「何もない、静かな部屋」 キスを待つ頬骨シリーズ2.5

第1章「松ヶ峰聡を取りまく、煩瑣な事情」

第8話「音也の唇」

（Olya LoléによるPixabayからの画像）

　古いビートルの中に、冷たくとがった楠音也のバリトンが響き渡った。

「ちょうどいいタイミングだから、おまえに言っておく聡。紀沙きささんが亡くなった今、票読ひょうよみは、そっくりやり直しだ。
　正直に言うが、松ヶ峰家は長年ずっと紀沙さんが握っていた。
　先代が亡くなってから30年ものあいだ、紀沙さんひとりで切り回していた。あのひとは松ヶ峰家そのものだったんだよ。
　だからな―――」

　音也は安っぽいスーツのポケットから煙草を出して、聡に放り投げた。
　聡は箱を受け止めて、煙草を一本とる。今日の煙草は外国ものらしい薄いブルーの箱だ。
　フィルターなしの煙草を聡は火をつけずにくわえた。
　音也は冷静に続ける。

「言ってみれば、うちの陣営は選挙の半年前に松ヶ峰紀沙まつがみね　きさっていう大黒柱だいこくばしらをなくしたんだ。
　でかいダメージだよ、聡。
　紀沙さんは、選挙区の女性票を握っていたからだ」
「女性票……」
「そうだ、バカにするなよ、聡。
　このあたりでは固い女性票が一番信用できるんだ。
　おばさんたちは、いったん候補者を気に入ったら雨でも台風でも投票してくれる。男なんか目じゃないほど忠実な票なんだ。
　その信頼できる票をいかに味方につけるか、そこが選挙のヤマなんだよ」
「……おふくろはその票を握っていた、のか？」

　ふわ、と音也は薄い唇から煙草の煙を吐いた。

「そうさ。紀沙さんが何のために20年以上もボランティアで絵手紙教室の先生をやっていたと思う？
　謝礼は一切受け取らず、むしろ金は持ち出し。
　何のメリットもない絵手紙教室を毎週、千種区と名東区で続けてきた。
　なにもかも、おまえの地盤固じばんがためのためだ」

　聡は煙草に火をつけた。白い巻紙に、うすくアルファベットが印刷されている煙草は、火をつけると強烈な香りが立った。
　ゆっくりと煙を吐いてから、聡は言った。
　
「それで、おれに何をしろというんだ？
　あの性格のきつい、10も年上の従姉いとこと結婚でもすりゃ、それで満足なのかよ」

　いっそ、逃げ出したいと聡は思った。選挙なんかやめだ。
　そう言おうと口を開きかけたとき、何か華麗なものが近づく気配がした。


　音也だ。

　もっと正確に言えば、音也の唇が、聡の口もとにあった。
　音也の口から煙が立つ。

　ほの白い、異国の香りがする煙がふわりと聡の口に入ってきた。