとうございます」
と、ふかぶかと頭を下げた。
野江は太った顔をわずかに赤らめ、ますます盛大に鼻を鳴らしながら、
「お礼を申し上げるのは、わたしじゃなくて春尾さまへでしょう」
「はい、もちろんです。ありがとうございます」
「ああ、うれしいこと。これでわたくしも些少《さしょう》ながら、亡くなられた紀沙《きさ》さまのご恩にむくいることができますわ」
春尾夫人ののんびりした声がつづいた。
華やかな名古屋ホテルのレセプションホールで、翡翠色の着物をはんなりとまとった春尾夫人の声がのどかに続いた。
決して声を荒《あら》げることなく、しかし何もかもを自分の意のままに動かすからくりを知り抜いている女性の声。
「ねえ、環さん。せっかく紀沙さまが長いあいだ続けられた絵手紙教室ですもの。この時期にお休みされてはもったいない気がしますわね? わたくしのまわりのかたも、皆さま、再開を心待《こころま》ちにしておられますのよ」
「そうですね。でも私では、おばのように水墨画をみなさまにお教えすることができないのですが……」
「だから、春尾さまがいらしてくださったんじゃないの」
環の声の上に、聡の叔母・野江《のえ》の甲高《かんだか》い声がかぶさった。
環の背後にいる今野《こんの》の身体がぴりりと反応する。しかし環はわずかだけ身体をかたむけて、今野に『大丈夫です』と言うメッセージを送った。
それで一気に猛《たけ》りたった若い男の気配が、水を打ったように消えた。
聡は後援会幹部と話しながら、内心で、にやりとする。なるほど環はすでに今野の扱い方を覚えたようだ。
ふと聡は思う。
今野は環を守っているつもりで、実は環に守られているのかもしれない。
その証拠に、今日の環は野江からどれほどきつい物言いをされてもびくともしない。
野江はイライラして続けた。
「あのね、環さん。春尾さまは、絵手紙教室の先生を代わってくださってもいいと、こうおっしゃるの。いっそお願いしたらどうかしらね」
「お願いできればうれしいのですが」
環は早すぎる展開について行けず、とまどっている。そこへまた、春尾夫人ののどかな声が聞こえた。
「ええ、ちょうど主人《たく》の父が絵を描きますので聞いてみましたら、手本を描いてもいいと申しますし。
わたくしも義父《ちち》から多少の手ほどきを受けておりますので、紀沙さまのようにはまいりませんが、まねごとでよければ、お助けできますわ」
「あ……でしたらぜひ、お願いいたします。あの、お義父《とう》さまとおっしゃるのは……?」
環が無邪気にたずねると、野江がフン、と盛大に鼻を鳴らした。
「名古屋の日本画家で”春尾”さまといったら、”春尾竹水《はるおちくすい》”先生に決まっているでしょう」
「はるお、ちくすい先生!」
さすがに環が大きな声を出した。
聡は自分も後援会幹部と会話しながら、ひそかに驚いた。
春尾竹水《はるおちくすい》と言えば、数年前に文化勲章を受賞した日本画の巨匠だ。
名古屋生まれで名古屋育ち、今なお名古屋に在住という日本画壇の重鎮で、繊細な絵柄から”美人画の神”と呼ばれている。
野江は、長年にわたって自腹《じばら》を切って美術関係のNGO団体を運営してきており、ついに春尾竹水のような大物画家の身内まで、聡の選挙陣営に引っ張ってきたらしい。
さすが、野江おばさんだ。
聡は内心で舌を巻いた。環も、
「野江さま……ありがとうございます」
と、ふかぶかと頭を下げた。
野江は太った顔をわずかに赤らめ、ますます盛大に鼻を鳴らしながら、
「お礼を申し上げるのは、わたしじゃなくて春尾さまへでしょう」
「はい、もちろんです。ありがとうございます」
「ああ、うれしいこと。これでわたくしも些少《さしょう》ながら、亡くなられた紀沙《きさ》さまのご恩にむくいることができますわ」
春尾夫人ののんびりした声がつづいた。
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