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第11章「最深部」
第135話「もう二度と、幸せなどは欲しがるまい」
しおりを挟む(UnsplashのAltin Ferreiraが撮影)
清春は佐江を逃がしたくなくて、追い込みすぎると思いつつもやめられない。
大きな手で佐江の顔を包み込んだまま、冷静な声を佐江に投げつける。
「おれは、きみが食えといえば食うし、休めといえば休むよ。でもきみ自身の言葉で言ってくれなければ、おれの身体は動かない――どうする、佐江?」
冷静な男の声が、佐江を追い詰めているのが聞こえる。視線をそらしていた佐江が、清春の顔を見る。
何かを決意している女の顔。
清春が今いちばん見たくない、佐江の決然とした表情。
「じゃあ、言うわ。食べて休んで。もうこれ以上、真乃《まの》を心配させないで」
清春は思わず目を閉じた。
ああくそ。こんなところにまでおれの美しい妹は立ちはだかって、おれから佐江を奪っていく。
最後まで、佐江は真乃のものなのだ。
清春のものであったことは、一瞬もなく。
佐江の顔を包み込んでいた両手が力をなくして落ち、清春の身体の脇でだらりと垂《た》れた。
手のひらから、佐江のぬくもりが消えてゆく。
では、最後にもう一度だけ力づくでおれのものにしては、どうだろうか。
清春の理性的な脳はすばやく、佐江を抱くことで彼女を取り戻せる確率を計算する。
目の前にいるほっそりした女を抱きすくめ、その身体を内側から食い荒らしたら、佐江が戻ってくるのではないか。
清春は、あきらめがつくのではないか。
勝ち目のない計算を清春が始めたとき、コルヌイエホテルのスイートルームでは、ドアベルの音が鳴った。
清春は目を開ける。佐江を振り返り、
「ルームサービスだ。おれがここにいることは、知られたくないだろうから、寝室にいるよ」
ぱたんとスイートの寝室ドアを閉め、清春は暗い部屋の中で頭を抱えた。
この恋の始まりから、ひたすら清春を苦しめてきた事実がようやく清春の全身にしみわたってきた。
どれほどおれが愛しても、彼女は真乃以外に目もくれない。
どうして、おれではだめなんだ。何が足りない?
これほど愛してもこれほど大切にしても、彼女はおれではないと言うんだ。
閉じたドアの向こうから、テーブルに食器を並べる音がしてきた。
薄いドア一枚をへだてたところで、理路整然としたサービスと佐江のおだやかな声が入り混じる。
清春には子供のころからなじみのある、礼儀正しい、他人行儀《たにんぎょうぎ》な音だ。
やがてスタッフが出ていく音が聞こえた。
清春は暗い部屋の中で膝を抱えたまま目をあけた。
そうか、おれはもともとそういう場所にしかいられない男か。
ひとりで暗闇を見据《みす》える。
きれいに掃除され整えられ、機能的で礼儀正しいが、一線をぜったいに超えることがない優雅な他人行儀。
それこそが、子供のころから井上清春をつつんでいた世界だった。
清春はその他人行儀な世界から一歩もでたことがなかった。
あの夏の朝、清《きよ》らかな野蛮さを持つ岡本佐江と妹のキスを、見るまでは。
今コルヌイエのスイートにいて、清春は暗い窓の向こうに見えるはずのない東京タワーを見る。
凛然《りんぜん》と立ってまばゆく光る、清春にとっては永遠に手の届かない世界。
あれがおれの手に入らないのなら、と清春は思った。
もう二度と、幸せなどは欲しがるまい。
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