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第8章「夏が来りて、歌え」
第91話「最後のキス」
しおりを挟む香奈子の微笑みは、陽光に透き通るほど美しかった。
「彼女を見ているのよ、あたし。見ているも同然なの。それくらいあなたの身体から、その人の気配が匂うのよ。あの朝あなたが自分で気が付かずに、彼女の香りを身にまとっていたようにね」
「あの日、おれの身体から匂いなんてしませんでしたよ。貴女はいつもそうやっておれを罠にはめようとするんだ」
香奈子は半分カラになった酒のグラスを清春の方へ押しやり、飲むようにうながした。
「香りがしたわよ。あんまり夢中になると、自分でもわからなくなるものよ」
「自分のやっていることくらい、わかっていますよ」
ぐい、と残ったモヒートを一気に飲んで清春は乱暴に答えた。
「わかっているからこそ、今、自分が馬鹿なんじゃないかと思っているところです」
「ばか? なぜよ」
香奈子は形にいい脚を組み、つま先をぶらぶらさせながら清春を見た。清春は、シルクのストッキングに包まれた無防備な爪先を、名残《なごり》おしげに眺めた。
「気前のいい転職先と、資産家の美女を逃《のが》したからです」
「そうかもね」
香奈子はほがらかに笑った。
「でも、転職先についての提案は流れたわけじゃないわよ。ホールドにしておいてあげる。その気になったらいつでも連絡をちょうだい」
「馬鹿を言わないでください」
清春は怒ったように答えた。
「あなたのそばにいて、あなたに屈服しないでいられるわけがない」
「屈服すればいいじゃないの、女に服従する人生も悪くないわよ」
「できませんよ」
清春はカラになったグラスから氷をシルバーのアイスバケツにあけながら言った。
「自分に屈服した男なんて欲しくないくせに。もう一度あなたに捨てられたら、おれはもう生きていけません」
清春は新しいグラスを用意した。すんなりと伸びた薄いクリスタルのシャンパングラスだ。
「シャンパンいりますか?」
「いいわね」
香奈子は清春の手元をのぞきこんだ。
「まあ、ボエル&クロフじゃない。いい酒は出し惜しみしていたのね」
「あなたにふられたら、一人でヤケ酒しようと思っていたんです」
清春はなめらかな動作でシャンパンボトルをナプキンでおおった。ゆっくりと手首をひねり、そっと芳醇な香りのするシャンパンを開けてグラスに注いだ。
香奈子がグラスを持つと、清春も繊細なグラスの脚を持つ。
「あなたの幸せな将来に」
チン、と上質なクリスタルの澄んだ音が午後のホテルルームに響いた。
「ちょっと安心したわ。あたし、別れた男が不幸なのっていやなのよ」
「おれは、あなたのことが心配です」
清春はテーブルの向こうで金色の酒をうっとりと見つめる香奈子に言った。
「やっぱり、スイスに行きましょうか?」
「いまさら何を言っているの」
きよはる、と香奈子は笑い声をあげて清春の唇を指でふさいだ。
「そういう優しさは、かえって女を傷つけるって教えたでしょう」
「忘れました、あなたの言ったことなんて、全部忘れました」
テーブル越しに香奈子に手を伸ばす。
「最後に、もう一度だけ、キスをさせてください」
「別れのキス?」
「お礼のキスです」
ゆっくりと清春は香奈子にむかって身をかがめた。
「——愛していました」
清春の声はキスと交じって香奈子にまっすぐ向かっていく。
「おれの人生で、あれほど誰かを愛したことはありません。あなたが、はじめてでした」
「光栄ね」
香奈子が答える。
「きよはる。ありがとう」
清春は、思わず目を閉じた。
最後のキスは想像以上に甘く、全身にしみとおっていった。
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