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第8章「今夜、音也とふたりきり」

第55話「防波堤」

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(UnsplashのArtem Beliaikinが撮影)

 音也《おとや》の瞳は、静かで底がないほどに深く、ひとが命を投げうってでも沈み込んでみたいと思う美しさを持っている。
 聡は引き込まれそうになりながら、岩壁《がんぺき》に手がかりを打つように答えた。

「おれは家族だから、おふくろの遺した財団法人の理事になってもおかしくない。
 御稲《みしね》先生はおふくろと姉妹同然だったし、弁護士の三木《みき》先生たちはおふくろに頼まれたんだろう。

 だが、おまえは? おまえは一体、なぜ理事になっていたんだ」
「頼まれたんだ、紀沙《きさ》さんから」

 音也は簡単に答えた。

「紀沙さんは環《たまき》ちゃんのことを心配して、彼女に『金を残したい』と言っていた。
 ただ遺贈するだけじゃなく、あの子の生活がこの先《さき》の何十年にもわたって安泰である形で渡したいと」

 ふう、と聡はため息をついた。

「どんなことでも先手を打っておく。おふくろらしい、やり口《くち》だな」
「紀沙さんは、あの子を愛していらした」

 音也は声のトーンを落として、ささやくように言った。

「環ちゃんを、この世のどんなものより愛していらした。
 だけど紀沙さんが亡くなったら、松ヶ峰の家は環ちゃんを守ってくれない。 

 だから金を投資信託の形で残し、おまえに彼女を託《たく》したんだ」
「たまちゃんは家族だ。まちがいなく守るよ」

 聡は、新幹線の振動に乗せて答えた。
 ゆら、と音也の美貌が近づく。
 いよいよ声を落とし、誰にも聞かれないようにささやく。

「そうだ。
 環ちゃんは、血縁的にも法律的にもおまえの家族じゃない。
 あの子を守るには、結婚するのが一番いい方法だ。そう思わないか聡?」
「思わねえな」
「――サト」

 音也がそっとのぞき込んできた。その視線には、もうどんな企《たくら》みも嘘もないように見える。

「頼む。
 いずれおまえは、政治家として妻を持たなきゃいけない。後援会から妙な女を押し付けられる前に、環ちゃんと結婚してくれ。

 あの子なら、耐えられる。
 お前の隣にいる女があの子なら、俺もやっていけるんだ」
「……やっていける? どういう意味だ、音也」

 音也の目が眼があやしく光り、音也はみずからの肉に鋭い刃物を食いこませてゆく人のように、うわうわした声でつぶやいた。

「あの日、俺は紀沙さんと約束した。

 『松ヶ峰聡』を、一語のスキャンダルもない政治家にしてみせますって。
 日の当たる道を歩く、公明正大な男にしてみせますって。

 やくそく、したんだよ」

「……あの日って、いつだよ」

 音也は答えず、目を閉じてつぶやく。

「……環ちゃんは『防波堤』なんだ。
 お前を泥の海に突き落とさないための防波堤だ。
 俺の手を縛っておくための防波堤だ。

 聡。
 あの子以外の女を隣に立たせたら、俺はそいつはぶち殺すぜ」

 ごくっと、聡ののどぼとけが鳴った。冷たい汗が全身から噴き出し、聡の皮膚を濡らしてゆく。

 ここにいるのは、いったい誰だ?

 少なくとも、聡の知っている冷静沈着な音也では、ない。
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