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第7章「今野哲史」

第50話「この子はもう、他の男とキスをしちゃったかな」

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 環《たまき》は軽やかに椎の巨木に登りながら、ともに木に取りついている今野《こんの》に向かって笑った。

「枝選びに、コツがあるんです。正しい枝さえつかめれば、すぐに上がれるんですよ。
 お忘れかしら、あたしはこの家で子供のころから育ったんです」

 環はふっくらした腕を伸ばしてひょいと枝に手をかけ、たちまち次の枝へよじ登る。
 今野の目の前を、ピンクベージュのフェラガモが追い越して行った。

「そりゃねえわ、環ちゃん。反則だぜ」
「この先に、座るのにちょうどいい枝があるんです。まだあるかしら……ああ、これだわ」

 環は枝を見つけると子リスのようにふんわりと座り、まだ下にしがみついている今野に笑いかけた。

 少女のような笑顔。
 藤島環が天然自然《てんねんしぜん》に持っている、すこやかな笑いだった。

 ふっと今野の手がとまる。

「今野さん?」
「……そりゃねえわ、環ちゃん。その顔は、反則だぜ」

 環の頬は、初夏の午後の木登りでほんわりとピンク色になっている。
 控えめな口紅とおしろいをはたいただけの若い女の顔は、今野の知らない少女時代の環につながっていた。

 今野とはまるでかけ離れた世界に生まれ育った少女の顔だ。

 松ヶ峰紀沙《まつがみね きさ》と聡に守られて、愛らしいエナガのように育った少女。
 透明な花に似た香りをはじけさせ、清浄な処女《おとめ》の香りのまま、しかるべき家に嫁いでゆく女の顔。
 
 今野は、知らないうちに環に向かって手を伸ばしていた。
 初夏の夕暮れの最後のまたたきに向かって、無為《むい》に手を伸ばしているようなものだ。

 永遠に届かない距離。
 今野哲史《こんのてつし》が左手を伸ばしきった時、環の声が悲鳴のように響きわたった。

「今野さん、あぶない!」
「え?」

 その瞬間、3メートルの高さまで登っていた今野は、椎の木から落ちかけた。
 こういう瞬間、人の目はスローモーションのように情景をうつすものだ、と今野は初めて知った。

 樹上《じゅじょう》にいる、可憐《かれん》なエナガのような環。
 環が、ふくふくとした手を今野に向かって伸ばし、目を見開いている様子。

 それから、今野に向かって何か叫んでいる環の唇。

 あのくちに、キスしたい。

 今野は上半身をすでに椎の木から浮かせた状態で、思った。

 キスしたい、キスしたい。
 この子はもう、他の男とキスをしちゃったかな。
 俺だけのものにしたい、環の唇は。

 俺だけの、もの―――。

 今野が枝をつかんでいた右手さえ放してしまったとき、信じられない光景が目にうつった。


 環が、跳《と》んでいる。
 落ちてゆく今野に向かって、環がとんできた。
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