上 下
136 / 153
第11章「最深部」

第135話「もう二度と、幸せなどは欲しがるまい」

しおりを挟む

(UnsplashのAltin Ferreiraが撮影)

 清春は佐江を逃がしたくなくて、追い込みすぎると思いつつもやめられない。
 大きな手で佐江の顔を包み込んだまま、冷静な声を佐江に投げつける。

「おれは、きみが食えといえば食うし、休めといえば休むよ。でもきみ自身の言葉で言ってくれなければ、おれの身体は動かない――どうする、佐江?」

 冷静な男の声が、佐江を追い詰めているのが聞こえる。視線をそらしていた佐江が、清春の顔を見る。
 何かを決意している女の顔。
 清春が今いちばん見たくない、佐江の決然とした表情。

「じゃあ、言うわ。食べて休んで。もうこれ以上、真乃《まの》を心配させないで」

 清春は思わず目を閉じた。
 ああくそ。こんなところにまでおれの美しい妹は立ちはだかって、おれから佐江を奪っていく。
 最後まで、佐江は真乃のものなのだ。
 清春のものであったことは、一瞬もなく。

 佐江の顔を包み込んでいた両手が力をなくして落ち、清春の身体の脇でだらりと垂《た》れた。
 手のひらから、佐江のぬくもりが消えてゆく。

 では、最後にもう一度だけ力づくでおれのものにしては、どうだろうか。
 清春の理性的な脳はすばやく、佐江を抱くことで彼女を取り戻せる確率を計算する。

 目の前にいるほっそりした女を抱きすくめ、その身体を内側から食い荒らしたら、佐江が戻ってくるのではないか。
 清春は、あきらめがつくのではないか。

 勝ち目のない計算を清春が始めたとき、コルヌイエホテルのスイートルームでは、ドアベルの音が鳴った。
 清春は目を開ける。佐江を振り返り、

「ルームサービスだ。おれがここにいることは、知られたくないだろうから、寝室にいるよ」

 ぱたんとスイートの寝室ドアを閉め、清春は暗い部屋の中で頭を抱えた。

 この恋の始まりから、ひたすら清春を苦しめてきた事実がようやく清春の全身にしみわたってきた。

 どれほどおれが愛しても、彼女は真乃以外に目もくれない。
 どうして、おれではだめなんだ。何が足りない?
 これほど愛してもこれほど大切にしても、彼女はおれではないと言うんだ。

 閉じたドアの向こうから、テーブルに食器を並べる音がしてきた。
 薄いドア一枚をへだてたところで、理路整然としたサービスと佐江のおだやかな声が入り混じる。
 清春には子供のころからなじみのある、礼儀正しい、他人行儀《たにんぎょうぎ》な音だ。

 やがてスタッフが出ていく音が聞こえた。
 清春は暗い部屋の中で膝を抱えたまま目をあけた。

 そうか、おれはもともとそういう場所にしかいられない男か。
 ひとりで暗闇を見据《みす》える。

 きれいに掃除され整えられ、機能的で礼儀正しいが、一線をぜったいに超えることがない優雅な他人行儀。
 それこそが、子供のころから井上清春をつつんでいた世界だった。
 清春はその他人行儀な世界から一歩もでたことがなかった。

 あの夏の朝、清《きよ》らかな野蛮さを持つ岡本佐江と妹のキスを、見るまでは。
 今コルヌイエのスイートにいて、清春は暗い窓の向こうに見えるはずのない東京タワーを見る。

 凛然《りんぜん》と立ってまばゆく光る、清春にとっては永遠に手の届かない世界。

 あれがおれの手に入らないのなら、と清春は思った。
 もう二度と、幸せなどは欲しがるまい。
しおりを挟む
感想 22

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

今日の授業は保健体育

にのみや朱乃
恋愛
(性的描写あり) 僕は家庭教師として、高校三年生のユキの家に行った。 その日はちょうどユキ以外には誰もいなかった。 ユキは勉強したくない、科目を変えようと言う。ユキが提案した科目とは。

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

マッサージ

えぼりゅういち
恋愛
いつからか疎遠になっていた女友達が、ある日突然僕の家にやってきた。 背中のマッサージをするように言われ、大人しく従うものの、しばらく見ないうちにすっかり成長していたからだに触れて、興奮が止まらなくなってしまう。 僕たちはただの友達……。そう思いながらも、彼女の身体の感触が、冷静になることを許さない。

とある高校の淫らで背徳的な日常

神谷 愛
恋愛
とある高校に在籍する少女の話。 クラスメイトに手を出し、教師に手を出し、あちこちで好き放題している彼女の日常。 後輩も先輩も、教師も彼女の前では一匹の雌に過ぎなかった。 ノクターンとかにもある お気に入りをしてくれると喜ぶ。 感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。 してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。

処理中です...