「ここへおいで きみがまだ知らない秘密の話をしよう」

水ぎわ

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第三章

第13話 「『言って――あたしのために』」

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(UnsplashのAlexander Krivitskiyが撮影)

 イグネイは魔物の手元を見た。
 カラになった瓶。瓶についていたリボンはくるくる巻かれて、魔物のほっそりした指にからまっている。

「そのリボンに、名前が書いてあるんだな? 『秘密』の持ち主の」

 魔物は答えず、庵へ歩いていく。
 ゆっくりと陽が沈み、気が付けばあたりには宵闇の青さばかりが層になっている。イグネイは魔物の後を追った。

「なあ、取引しよう。
 俺は、俺の母の『秘密』が欲しい。母の瓶をくれたら、変わりに何でも手に入れてやろう。
 お前の望みを言え――魔物でも、欲しいものくらいあるだろう?」

 魔物は庵の前に立ち、何度か瓶を振ってしずくを落とした。そのまま瓶を逆さにして伏せて、扉を開いた。

「……魔物!」

 イグネイが叫ぶのを無視して、魔物は黄金の髪をゆすり、若木のような身体を扉の隙間にすべりこませた。
 ばたん、と扉がしまる。
 イグネイは扉にとりつき、激しく取っ手をゆすった。

「開けろ! おれには母の『秘密』が必要なのだ!」

 がちゃがちゃと乱れた音が宵闇の森に響く。
 一瞬だけ、鳥もウサギもリスも池に住むカエルも小魚も静まった。
 イグネイは狂ったように叫んだ。

「おれはトウィス・ガンウォーリス・アルタモントの息子だ!
 だが、アルタモント侯爵の子とは、限らん。
 おれはいったい誰の子供なのか。
 それを、知りたいのだ!」
 かたん、と最後の音が立った。
 叫びすぎたイグネイは息が乱れ、再びめまいに襲われた。
 扉の取っ手にしがみつくようにして、ずるずると身体が崩れていく。

 かすれた声で、つぶやいた。

「おれは――都へ戻ったら王姪をめとらねばならん。陛下の命令なのだ――だが、どうだ?
 もしおれが陛下の弟、ダウド公爵の子供だとしたら、どうなる?
 王姪がおれの異父姉だとしたら……姉と弟が契ることになる……おぞましい」

 きい、とかすかに扉がきしんだ。細い細い隙間から魔物の青い目が見つめる。
 イグネイは顔を上げ、宵闇より透明で宵闇より深い色の瞳を見返した。
 その透明すぎる瞳に疑惑をささやく。

「母は……おれの兄を産んでから、ダウド公爵のひそかな愛人だった」

 扉がもう少し開いた。魔物のすんなりした鼻があらわれる。
 イグネイはそっと手を伸ばし、魔物の鼻に触れた。前夜、池でおぼれかけたときに夜の池底で見た貝とよく似た、ひんやりとほの白い鼻だった。

 息を続けるように、魔物の鼻を撫でつづける。
 上から下へ、下から上へ。その規則的な動きが、次の言葉を引っぱりだした。

「おれの――おれの誇り高い母が、王弟の愛人でありたいと望んだのか、何か事情があったのかは、よくわからん。
 あのころ父は異国で捕虜になっていた。父の身代金は莫大で、アルタモント侯爵家では払いきれなかった。

 半年後、母は巨額の金を用意した。捕虜交換の交渉には、ダウド公爵が当たった。ダウド公爵は異国の王とつながりがあったんだ」

 きい、と扉が開いた。今度は柔らかく、赤い唇が現れた。イ
 グネイの指は、ためらいながら魔物の唇に触れる。
 なんども。
 なんども。

 指の動きを追って、告解のようなイグネイの言葉がほそく続いた。

「捕虜交換が成功して、金が支払われ、父は帰国した――八か月後、おれが生まれた」

 イグネイは恥じるようにささやいた。

「おれは、『月足らずの子』として生まれた――二カ月も早く生まれたのに、月満ちて生まれた子と同じ大きさ、同じ体をもって生まれた。
 たぶん――」

 言いよどんだ。
 魔物が唇を開く。
 イグネイの指が吸い込まれていく。魔物は宵闇と同じ濃さの青い瞳でじっとイグネイを見つめたまま、口にふくんだ指をかんだ。
 きゅ、と。
 指をかんだ。

 イグネイの長身が、びくりとする。
 魔物はもう何も言わない。ただふっくらした唇と、唾液と体温で男をうながしていた。

『そのまま言って――貴方のために』

 声にならない命令が指を伝ってイグネイの脳髄に伝わる。
 イグネイはあらく息を吐く。言葉はすでに飾りを引きはがされているのに、イグネイの誇りが最後の壁となってあらがった。

 だが、魔物はイグネイをたやすく操った。
 
 きゅ、とかまれた指先から言葉が流れ込む。

『言って――あたしのために』

 貴方のためではなく、あたしのために。


 イグネイの壁は、崩落した。
 彼は目を閉じ、震える唇でしゃべった。

「たぶん――父は分っていた。だからおれを愛さなかった。
母はもちろん、何も言わなかった。

 魔物よ、この世界で確実なものはたった一つしかない。
 人がどの腹から生まれたのか、ということだ。
 父親が分からずとも、子供が生まれた腹は、わかっている。
 だから秘密は――おれの母だけが知っている」
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