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第9章「何かを我慢している男は、どうしてこんなに美しいのだろう」
第61話「この切なさは、どこへ行く」
しおりを挟む聡のかくれる斜め向かいのスイートルームから、女性のおだやかな声が聞こえた。
「『この部屋』がいいんです。朝までいさせてください」
女性がきっぱりと言いきると、有能なホテルマン・井上のかっちりとした立ち姿が、はじめて揺《ゆ》らいだ。
つねに余裕を持ち、コルヌイエホテル内で起きるどんなトラブルにも顔色ひとつ変えたことのない男が。
名古屋から定期的に上京しては当たり前のように無理難題《むりなんだい》を吹っかけた聡の母、松ヶ峰紀沙《まつがみね きさ》のようなゲストにも、子供をあやすような微笑で応《こた》えてくれた男が。
たった一人の女性の前で、揺らいでいた。
井上の百八十センチ以上ある細身《ほそみ》の身体が、ダークスーツのなかでひそやかに動いた。
上質のサマーウールの中で、大きな肩が、すううっと広がっていく。
29歳の男の身体に、ひそみかくれるバネのようなものがダークスーツの中でたわんだ。
まるで獲物に襲いかかる直前のけだもののように。
井上が口を開いた。
「きみにとっては、ここが天国ということか?
まのが寝込んでいる、ちっぽけなスイートが」
こたえる女性の声は、トゲを帯《お》びて聞こえた。
「まのが心配なんです。あたしは彼女の親友ですもの、当たり前でしょう?」
「『親友』ね」
ぽつん、と井上が言う。
聡には、井上の着ているネイビーブルーのスーツが暗い照明のもとで海底のように見えた。
それを着ている井上は、獰猛《どうもう》な深海魚のようだ。
有能なホテルマンとして、一部のスキもなく磨き上げられた男は、スーツのポケットに手を突っ込んだ。
困ったように笑っている。
いや、困っている顔ではない、と聡は思った。
切《せつ》ない恋をしている男の顔だ。
そして、この切なさは、どこへ行くのだ? と聡は思った。
井上はしばらく黙り込み、やがて軽く肩をすくめた。
スーツからあやうく飛び出すところだった獰猛性《どうもうせい》が、静かに引き下げられる。
たくみな、ホテルマンの手で。
切なさより理性を優先させる男は、感情をねじ伏せた。
「じゃあこのまま、この部屋でいいんだね?」
「もちろんです。あの、キヨさん」
「うん?」
「まのの看病に、よんでいただいてありがとうございました」
女性が丁寧に礼を言うと、井上は一瞬だけ言葉につまったようだった。
しかしすぐにいつもの滑舌《かつぜつ》の良さを取り戻して、きびきびと答えた。
「礼《れい》を言われるほどのことはありません。
きみは、おれが呼ばなければ、ぜったいに、おれのところには来てくれない。だから、呼んだまでです」
「まののためでしたら、いつでもまいります」
「友情のため?」
ふっと沈黙が夜の底を支配する。
次に聞こえたのは、女性の声だった。
おだやかだが自分の意志をはっきりと持ち、欲しいもののために戦うことを知っている大人の声が、深夜の廊下にくっきりと響いた。
「友情じゃありません。あなたは、ご存知《ぞんじ》でしょう」
その声の強さに、聡はたじろぐ。
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