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第一章

第3話 「取引」

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(UnsplashのShannon Douglasが撮影)

 ひんやりした修道院の中で、ぽたり、と汗を垂らしながら老修道院長は言った。

 「……修道士をおどすとは、天を恐れぬ所業ですな」

 イグネイはただ、にやりと笑った。

「いまさら俺に、失うものはない。
 あの『秘密』が手に入らなければ、俺は自分が誰なのかすら、わからないままだ。
 神は、己の名を知らぬものに情けをくれるか?」
「……神は万物に宿り、万物にしろしめす。その温かさは太陽のごとく、あまねく世界に降りたもう」

 修道院長の言葉に、くくくっとイグネイは喉の奥で音を立てた。
 身体を引き、木の椅子にもたれて笑い続ける。

「明日、同じ言葉を、家を焼き尽くされた村人にいってみるんだな。
 この取引を飲まなければ、明日から地獄絵図を目の前で見ることになるぜ。

 強奪、略奪、子殺し、強姦。
 俺の兵士は天の軍勢にも、悪の軍勢にもなりうる。
 あんたの、言葉ひとつだ」

 ととっ、ととっという若い修道士の足音が扉ごしに聞こえてきた。
 2人でいられる時間は、もう長くない。

 イグネイが銀のゴブレットを傾けると、押し出されるように修道院長がささやいた。

「『秘密の番人』は、修道院内にはおらぬ」
「ほお……では、どこに?」
「『聖なる森』だ……修道院の北にある……それ以上のことは、しらん」
「ふうん。では修道院も村も、丸焦げだな」

 足音が扉の前で止まる。
 がちゃがちゃと、金属のゴブレットが扉にぶつかる音がする。
 修道院長は真っ青な顔でつぶやいた。

「今宵――」
「ああ、今宵?」
「真夜中に、礼拝堂の裏で」
「礼拝堂の裏」

 イグネイがつぶやく。がちゃりと扉の取っ手が回る。古い蝶番がきしむ。修道院長がささやく。

「礼拝堂の裏だ。明かりは、もってくるな――」

 ぎぎぎっ、と大きな音がして扉が開いた。巨体の修道士が金のゴブレットをもって立っている。
 修道院長の蒼白な顔を見て、じろりとイグネイをにらんだ。

「修道院長、ゴブレットをお持ちしました」
「ごくろうでした」

 ごとり、とゴブレットがおかれた。繊細な細工をした美しいものだ。
 銀のゴブレットの上で、金いろの少女がおどっている。

 イグネイはしげしげと眺めて、

「たいした美術品だ。略奪して宮廷へもっていけば、王が喜ばれるな」

 修道院長のゴブレットにワインをついだ。
 自分のゴブレットをふたりに掲げ、

「安寧な駐屯に。修道院と村に、神の守護が得られるよう」

 修道院長はにがにがしい表情でゴブレットを手に取った。

「天は、なにごとも力で解決しようとはなさいません。互いの尊敬と、慈しみに――」

 修道院長がワインを飲むのを、イグネイはひんやりした微笑で見守った。

「どうです、なかなかうまいワインでしょう。
 我が父、アルタモント侯爵の領地は良いブドウが獲れることで有名なんです。なにしろ――」

 イグネイは言葉を切り、石壁に作られた窓から外を見た。
 目に染みるほどの蒼天。ギラギラと照り付ける夏の太陽は中天にあり、やがてゆっくりと沈んでくる。
 みずからの道を知り尽くし、月に座を明け渡すために。

 イグネイは白っぽい顔でつぶやいた。

「アルタモン領は、土壌がいい。数百年にわたって無数の血と死体を飲み込んできた大地ですからね」

 立ち上がると持参のゴブレットのしずくを切り、テーブルに置いた。

「私のゴブレットはあずけておきましょう。またここに来ることになるでしょうからな」

 扉を開き、石の廊下を歩きはじめる。
 背後から、乾燥しきった枯れ枝のような足音が追ってきた。イグネイはくるりと振り返ると、

「修道院長、いまさら取引中止は聞かないぞ」
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