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第三章「「シンジ・過去に追い詰められる」
第18話 「おれの余白を、あなたで埋めて」
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おれは息をのんだ。椿が豹変している。頬が上気して、瞳がキラキラしていた。
あっというまにベルトで両手を縛りあげられた。ついでに、そのへんにあったタオルで足首も縛られる。
動けそうで動けない。絶妙なかげんだ。
これがエミリさんの言っていた”基本の手首緊縛”ってやつ? 困るくらいにうまいじゃん……。
「あのう……つばきちゃん」
「女王さまと呼びなさい――ごめんね、プレイに入ったら途切れさせちゃダメなの。お姉ちゃんから、そう教わった」
そう言う椿のおでこに汗がにじんでいる。
そうか、女王さまプレイって女性には肉体労働なんだ。
百七十センチの男を、百五十センチの椿がおさえ込むには全身の力がいる。彼女はおれのために限界まで身体を使いきろうとしていた。
椿が、ちらりとこちらを見る。ちょっぴり不安そうな表情。
あたりまえだ。彼女にとってもこれが初めての女王さまプレイなんだ。
……ちがうぞ。“初めての女王さまプレイ”どころじゃない。
椿はバージンだ。これが、初めて男とセクシャルなことをやるタイミングなんだ。
ふつうなら女の子は男のリードにまかせたいだろう。不安だらけだから。
なのに椿は、自分の不安を押さえて女王さまになろうとしている。
なぜだ。
答えはすぐひらめいた。
おれがそう、望んだから――。
ぶわっと指先まで熱が走った。
愛されるとは、こういう事だ。願いは相手に届き、彼女はおれのためにできない努力すら、してくれる。
だからこそおれは、彼女の愛情を当然と思ってはいけない。
小声で言う。
「ここで終わってもいいんだぜ、椿」
椿の目が泳いだ。逃げ出したいんだろう、当たり前だよ。それでいい。
「いいんだ椿。おれみたいな男は見捨てろよ。しょせん、その程度の男なん……痛ってええええ!!! アバラ……蹴っちゃ、ダメ……つばき」
うそ……椿ちゃんの蹴りが、クリーンヒット……。
「おれ、あばらが……折れてる……」
「――あっ、わすれてた、ごめんなさい!……ん?……それ、使えるわ」
椿は、あばらのあたりを撫ではじめた。ゆっくりと円を描くように――。
「……痛い?」
「う、うん」
「さわられたくない?」
「……二本折れてるらしいんで……できれば、さわらない……で」
椿はにっこりした。
「犬が、女王様にそんなことを言えると思っているの?」
全身が、ぞくぞくする。
こえええ。
こわい……けど。
なんだこの安心感は。
おかしいよ。
両手・両足を縛られているから抵抗できない。椿が、折れているアバラの上に体重を乗せれば、おれは瞬時に気絶する。
それでもいいんだ。椿になら、何をされてもかまわない。
女王さまは、愛があるから責められる。
奴隷は、愛があるから身体と感情を預けられるんだ。
愛する人に何もかもを預けきる愉悦。
何をされてもいい、どうされてもいいと思うほどに――おれは椿を愛している。
言葉も理性もいらない信頼関係は、とろけそうなほどに甘い。完全に許された甘さの中で、何もかもをぶちまける。
「――おれが悪かった」
「悪かった? なにが?」
彼女の作り出す言葉の迷路で、おれは十一歳に戻っていく。漆黒の、底の見えない夜のなかへ言葉がころがる。
「おれは、いい子でいなきゃいけなかった。うちは壊れていたから――。
強くて正しい男でなければダメなんだ――ほんとうのおれは、強くも正しくもないから。
ごめん、つばき。こんな男で……」
目の前で、これまでの日々が音を立てて組みあがっていった。
早くに亡くなった母親。ろくでなしの父。レイプした義母。おれと付き合っても、空っぽの中身に絶望して離れていった女の子たち。延々と続くコルヌイエホテルでの仕事。横暴なボス。
すべてのものが、ここにたどり着くためにあったんだ。
そして未来は、たったひとりの女性の形になった。
――椿。
いとしいひとの声が、夜の底に響く。かすかな明かりのように。
「いいの。強くもない、正しくもない――あたしは、そんなあなたが欲しいの。
これで、答えになる?」
「ありがとう。十七年間ずっとほしかった答えだよ、椿」
身体が、痛いほどに張りつめている。
大きく息をしたとき、温かい舌が耳に差し込まれた。思わず、声が出た。
「……あ……っ つばきっ!」
――この世には、男が正気を投げ打つに足る快楽が、存在する。
いちど味わってしまえば、そこから逃げられない。ひとりには戻れないからだ。
椿。きみ以外では埋まらない穴があいたよ――だから。
おれの余白を、あなたで埋めて――。
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