「何もない、静かな部屋」 キスを待つ頬骨シリーズ2.5

第12章「あれは、夢か？」

第104話「さびしいさびしい、一匹だけの麒麟」

（UnsplashのMeghan Holmesが撮影）

　美貌のホテルマン井上は、麒麟像《きりんぞう》に背を向けてゆっくりと歩き始めた。
　聡の目の前にある広い背中は、男の色気を噴きこぼしながらも切ないほどに空っぽで、肩甲骨の下にむやみと空間があった。

　それは、本性《ほんしょう》である羽根を隠してしまっている麒麟に似ていた。
　さびしいさびしい、一匹だけの麒麟の背中。
　一生にひとつだけの恋を、天に塞《ふさ》がれたまま終える覚悟をした男の背中だ。

　だが井上の背中を見るうちに、聡の脳裏には、昨夜の女性の“揺らぎ”がよみがえった。
　コルヌイエホテルの暗い廊下に井上に背を預けて立ち、背後から男に軽くネックレスを引かれていた女性の姿だ。迷いながらも一度は男の腕に落ち込みそうになっていた、あのしなやかな背中。

　あのとき、と聡は歩きながら考えた。
　あの時、あの女性は背後を見もしないで、引き寄せられる指のほうへそのまま倒れ込もうとしていた。
　暗いホテルの廊下にありながら何の不安も見せず、まるで背後に必ず自分を受け止めてくれる男がいると信じきっているかのように。

　そこにあったのは、愛情と信頼ではなかったのか。

　聡には、柳の若木のような女性と美貌のホテルマンのあいだに、これまでどういういきさつがあったか知りようがない。
　わからないなりに、長い時間をかけてふたりの人間の意地とプライドがぶつかりあい、入り組んだ関係を作って、昨夜ホテルの廊下で火花を散らしていたのは理解できた。

　もし、と聡は思った。
　もし井上の言葉がダークスーツの外へ出ることがあれば、それで世界は変わるだろう。
　麒麟像の頭上をふさぐ首都高は消え、井上は昼も夜も自由に世界を泳ぎ回る美しいケダモノになるはずだ。
　愛するものを得て。あの美しい柳の若木を傍らに置いて生きていくだろう。

　ひょっとしたら、羽根を隠しこんだ麒麟は、声に出せない恋情のあげくにとうとうあの女性を手に入れかけているのかもしれない。

　麒麟はまだ気がついていないが。
　あの女性はきっと気づいている。
　聡には、そんな気がする。

　そして聡には、一言で音也と聡の世界も変わると思うのだ。

　変えてやる。。
　変えてやる。おれの言葉と俺の覚悟で、おまえの一生を変えてやる。

　だから。
　帰ってこい、音也――。