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第10章「いつか離れる日が来ても」
第109話「たった一本のヘアピンに、欲情している」
しおりを挟む清春は自宅についた。
リビングにブリーフケースを放り出し、バスルームに飛び込む。
乱暴にシャワーを浴びて、ついさっき見た佐江と大柄な男の景色を身体から消したい。
濡れた髪をタオルでこすりながらリビングのソファに、どさりと座り込む。
くそ、あの男、殺してやる。
清春の目の前で、佐江の頭を軽くたたいた男。
身長は百九十センチを超えているかもしれない。清春よりわずかに背が高く、小山のように筋肉がついている男だった。
大きな体のわりに、小動物のように敏捷に動く。
そして大きな手が、佐江の頭を叩いた。清春から数十メートルも離れていたが、佐江の笑い声すら聞こえた気がした。
ソファの上で、ぎりっと奥歯をかみしめる。
佐江は、清春にはまともに笑いかけてくれない。
彼女の笑顔が欲しくて、そのためだけに清春は今朝スイスに向けて発った、かつての恋人・銭屋香奈子と寝ることすらできなかったのに。
あやうく寝るところだったが。
香奈子は七年前と同じく、清春の身体をあっさりと手玉に取った。だからすべての準備をして、清春は香奈子と寝るためにオリエンタルホテルに行った。
昨日のことだ。
香奈子の好きなオリエンタルホテルのスイートをブッキングし、室内に簡易バーまでしつらえ、香奈子を抱くつもりで行ったのに――勃たなかった。
佐江を愛しているがゆえに。
なのに佐江は、清春以外の男に向かって無防備に笑う。
「くそ」
小声で自分をののしった時、清春はふとソファの上の小さな異物に気が付いた。
小さな、小さな黒いピン。
佐江が髪をまとめるときに使っている小さな金属製のヘアピンが、ソファのすみに落ちていた。
清春はヘアピンを手に取り、しばらく考えた。
清春の知る限り、佐江が最後に泊まったのは四日前だ。
清春が一晩だけコルヌイエホテルから抜け出すことができた夜だけ。
執拗な愛撫にとうとう佐江が音《ね》を上げて可愛らしく啼き、清春の舌が初めて佐江の身体に入り込んだ夜だ。
だが、あれは四日前。
そしてハウスキーパーは一日おきにこの部屋へきて、徹底的に掃除していく。最後の掃除は昨日の昼間だ。
ソファの座面にヘアピンが落ちていたら、ハウスキーパーが気づいて捨てている。
清春はもう一度、手の中のヘアピンを見た。
このピンがソファに落ちているということは、佐江は昨夜この部屋にきて、清春のいない部屋に泊まっていったということだ。
なぜだ?
そして理由はともかく、ほんの半日前、佐江はこの部屋にいたのだ。
そう思った瞬間、真っ白で乾ききった清春の部屋に、どっと佐江の色がよみがえった。
ついさっき、カフェで佐江の耳元にキスした時に香ったエルメスのトワレ、”李氏の庭”のにおい。
佐江の手の中にあったブラックコーヒーの香ばしいにおい。彼女が来ていたニットの紫色、はいていたピンヒールのベージュ色。
清春のいとおしい、色とにおいの集合体。
思わずヘアピンを唇にあてた。
ひんやりした金属のカケラに、佐江の体温が残っているような気がして、それだけでもう清春はどうしようもなく欲情した。
身体が、反応する。
昨日のオリエンタルホテルでは身動きもできなかった清春が、たった一本のヘアピンに、欲情している。
冷たいヘアピンに唇を押し当てながら、今夜はなにがあってもこの部屋に佐江を連れて帰ってこよう、と清春は考えた。
佐江のいない部屋にひとりで戻ってきたくない。
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