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第2章「白日の影のごとく」
第13話「過酷な芸術にすべてをささげている修行僧」
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(UnsplashのTim Gouwが撮影)
その日、松ヶ峰聡は名古屋市内の覚王山駅で地下鉄をおりた。駅から地上にあがると、まぶしい日の光が聡の眼を刺す。
聡は形の良い唇をとがらせて、
「四月なのに、もう暑いな」
とつぶやいた。それからゆっくりと、|《にったいじ》・覚王山へつづく参道の坂道を上がりはじめた。
今日の聡は一人だ。
政治秘書である楠音也は事務所の無給スタッフと、なぜか環を連れて不動産屋へ行っている。
聡の選挙事務所用の土地と建物を押さえてしまうためだ。
何もかもが聡を置いてきぼりにして、すさまじいスピードで進んでゆく。
選挙準備は有能な政治秘書・楠音也の手によって、わずかの無駄もなく運営されているので、聡にはほとんどやることもない。
聡はため息をつきながら道をゆく。
参道、と言ってもまっすぐなアスファルトの車道と歩道のゆるい坂道がつづくだけだ。道の両脇には小さな店がぎっしりと並んで暖簾をはためかしていた。
聡は途中の店に入り、ちいさな瓦せんべいを買う。
こんなものが、これから聡が会おうとしている女性・北方御稲の好物なのだ。
坂道を上がりきったあたりで聡は角を入り、今度は斜めにくだる坂を降りはじめた。
狭い道を、車がせわしなくすれ違っていく。
参道から奥へ入った坂に面して、大きな一枚ガラスの窓をしつら『えた建物がある。
曇りガラスごしに、女性たちのほっそりした姿がぼんやり透けて見えた。
『北方バレエスタジオ』だ。
若い女性ばかりがいるバレエスタジオに、聡は子供のころからよく母に連れられてきた。スタジオには看板も何もないが、聡は入口に立つだけで、いつも吹きつけてくる華やかさにおじけづく。
なぜなら北方のスタジオには、昔からどこまでもバレエに対して真剣な人たちが集まっているからだ。
めざすものや求めるものが、白日のもとにできる影のように、クッキリと見えている人間だけが入れる『別天地』なのだ。
聡のようにしじゅうユラユラと水草のごとく、揺れてばかりの人間にとって、おじけづくような空間だった。
とはいえ、今日の聡は、従妹の藤島環の『使い』である。
環に言われたことを果たさねば、環から恨みがましくにらみつけられる。
環のようなおとなしい女の無言は、聡にはけっこうこたえるものなのだ。
大きく息を吸いこむと、金属の手すりをつんでドアを開いた。
同時に、北方のキレのいい手拍子とぶっきらぼうな指示が、稲妻のように耳を打つ。その声の鋭さは、痛いほどだ。
「ロン・ド・ジャンブ・ア・テール、アン・ドゥオール、アン・ドゥダン、フォンデュ、フラッペ。
だめだめ、身体の軸がずれている。最初から!
プリエ、バットマン・タンジュ、ジュテ……」
聡がドアを開けたことで、あきらかに部外者の気配が闖入したはずなのに、レッスン中の生徒たちは、ふりかえりもしない。
ただ黙って鏡の前にあるバーに手を添え、御稲の鋭い言葉と正確な手拍子にあわせて、優雅な動きを繰り返している。
汗をにじませた彼女たちは、まるで修行僧だ。
バレエという華麗で、過酷な芸術にすべてをささげている修行僧たちだ……。
その日、松ヶ峰聡は名古屋市内の覚王山駅で地下鉄をおりた。駅から地上にあがると、まぶしい日の光が聡の眼を刺す。
聡は形の良い唇をとがらせて、
「四月なのに、もう暑いな」
とつぶやいた。それからゆっくりと、|《にったいじ》・覚王山へつづく参道の坂道を上がりはじめた。
今日の聡は一人だ。
政治秘書である楠音也は事務所の無給スタッフと、なぜか環を連れて不動産屋へ行っている。
聡の選挙事務所用の土地と建物を押さえてしまうためだ。
何もかもが聡を置いてきぼりにして、すさまじいスピードで進んでゆく。
選挙準備は有能な政治秘書・楠音也の手によって、わずかの無駄もなく運営されているので、聡にはほとんどやることもない。
聡はため息をつきながら道をゆく。
参道、と言ってもまっすぐなアスファルトの車道と歩道のゆるい坂道がつづくだけだ。道の両脇には小さな店がぎっしりと並んで暖簾をはためかしていた。
聡は途中の店に入り、ちいさな瓦せんべいを買う。
こんなものが、これから聡が会おうとしている女性・北方御稲の好物なのだ。
坂道を上がりきったあたりで聡は角を入り、今度は斜めにくだる坂を降りはじめた。
狭い道を、車がせわしなくすれ違っていく。
参道から奥へ入った坂に面して、大きな一枚ガラスの窓をしつら『えた建物がある。
曇りガラスごしに、女性たちのほっそりした姿がぼんやり透けて見えた。
『北方バレエスタジオ』だ。
若い女性ばかりがいるバレエスタジオに、聡は子供のころからよく母に連れられてきた。スタジオには看板も何もないが、聡は入口に立つだけで、いつも吹きつけてくる華やかさにおじけづく。
なぜなら北方のスタジオには、昔からどこまでもバレエに対して真剣な人たちが集まっているからだ。
めざすものや求めるものが、白日のもとにできる影のように、クッキリと見えている人間だけが入れる『別天地』なのだ。
聡のようにしじゅうユラユラと水草のごとく、揺れてばかりの人間にとって、おじけづくような空間だった。
とはいえ、今日の聡は、従妹の藤島環の『使い』である。
環に言われたことを果たさねば、環から恨みがましくにらみつけられる。
環のようなおとなしい女の無言は、聡にはけっこうこたえるものなのだ。
大きく息を吸いこむと、金属の手すりをつんでドアを開いた。
同時に、北方のキレのいい手拍子とぶっきらぼうな指示が、稲妻のように耳を打つ。その声の鋭さは、痛いほどだ。
「ロン・ド・ジャンブ・ア・テール、アン・ドゥオール、アン・ドゥダン、フォンデュ、フラッペ。
だめだめ、身体の軸がずれている。最初から!
プリエ、バットマン・タンジュ、ジュテ……」
聡がドアを開けたことで、あきらかに部外者の気配が闖入したはずなのに、レッスン中の生徒たちは、ふりかえりもしない。
ただ黙って鏡の前にあるバーに手を添え、御稲の鋭い言葉と正確な手拍子にあわせて、優雅な動きを繰り返している。
汗をにじませた彼女たちは、まるで修行僧だ。
バレエという華麗で、過酷な芸術にすべてをささげている修行僧たちだ……。
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